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「よこはま彩発見」紙面連載バックナンバー(2024年分)
最終更新日 2024年12月1日
「広報よこはま」紙面連載のバックナンバーをお届け
海、港、緑、歴史、地域、人々、さまざまな魅力を持つ横浜。この街の彩りを連載でお届けしている「よこはま彩発見」。2023(令和5)年1月号から「広報よこはま」紙面に連載し、さらに詳しい情報をウェブサイトに掲載しています。ここでは紙面の過去の連載(2024年)分を再掲しています。また、ウェブの掲載内容は各月記事の右下「さらに詳しい話」のリンク先をご参照ください。
2024年12月号 森日出夫さん寄稿「海から、空から、記憶を記録する」
扇島からみなとみらい21地区方向を望む(2023年撮影)
写真家 森 日出夫
生まれ育った横浜の街を撮り続けて半世紀が経ちます。海から、陸から、時には空からも撮影します。世の中の変化は早くて、昔からあった建物がなくなっていたり、風景が変わるとそこがどんな形でどんな色だったか思い出せなくなってしまう。 忘れ去られてしまう街や人の居た風景を残すのが私の日常です。好きな時間帯は明け方で、赤レンガ倉庫や大さん橋から見る港の朝焼けは光り輝いて美しく、希望を感じさせます。働く人やジョギングをしている人たちも朝日を浴びてドラマチックな絵になります。野毛や商店街も早朝に歩くとまた面白く、夜のザワザワとした喧噪がリセットされ、新しい一日が始まる予感を浴びながらシャッターを押すと昨日とは全く違う表情が写っています。
写真はヘリコプターで上空から撮影した長年気になっていた「扇島」の製鉄所です。許可を得るまで時間がかかりましたが、どうしても撮りたかった場所でした。失って初めて存在の大きさに気付くことがわかっていたからです。まさに休止される一歩手前でした。第2高炉の火が消える瞬間まで記録することができました。稼働が止まる夜中の3時頃、働いていた人たちの目に涙が溢れていたあの瞬間が忘れられません。
森 日出夫(もり ひでお)
写真家。1947年、横浜市生まれ。JPS(日本写真家協会)所属。長年撮り続けた横浜の港・街・人を「森の観測」と名付け、それらの作品を写真集や個展に多数発表。1996年、ニューヨーク ADC MERIT AWARD受賞。2001年、横浜文化賞奨励賞受賞。
【問合せ】政策経営局広報課 Tel:045-671-2331 Fax:045-661-2351
2024年11月号 昭和モダンと季節の移ろいを楽しむ場所 ~俣野別邸庭園の魅力〜
緑豊かな庭園と俣野別邸 ©BAUHAUSNEO
俣野別邸庭園 園長 栗林 恵美
俣野別邸庭園は、川の流れに沿って形成された高低差のある地形が特徴の風致公園です。
園内は、横浜市認定歴史的建造物に指定されている俣野別邸を中心とした内苑区と、開放的な芝生広場やさまざまな植栽で彩られた外苑区で構成され、晴れた日には富士山や丹沢山系を望めます。
俣野別邸は、住友家16代当主の私邸として1939(昭和14)年に建てられた和洋折衷住宅で、昭和初期モダニズムの影響下における建築物として、かつて国の重要文化財にも指定されていました。火事による焼失を経て再建された際は、保存されていた部材も使用され、扉や灯具など当時の姿を残す内装も見どころです。
外苑区は、サクラやツツジ、秋の紅葉など季節の移ろいを楽しめ、野鳥のさえずりも聞こえてきます。専属ガイドによる園内ツアー「庭園散歩」では、庭園の魅力を紹介しており毎月ご好評をいただいています。
コンサートや喫茶室でのティータイムなど、四季折々のさまざまな表情を楽しみながら、くつろぎの時間をお過ごしいただけます。意匠を凝らした住宅建築と緑豊かな庭園が調和する俣野別邸庭園。都市部でありながら今なお自然が多く残る唯一無二の空間へ、ぜひご来園ください。
俣野別邸庭園(邸内見学は有料)
【交通】「戸塚」・「藤沢」駅から神奈中バスに乗り「鉄砲宿」下車、徒歩5分。駐車場(有料)もあり。
