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政治の中心地「関」と港南の桜
最終更新日 2022年2月22日
港南区の民話
政治の中心地「関」と港南の桜 港南
江戸幕府の治めていたころ,いまの港南区内は野庭や永谷・芹が谷の地域は相模国,上大岡や笹下・大久保・日野の地域は武蔵国になっていたのじゃよ。
「ヒヤー そうだったの,わたし,神奈川県はみんな相模国かと思っていたわ」
江戸幕府のあのチョンマゲの武士の政治はアメリカからやって来た「黒船」と,幕府の政治を天皇の政治にもどそうと考える人たちの勢力によって,倒されてしまったのじゃよ。この時の黒船のことを表現した歌に,
「太平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)
たった四はい(隻)で夜も寝られず」
なんて歌われているが,上喜撰とは上等のお茶の一種じゃが,歌の意味を考えて見て下され,なるほどと思うじゃろ。
こうして,新しく明治政府ができ,「廃藩置県」というてな,武蔵国や相模国をやめて,横浜あたりを「神奈川県」,港南区は野庭・永谷方面を除いて「久良岐郡」となったのじゃ。
東樹院
そこで,笹下村字関の東樹院の近くには「久良岐郡郡役所」が置かれ,これに続いて,学校や郵便局・警察署・土地や家などの登記所ができ,政治や教育の中心地になったのじゃ。
もっと古くは,奈良時代のころに,笹下の天照大神の社のあたりに久良岐郡郡衙という役所が置かれたともいわれているのじゃ。
そこで武士を廃止した明治政府は,二十歳になった男子を兵隊にする制度にしたので,徴兵検査に来る者や「役所に用事があって来る者などがつめかけにぎやかになったのじゃ。
それにつれて,日用品・雑貨品・料理店・旅館・床屋・人力者屋・運送屋などで大いににぎわい,往来する人が“オシッコ”をするので道ばたの田んぼの稲は穂を付けなかったと言うことじゃった。
このあたりの家は,屋号で呼んだものじゃ。「まんじゅう屋・ざる屋・とうふ屋・せんべい屋・下駄屋・石川屋」などなどじゃよ。
それは,当時の久良岐郡は横浜駅あたりから金沢へかけての広い区域,その中心で関の村が栄えていたのは「かまくら道」や「かねさわ道」の中心でもあったからじゃよ。
もう一 つ,おもしろい話もあるのじゃよ。
昭和の初めごろ,日下小学校の移転問題があった時に,市の教育課長から電報が届いたのじゃ。なにしろ電話が少ない昔のことじゃからのう。
「アスユカレヌキョウイクカチョウ」
さあたいへん,あすの約束じゃが教育課長が今日来るという。あわてて関係者を集めた。待てどくらせどいっこうに来ないのじゃ。
役員がようすを見に役所に自転車を飛ばし,事の訳を話すと,いやいや,それは,
「アスユカレヌ・・・」のヌに「,」をつけると「あす行かれぬ,教育課長」という意味になる。一同,合点するやらがっかりするやら,大笑いしながら解散したのじゃと。
それに「港南の桜」の話もあるのじゃよ。
港南区役所横の「桜道入り口」から,公園墓地裏門までの千二百メートルの桜道と,笹下・釜利谷道路から七百メートルの関坂,合わせて千九百メートルに桜の木が植えられ,桜の名所になったのじゃ。
横浜が大きな街になり,人口もどんどん増え,それにつれて必要になった手ごろの墓地としてここが選ばれ,昭和六年に山を上手に利用して,ここに墓地を造ることになったのじゃよ。
墓地への参道にあたる土地を持っている農家が,参道用地を市へ寄付し,昭和八年日野公園墓地が完成したんじゃ。
この完成記念の一つとして,地元の町内会や当時活発に活動していた青年団が,活動の一つとして,桜道,関坂の参道にソメイヨシノの桜の苗木を植えることにしたのじゃ。
港南の桜(桜道)
両参道に植える予定じゃったが,桜道側を植え終わり,関坂側を上から植えていくと,坂の途中で苗が足りなくなって,とうとうそこで終わってしまったのじゃ。桜並木が下からつながっていないのは,そのためなんじゃよ。
この桜の木も,ことしでちょうど六十歳の年齢を迎えることになりますのじゃが,その間にいろいろのことがあったんじゃ。
太平洋戦争中は,食程増産に木陰がじゃまだと言われたり,燃料不足を補うために切り倒されそうになったり,近年になっては,交通妨害だ,日照権だ,とじゃま者扱いされてきたが,地元の理解や保存活動のおかげで「港南の桜まつり」も行われたりして,いまでも見事なお花見ができるんじゃ。
いま関坂交差点の角に建っている「横浜名所 港南の桜」と刻まれた記念碑の石は,もと笹下神明社の鳥居を活用したものでな。地域の方々の努力の跡をうかがうことができるというものじゃ。
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「ふるさと港南の昔ばなし50話」に収録されているお話です。
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