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2024年7月号 今尾恵介さん寄稿「地図に見る横浜の激変ぶり」

 海、港、緑、歴史、地域、人々、さまざまな魅力を持つ横浜。この街の彩りを「よこはま彩発見」としてお届けします。今回は、横浜出身の地図研究家 今尾 恵介さんに地図に見る横浜の変化について寄稿していただきました。

最終更新日 2024年8月1日

「広報よこはま」2024年7月号「よこはま彩発見」の掲載内容はリンク先をご覧ください。

地図に見る横浜の激変ぶり

地図研究家 今尾 恵介

 
 私が平塚市から当時の横浜市保土ケ谷区(現旭区)に引っ越してきたのは4歳の頃であった。生まれたばかりの頃は港北区だったが、数年ぶりに横浜市民に戻った町が南希望が丘である。あたかも東海道新幹線が開通した1964(昭和39)年のことで、その「夢の超特急」は自宅から田んぼ越しに見ることができた。
 思えば平塚時代も住まいは東海道本線の引込線のすぐ近くで貨物列車を牽く蒸気機関車を眺めて育ったので、その後に鉄道関係の本を何冊も上梓したのはその幼児体験が関係しているのかもしれない。越してきたばかりの頃に希望ヶ丘駅を通る相鉄線はたしか2~3両で、木造の黄色い電車も走っていたことを覚えている。
 当時の横浜市はまさに人口急増中で、万騎が原中学校(図中A)に入ったら1学年が14クラスもあり、校庭には何棟ものプレハブ校舎が並んでいた。これだけの大規模校だから、毎年のクラス替えで前年と同級になる生徒が少なく、ほとんど「転校」のようだった。
 その中学校で1年生の時に出会ったのが2万5千分の1地形図である。社会科の先生が学校の載った「横浜西部」の実物を見せてくれたのだが、その精緻な画像に対する感激が現在の仕事のきっかけになったのは間違いない。さっそく自分でも当時の最新版「昭和43年修正」(図1)を購入、次は父の勤務先の川崎市、祖父母のいる横須賀市などの地形図を毎週のように買うのが楽しみだった。
 それからは建物の並び方や線路、等高線などを見ながら、実際の景色と比較するのが面白くなって、やがて北海道や沖縄など、行ったことのない地域の地形図を買っては現地の風景を想像したものである。それから半世紀以上経った現在が図2で、地域の激変ぶりは見ての通り。

 図1の南西端に見える善部町の方(図中B)から浅い谷をたどる小川は田んぼに並行していて、森に面した南側の流れは水がきれいだった。子供の頃はこのあたりでカエルを捕って遊び、たまにサワガニを見かけたものである。あぜ道を歩いているとアオダイショウに遭遇して驚いたことも。その田んぼも現在の図2では跡形もなく消え、戸建ての住宅やマンションに姿を変えている。旭高校の2年生だった1976(昭和51)年には相模鉄道いずみ野線も開通、雑木林はたちまち現在のような住宅地に変貌した。

 大学1年生だった1978(昭和53)年には南希望が丘から東横線の大倉山駅に近い場所に引っ越し、東海道新幹線の新横浜駅も歩ける距離となった。いつもは東急東横線で通学していたが、寝坊して遅刻しそうになった時には「奥の手」として新幹線で東京駅に出ることも。そのスピードの恩恵にはあずかったが、学生の身としてこの自由席特急券の支出はなかなか痛いペナルティでもあった。
 当時の新横浜駅周辺は駅の開業からすでに14年、 図3のように区画はきちんと整理されていたが雑草の茂る空地が大半で、いつになったら「市街地」になるのやらと心配していたほどだ。それがいつの間にか高いビルの建ち並ぶ 図4のような大都会になっている。

 駅にはすべての「のぞみ」が停車し、東京行きの列車から多くの人が降りるようになった。1985(昭和60)年には市営地下鉄がここまで延び、2023(令和5)年3月には東急・相鉄の新横浜線も開通して、交通の結節点としての重要性はますます高まっている。その西側には1998(平成10)年に7.2万人を収容する巨大な横浜国際総合競技場(日産スタジアム)も完成、2002(平成14)年には日韓サッカーワールドカップ、2019(令和元)年にはラグビーワールドカップ、そして2021(令和3)年の東京オリンピックにも利用された。

図5
図5 戦争が終わってまだ間もない頃。見渡す限りの田んぼの中に「養蛙場」が目立つ。食糧難のこの時代、ここで食用ガエルを養殖していた。1:10,000地形図「菊名」昭和23年(1948)修正

