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元屋敷の「みどり姫」
最終更新日 2022年1月27日
港南区の民話
元屋敷の「みどり姫」 大久保
太平洋戦争が激しかった昭和十九年ごろ、敷地の広い家では、食糧不足のため、庭を畑にして、耕したり、避難するための防空壕も掘ったりしたのでした。
大久保の元屋敷でも、穴を掘っていました。ところが、くわの先にカツンと石のあたる音がしたので、その石を掘り出してみると、お経の書いてある、こぶし大の石が次々とたくさん出てきたのでした。
そして、掘り出された石の下から骨つぼが出てきたのです。その近くから、たいせつに埋められたらしい石の板碑も出てきたのでした。
たたりがあっては・・・と、鎌倉から霊を鎮めることがでさるお坊さまが呼ばれました。
そして、現在まつってある土地に板碑を立て、ていねい葬ったのでした。
その時、立ちあった九十余歳のおばあさまの話によると・・・。
今から六百年ほどのむかし、南北朝時代といって、京都に政治の中心があったころのこと、勢力のあった一族のお姫さまで、「みどり姫」という人が、ひとりの若者に恋をしたんだって。
けれど、若者に自分の気持ちを告げられないうちに、若者は東国の任地へ出発してしまったんだそうな。
みどり姫は、その若者が忘れられず、とうとう若者を追って、旅に出たんだって。
むかしむかしのこと、武蔵の国といえば、北の果てのように思われていた時代だもの。
お姫さまが、よくぞこの大久保まで、たどり着いたものだと思うよ。
しかし、若者の住む国に近い、この里にたどり着いたころは、もう病気が重く、一歩も歩けなかったそうな。
村の人たちは、お姫さまの話を聞き、手厚く看病したそうだが、とうとうなくなってしまったそうな。
迷わず成仏できるように、と板碑をきざみ、墓の上にお経を書いた石を積んで、ねんごろに葬ったということだそうな。
だが、板碑が掘り出された時は、南朝年号の延元元年であったものを、お坊さまが北朝の廷文四年と彫り直されたのもおもしろいことよ。あの時代に北朝びいきのお坊さまだったのかな。
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