【休園日】毎月第三木曜日(祝日の場合は翌平日)、12月29日~1月3日
【問合せ】俣野別邸庭園 Tel:045-852-8038 Fax:045-852-8048
2024年10月号 レトロな気分に浸れる横浜市電保存館 ~新たな模型ジオラマ「ハマジオラマ」が誕生
3つの運転ショーが楽しめる「ハマジオラマ」
横浜市電保存館館長 武藤 隆夫
横浜の路面電車の歴史は、今から120年前に始まりました。1904(明治37)年、横浜電気鉄道株式会社によって神奈川(現在の横浜駅付近)~大江橋(現在の桜木町駅前)間で開通。運賃は3銭、翌年には日露戦争の財源とするため 通行税が加算され4銭となりました。うどんやそばの値段が2銭の時代です。 やがて1921(大正10)年、今からおよそ 100年前に路面電車は市営化され、現在、市電保存館がある滝頭にて 横浜市電気局が発足。横浜市電の誕生です。
市電保存館は、市電が廃止された翌年の1973(昭和48)年に、磯子区滝頭の市電車両工場の跡地で開館、昨年には開館50周年を迎えました。館内に 展示されている市電の車内に入り、座席に座るとたちまち昔にタイムトリップ。どこか懐かしくてレトロな気分に浸ることができます。また「横浜の発展と交通」をテーマとした歴史展示コーナーでは、地図や写真、映像や実物展示などにより横浜の 歩みがご覧いただけます。
そして、お薦めは昨年7月にオープンした模型ジオラマ「ハマジオラマ」。横浜の街を模した全長9.5mのジオラマ上を電車やバスが走行、映像や照明、音響を駆使した運転ショーは子どもから大人まで楽しめます。横浜の温故知新を再発見できる市電保存館にお越しになりませんか?
横浜市電保存館(有料)
【交通】市営バス「市電保存館前」下車、徒歩1分。または「滝頭」下車、徒歩3分。
【休館】水・木曜(祝日の場合は開館)、年末年始
【問合せ】横浜市電保存館 Tel:045-754-8505 Fax:045-754-8507
2024年9月号 スタジアムに秘められたスペシャルナンバー
トリコロールカラーにライトアップされたスタジアム
新横浜公園(日産スタジアム)指定管理者代表団体 横浜市スポーツ協会 甲斐 啓太
今年、開場26年目を迎えた日産スタジアムには、管理運営を担当する歴代の職員で受け継がれるスペシャルナンバーが存在します。「3964」、「70103」、「8→9」、「23」。これらの数字は、当スタジアムにて決勝戦が行われた三大国際競技大会に関係するものです。一つ目の「3964」は、2002FIFAワールドカップTM日韓大会決勝戦前日、ブラジル代表がロッカー内でチームを鼓舞するため
に利用した数字です。二つ目の「70103」は、ラグビーワールドカップ2019TM日本大会の決勝戦 イングランド対南アフリカで記録された、今現在も破られていない特別な数字です。三つ目の「8→9」は、東京2020オリンピック競技大会サッカー競技会場として、大変名誉な予定変更を示した数字です。どんなナンバーなのか、詳しくは、ウェブ版をご覧ください。
また、スタジアムはさまざまな顔を持っています。スタジアムは文字通り総合競技場であり、観客収容人数は約72,000人と国内最大を誇ります。利用種目はサッカー、ラグビー、陸上競技のスポーツ利用に加え、トップアーティストによるコンサート公演など、多くの記録と皆様の記憶に残るシーンを支えてきました。横浜市立小学校体育大会に参加してフィールドで踊ったダンスが想い出という方も多いかもしれません。
一方、スタジアムを含む公園は市内最大の運動公園で、隣接する鶴見川に洪水などの恐れがある際に一時的に河川の水を引き込み、敷地内に溜めることで、流域への洪水被害を低減させる遊水地機能があります。四つ目の「23」は、遊水地機能に係る数字です。
皆様は日産スタジアム(新横浜公園)に、どのような想い出がありますか? まだ、ご縁が無い方は、是非、素敵な想い出づくりにお越しください。ご来場をお待ちしています!