 あまり知られていないのは、その競技場の近くを流れる鳥山川の東側にあった「養蛙場」だ。1948(昭和23)年の地形図(図5)には見渡す限りの田んぼの中にその文字が記されている。単線だった横浜線の車窓を開け放していれば、食用ウシガエルの合唱が聞こえただろうか。

 横浜では海岸線もこの100年あまりで工業地帯など広い範囲で埋め立てが進んで激変、自然海岸は現在ほとんど残っていない。図6図7は磯子区から金沢区にかけての海沿いだが、1967(昭和42)年の図6の頃は中央に見える京浜富岡(現京急富岡)駅から歩いて数分で海岸だった。波が陸地を侵食した海食崖(かいしょくがい)が続き、その下には砂浜が広がり、横浜居留地の外国人たちはここで海水浴に興じ、これを俯瞰する高台には三条実美や松方正義らが別荘を構えた。図に見える検疫所(図中C)は1895(明治28)年に開設された長浜消毒所の後身で、若き日の野口英世もここで検疫官を務めたという。図7の同じ場所の横浜検疫所(図中F)はすでに内陸だが、前に広がる野鳥観察園の「汽水池」(並木ICの「IC」に重なる水面)は、かつて感染症患者の発生した船舶が検疫のため立ち寄る船溜りであった。

 この一帯が埋め立てられた理由は市街地に混在していた工場を移転させ、加えて住宅難に対応するためのもので、1971(昭和46)に着工して80年代後半にかけて行われている。埋立地は図7のように首都高速湾岸線や金沢シーサイドラインの東側が工場地帯、西側が住宅地となっているが、並木という新地名は、かつて富岡八幡宮沖の漁場の呼び名で、八幡宮の並木が目印となっていることに由来する。埋立地の地名でこのような事例はきわめて珍しい。
 山側に目を転じると、図6の谷津坂(現能見台)駅(図中D)の西側は能見台の宅地造成が始まっていた。この駅は太平洋戦争さなかの1944(昭和19)年6月に開業したもので、図6に見える大きな工場(堀口の地名付近、図中E)への通勤用に新設された。当時は大日本兵器(戦後は日平産業)の兵器工場で、多くの労働者が湘南富岡(現京急富岡)駅から徒歩で通勤したが、一般の利用者も多く非常に混雑していた。駅設置の認可を求める公文書によれば、「朝夕ノ雑沓ハ名状スベカラズ、従ツテ通勤工員ハ同駅ニ於テ空シク時間ヲ費スノ状態ナリ。現下ノ時局工員ノ能率如何ハ直チニ国運ノ消長ニ影響アルモノ」(鉄道省文書「東京急行電鉄」昭和18年巻2・国立公文書館蔵)とあるからよほどの混雑だったのだろう。送迎バスを走らせようとしても当時はガソリン制限で不可能だった。
 工場の跡地は現在ショッピングセンターとマンションという「平和の風景」に変貌しているが、だからこそ現代を生きる我々は過去を正しく知る必要がある。「時代の空気」が詰まった古い地図を探ってみてはいかがだろうか。

旧版地形図の実物を入手するのは難しいが、次の方法で見ることができる。

作者プロフィール

作者

 今尾(いまお) 恵介(けいすけ)
 地図研究家。1959年、横浜市生まれ。中学生の頃から地形図や時刻表を愛読。出版社勤務を経てフリーライター。『地図マニア 空想の旅』、『日本200年地図』、『地図帳の深読み』シリーズなど地図や地名、鉄道に関する著作多数。現在、日本地図センター客員研究員、日本地図学会評議員。

【受付終了】読者プレゼント

今尾恵介さん著書

 応募受付は終了し、 当選者に8月1日(木曜日)に賞品を発送しました。ご応募ありがとうございました。

 いつも『広報よこはま』・「よこはま彩発見」をご覧いただき、ありがとうございます。感想をお寄せいただいた方の中から抽選で、今尾 恵介さんご本人のサイン入り著書『地図バカ 地図好きの地図好きによる地図好きのための本』を10名様にプレゼントします。ご希望の方は、次の6項目を明記し、郵便はがき(〒231-0005 横浜市中区本町6-50-10 横浜市役所政策経営局広報課 あて)又は電子メール(ss-saihakken@city.yokohama.jp)でご応募ください。締切は2024年7月31日(水曜日) 必着です。
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 なお、当選者の発表は賞品の発送をもってかえさせていただきます。また、いただいた個人情報は、賞品の発送以外の目的には使用しません。

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