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永谷天神と菅秀才
最終更新日 2022年1月27日
港南区の民話
永谷天神と菅秀才 上永谷
永谷天満宮は、永谷の天神さまとして親しまれ、菅原道真が、自分の姿を鏡に映して自分で刻んだ、三つしかない木像のうちの一体をもつ神社として、知られています。
菅原道真は、平安時代の人ですが、醍醐天皇の信頼が厚く、時の支配者である藤原氏と対立し、延喜元年(901)九州の大宰府に流され、延喜三年その地で亡くなりました。
文学や文章を書くことに、すぐれていましたので、学問の神様といわれています。
菅原道真には、十三人の子どもがおりましたが、その第五子敦茂は、父の才能を受けつぎ菅秀才と呼ばれるほどで、父の道真も大いに期待し、三体の道真像のうちの一体を、そっと渡していたのでしょう。父の道真と共に、子どもたちも都から各地に追放されました。
伝説によると、敦茂は永谷の郷に移されたということです。
菅秀才敦茂が、相模に住んだという記録はありませんが、いまの上永谷の天神山のふもと、つまり、現在の貞昌院あたりに住んでいたと伝えられています。
敦茂は、天神山の頂上に立ち、はるか遠くの九州太宰府の父、道真公をしたいながら、朝夕のご挨拶をされたということです。
山の上には、敦茂が愛用した筆や、髪の毛を埋めたとも伝えられる、菅秀塚の碑があります。
むかし、その塚の上にあった杉の老木を切ったところ、村の人びとがケガをしたり、病気になったりしたと伝えられています。
菅原敦茂がいつ生まれ、いつ死んだのか、くわしいことはわかっていません。文章博士や、そのほか重要な役目につぎつぎとつくなど、親子二代の学者として有名でした。
道真像は敦茂から多くの人を経て、上杉乗国に伝えられ、夢のおつげによって、明応二年(1493)ここに社を造り、ご神体としておまつりしました。これが現在の永谷天満宮です。
外の二体の道真像は、道真のお墓のある福岡県の安楽寺と、生まれたところの大阪府の道明寺にあります。
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「ふるさと港南の昔ばなし50話」に収録されているお話です。
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