【問合せ】日産スタジアム Tel:045-477-5000 Fax:045-477-5002
2024年8月号 ヨコハマ育ちの「浜なし」
浜なし(品種:豊水)
美味しいと評判の浜なし※ をご存じですか? 横浜市内で生産されるナシの総称で、いくつかの条件を満たしたナシが認定されます。見たことないな、どこで売っているの?という方が多いかもしれません。農家の庭先で直売していて、スーパーや市場にはあまり出回りません。ぎりぎりまで樹にならせておいて、完熟の一番美味しいタイミングを農家の目で見極めて収穫しているので、一般の市場流通になじまないからです。
鮮度が良くてみずみずしい完熟のナシ、浜なしの特長はそれだけではありません。1玉がとても立派、大きいです。より美味しいナシをみなさまにお届けするために、ナシ農家が集まって勉強会を開催するなど、技術の向上に切磋琢磨しています。
横浜では、昭和40~50年代にナシの栽培面積が拡大し、当時から主な品種は「豊水」「幸水」でした。次第に知名度が上がり、「浜なし」に表記が統一されたのは昭和50年代の後半のようです。
近年、地球温暖化の影響を受け、ナシの栽培も難しい状況が続いています。それらを乗り越え、丹精込めて栽培された浜なしを、この夏どうぞご賞味ください。
※浜なし:JA横浜の登録商標
持寄品評会(浜なし・浜ぶどうの販売)
(1)8月20日(火):JA横浜中里支店 (2)9月3日(火):JA横浜「ハマッ子」直売所みなみ店前
【販売時間】〈(1)(2)共通〉浜なし即売は10時から。展示物の販売は11時から(9時30分から会場で整理券配布)。 ※売切れ次第終了、荒天中止
【問合せ】JA横浜(TEL 045-805-6612)か下記へ
【問合せ】みどり環境局農業振興課 Tel:045-671-2637 Fax:045-664-4425
2024年7月号 地図に見る横浜の激変ぶり
地図研究家 今尾 恵介
昭和43年修正の左図では森や畑が目立ち、相鉄いずみ野線も未開通。最新の右図では建物を示す朱色で覆われ、開発が進んだ様子が見て取れる。
私が4歳の頃、平塚市から引っ越してきたのが 保土ケ谷区(現旭区) 南希望が丘であった。 東海道新幹線が開通した1964(昭和39)年のことである。その「夢の超特急」は自宅から田んぼ越しに見ることがで きた。最寄りの希望ケ丘駅を通る相鉄線はたしか2~3両で、木造の黄色い電車も走っていたことを覚えている。
当時の横浜市はまさに人口急増中で、入学した万騎が原中学校(図中A)は1学年に14クラスもあり、校庭には何棟ものプレハブ校舎。そこで出会ったのが2万5千分の1地形図である。社会科の先生が学校の載った「横浜西部」の実物を見せてくれたのが、現在の仕事のきっかけだ。
自分でも当時の最新版「昭和43年修正」(左図)を購入。建物の並び方や線路、等高線などを見ながら、実際の景色と比較するのが楽しみとなった。
近場のみではなく北海道や沖縄など、行ったことのない地域の地形図を買っては現地の風景を想像したものである。それから半世紀以上経った現在が右図で、地域の激変ぶりは見ての通り。古い地図には「時代の空気」が詰まっている。
今尾 恵介(いまお けいすけ)
地図研究家。1959年、横浜市生まれ。中学生の頃から地形図や時刻表を愛読。『地図マニア 空想の旅』、『日本200年地図』、『地図帳の深読み』シリーズなど地図や地名、鉄道に関する著作多数。
【問合せ】政策経営局広報課 Tel:045-671-2331 Fax:045-661-2351
2024年6月号 知っているようで知らない、横浜市歌115年の秘密
市歌が初めて披露された祝賀会の様子 『横浜開港五十年紀念帖』成田景暢編 横浜時事新報社 1909年 横浜市中央図書館所蔵
日本各地の独自の文化や習慣を紹介するテレビ番組で「横浜市民なら誰でも歌える!?」と話題になる横浜市歌。1909(明治42)年、横浜港の開港50周年を記念して作られました。
作詞は小説 『舞姫』などで知られる文豪 森鷗外(本名:森林太郎 1862-1922)、 作曲は東京音楽学校(現:東京藝術大学音楽学部)助教授の南能衛(就任当時 27歳の気鋭。1881-1952)です。南が先に曲を書き、あとからそれにあわせて鷗外が詞をつけるという、「填詞」という手法で作られました。
市歌がお披露目されたのは、7月1日の横浜開港五十周年記念式典の祝賀会 でした。指揮は横浜の音楽教育家の高野己之助、演奏は横須賀海軍楽隊で、市内小学校から選抜された300名の児童によって、高らかに歌われました。
1966(昭和41)年には「横浜市歌普及専門委員会」が、原曲ト長調から音程の低い調に移調したほか、複雑な音程やリズムを一部補修し、より広く市民が歌いやすいようにしました。
その後、カバー曲、アレンジ曲(ジャズ、ブルースバージョン、盆踊り、健康体操など)も多く創られ、横浜DeNAベイスターズの応援歌にも取り入れられました。
現在でも、横浜市立小学校では市歌を教材として取り上げ、小中学校の入学式や卒業式で歌えるよう歌唱指導をしたり、横浜開港祭の「ドリーム・オブ・ハーモニー」では、一般公募の300人規模の市民合唱団が、毎年ステージの1曲目 として市歌を歌い上げています。百十余年もの長きにわたり市民に愛されてきた横浜市歌、これからも末永く歌い継いでいきたいものです。
参考:横浜市中央図書館ウェブページ 『ブックリスト「読んで知る横浜市歌」』 横浜交響楽団編著『横浜開港150周年・横浜市歌100年 横浜市歌【横浜洋楽文化史】』
横浜市歌 原曲の利用について 横浜市歌原曲の著作権は保護期間を過ぎているため、原則として自由に利用することができます。
【問合せ】教育委員会事務局生涯学習文化財課 Tel:045-671-3282 Fax:045-224-5863
2024年5月号 能登半島と横浜
能登比咩神社(左)と鳥居の拡大写真(右)
横浜都市発展記念館 主任調査研究員 吉田 律人
2024(令和6)年の元日、能登半島の先端を震源とするマグニチュード7.6の地震が発生し、北陸地方は大きな揺れに襲われました。 津波が沿岸部を襲っただけでなく、輪島市の中心部では大規模な火災も発生しました。 さらに、土砂崩れなどによって孤立する集落もあり、被災地では、現在も不自由な生活を送られている方が多くいらっしゃいます。
横浜から能登半島は遠く離れた場所にありますが、深いつながりがあります。 例えば、鶴見区にある曹洞宗の大本山總持寺は、輪島市門前町に起源があります。また、横浜市内で銭湯を営み、支える人々のルーツも多くが能登半島にありました。
石川県の鹿島郡や羽咋郡、七尾市の神社には、「横浜」の文字が刻まれた鳥居や狛犬、灯籠が多くあります。 例えば、1923(大正12) 年に建立された鹿島郡中能登町の能登比咩神社の鳥居には、「横濱市福富町一丁目五十一番地 永瀬啓太郎」とあります。永瀬は銭湯で使用するガラス製品を扱う問屋で、その親戚も横浜市内で銭湯を経営していました。横浜で成功した銭湯経営者は、郷里への恩返しとして積極的に寄付を行い、それを見た人々がさらに横浜へ移住するという流れができていました。横浜市民の公衆衛生は能登半島出身者によって支えられていたのです。
1859(安政6)年の開港以降、横浜の地はさまざまな国や地域からの移住者を受け入れることで、コミュニティを構築してきました。 能登と横浜のつながりに想いをはせ、横浜から能登の復興を支え、応援していきましょう。
【問合せ】政策経営局広報課 Tel:045-671-2331 Fax:045-661-2351
2024年4月号 新生・横浜美術館に乞うご期待
横浜美術館外観(撮影:新津保 建秀)
横浜美術館 副館長・主席学芸員 柏木 智雄
1989(平成元)年に開催された横浜博覧会をご記憶でしょうか? 横浜美術館は、この博覧会のパビリオンの一つとしてお披露目され、同年11月に正式開館しました。
構想の段階から、国際的な美術交流の場、鑑賞と創造の場、美術情報センター、写真の収集、市民の美術活動の育成と発展を骨子とする横浜美術館の五つの理念が掲げられました。日本を代表する建築家・丹下健三が設計した建物は、この基本理念を具体化するべく、向かって右側に創造の場(アトリエ)、左側に美術情報センター(現美術図書室)、そして中央の横長の部分に鑑賞の場(展示室)が設けられたシンメトリー(左右対称)の構造を特徴としています。博覧会が終了し、美術館が正式に開館した後も、みなとみらい21地区では工事が続き、ダンプカーの往来で土ぼこりが舞う中でお客様を案内したこともありました。
みなとみらい21地区の発展を見守ってきた美術館は、開館30年を経て、2021年から大規模改修工事のため休館してきましたが、昨年11月に竣工しました。現在「第8回横浜トリエンナーレ」の会場となっており、「こどものアートひろば『はらっぱ』」などどなたでも楽しめる企画も実施しています。
閉幕後はコレクションの搬入などを経て、今年11月から順次オープンしていきます。新生・横浜美術館では、美術図書室が移設され、グランモール公園「美術の広場」から直接出入りできるようになります。その図書室の前には新しいギャラリーも増設されます。ショップ、カフェも新装開店。アトリエも設備が更新され、さらに充実した活動を展開します。エントランスのグランドギャラリーには、お子さま向けのスペースが新設されるほか、新しい椅子やテーブルがふんだんに用意され、誰でも自由にくつろぐことができます。どうぞご期待ください。
横浜美術館
「第8回横浜トリエンナーレ6月9日(日曜日)まで開催中
【交通】みなとみらい線「みなとみらい」駅下車、徒歩3分。または、JR根岸線・市営地下鉄ブルーライン「桜木町」駅下車、徒歩10分
【問合せ】横浜美術館 Tel:045-221-0300 Fax:045-221-0317
2024年3月号 中華街・華やぎの秘密
横浜中華街 (みなとみらい線「元町・中華街」駅下車)
作家 山崎 洋子
遠来の友に「あなたが一番自慢したい『横浜』に案内して」と請われ、迷わず中華街に決めた。横浜通みたいな顔して、そんなあたり前の観光地へ? と言われそうだが、いやいや、私が案内したいのは美味しい料理とアジアン雑貨だけではない。この町の成り立ちを知り、より味わい深いひと時を楽しんでほしいのだ。
幕末、日本は長い鎖国を解いて開国した。素朴な横浜村がその玄関口に選ばれ、異国の人、物、文化が雪崩を打って上陸。国際都市へと急変貌した。とはいえ問題は意思の疎通だ。言葉の壁は大きい。
そこで大活躍したのが、当初、欧米人の使用人として渡日した中国人。日本とは「漢字」という共通言語がある。加えて彼らには「華僑」という生き方がある。生まれは中国だが、外国へ渡り、そこに根を下ろして生きる人たちをそう呼ぶ。彼らは東洋と西洋、両方に精通している。活躍の場は通訳だけではなかった。海外貿易のルールから西洋の進んだ産業技術まで、日本人に伝授。欧米諸国、日本、どちらにも欠くべからざる存在になり、その人数も増えていったのである。
華僑は根を下ろした国に自分たちの居住区を作る。それがチャイナタウンだ。わが横浜中華街は、世界でもっとも華やかなチャイナタウンとして知られている。だが歴史を振り返れば、決して安穏な歩みではなかった。日清戦争、日中戦争の際は、敵国の真っただ中で生きることを余儀なくされた。それでもこの街の灯が消えることはなかった。それどころかさらに輝きを増している。なにがあろうと、私たちはこの街を愛しているのだ。
実は意外と知られていない歴史の一場面がある。明治5(1872)年、日中間どころか国際社会を揺るがす大事件が横浜で勃発した。驚きに満ちたその詳細は、右上の二次元コードからどうぞ。
山崎 洋子(やまざき ようこ)
1947年、京都府⽣まれ、横浜市在住。第32回江戸川乱歩賞受賞。『横浜開港絵巻 ⾚い崖の⼥』『横濱唐⼈お吉異聞』『天使はブルースを歌う』など横浜を舞台にした作品多数。
【問合せ】政策局広報課 Tel:671-2331 Fax:661-2351
2024年2月号 ヨコハマの輸出工芸
横浜芝山漆器「花鳥図屏風」(一部)横浜市歴史博物館所蔵
横浜市歴史博物館 学芸員 小林 光一郎
横浜では、幕末期の開港とともに、文字通り「港を開く」ことで海外との貿易が始まり、日本から工芸品や美術品も多く輸出されるようになりました。その後、工芸品などの輸出が増えるに従って、欧米人の好みに添うような形や文様といった工芸品が制作されるようになり、運搬などの手間の省ける横浜で制作が行われるようになりました。
本展示では、そんな輸出工芸品の中から、横浜眞葛焼、横浜芝山漆器、横浜彫刻家具、横浜輸出スカーフの四つに着目し、その歴史の一端を概観します。「Makuzu ware」として欧米の陶磁器製品に影響を与えた横浜眞葛焼や、「芝山象嵌」というレリーフ状に盛り上がって装飾された横浜芝山漆器、社寺建築に見られる彫刻の技法を取り入れ、輸出だけでなく横浜居住の外国人邸宅でも使われた横浜彫刻家具、世界のスカーフ生産の約60%を占め、意匠保護のため日本輸出スカーフ製造協同組合がサンプル提出を行わせていた時代の横浜輸出スカーフなど、海外において評価され、かつ、国内の残存数が少ない資料をご覧になれます。
横浜を冠したこれらの資料を一堂に見られる貴重な機会です。各資料がもつ美しさやデザインなど「世界に通じる魅力」を感じていただければと思います。
【問合せ】横浜市歴史博物館 Tel:912-7777 Fax:912-7781
2024年1月号 横浜消防の歩みと音楽隊 ―躍進・明るい未来へ
横浜市民防災センター(消防音楽隊担当) 永峯 義典
正月の風物詩の一つ、俳句の季語にもなっている出初式。横浜消防出初式2024は、1月7日(日曜日)に開催され、今年も横浜消防の消防力・災害対応力を披露します。横浜消防の歩みは、1859(安政6)年の横浜開港と同時期に民間の消防組が組織されたことに始まり、その翌年には最初の出初式も行われました。1871(明治4)年には英国から輸入された蒸気消防ポンプが配置されるなど、横浜は近代消防発祥の地とされています。1914(大正3)年には日本初の消防車、1933(昭和8)年には消防機関として日本初の救急車が配備されるなど、横浜消防は常に時代の最先端で、市民の皆様の安全・安心を守ってきました。その横浜消防の活動を皆様にお伝えする一役を担っているのが、横浜市消防音楽隊です。
1958(昭和33)年に横浜開港100周年、市政70周年を記念して創設された消防音楽隊は、市内各所で演奏・演技を通じた防災啓発活動を行うとともに、横浜開港記念みなと祭「ザよこはまパレード」や入港する大型客船の歓迎式、横浜マラソンなどで練習を重ねた演奏・演技を披露するなど、横浜のシティプロモーションも担っています。また、市内の中学生を対象に楽器指導ワークショップを実施するなど、子どもたちの創造性を育み、文化芸術を発展させるための次世代育成プログラムにも力を入れています。
来たる3月16日(土曜日)には、これまでの皆様の応援に感謝の気持ちを込めて、「躍進~明るい未来へ~」をテーマに創設65周年記念演奏会を開催します。1982(昭和57)年に発足した消防音楽隊のドリルチーム「ポートエンジェルス119」の新パレード服のお披露目など、輝かしい姿を披露します。音楽隊一同、皆様にお会いできることを楽しみにしています。
【問合せ】横浜市民防災センター Tel:312-0119 Fax:312-0386
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政策経営局シティプロモーション推進室広報課
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