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第20回:道標が語るあわしまさまと淡島信仰

最終更新日 2024年7月9日

「一億念佛供養爲二世安楽」とした石塔
石塔


鶴見区上末吉4丁目の旧道沿いに行定庵という小さな寺がある。

寺というより、しもた屋風で奥に墓地がなければ誰も寺とは気付かないであろう。この行走庵の入口には、旧道に面して「一億念佛供養爲二世安楽」とした石塔が建っている。高さ87センチ、巾25センチの角塔で、塔身が今にも倒れそうに傾いている。その右側面に「右あわしま道、左当村ふどう道」と道しるべがある。(裏面)宝暦三酉年九月(1753年)
行定庵は、古くは大日山行定院といい、元禄4年(1691年)盛栄慶海の開基と伝える浄土宗の寺であった。その後、衰退して無住となり、下末吉曹洞宗の宝泉寺第十世大了慧満によって再興され、現在の宗旨に改めている。
以来、本寺宝泉寺の隠栖寺となっていた。浄土宗時代には尼寺で、墓地には慶海尼(元禄11年9月21日寂)の他尼僧の墓が並んでいる。行定院は、明治に行定庵と改められ、尼僧が住持した。


智参覚恵尼品位・明治二十三年十一月五日
桂法徳林尼品位・明治三十九年二月九日
眞岳秀禅尼品位・昭和十五年一月三十日

さて、この道標は、もと末吉橋の西袂にあったもので、今の場所に移ったのは、昭和の初めになってからという。道標には、上末吉村小林と施主名がみられるが、小林姓は梶山一帯に多い旧家である。また、梶山地区は古くより女人念仏講の盛んだったところである。

梶山二丁目の小林忠一さんの前に、寛文13年(1673年)造立の念仏講供養塔があり、施主14人がみな主婦ばかりで、うち11人が小林姓である。何れも「小林――内儀」となっている。末吉橋袂にあった道標の建立者小林には、あるいは複数の女人念仏講中がいたのかも知れない。末吉橋は梶山地区の東のはずれである。女人念仏講の多くは地縁関係で組織され、近隣の浄土宗寺院などを中心に行われたといわれ、梶山の女人念仏講も行定庵との関係があるようにわれる。あわしまさまは、女の神様として女性共通の信仰があり、この道標の建立も女人念仏講とのかかわりか充分考えられるのである。

鶴見川の土手沿いに太尾方面に行けば、大熊町の先が折本町の淡島神社である。むかし、江戸の方から釆た淡島神社参詣の旅人は橋のたもとの道しるべを見て、ホッと一息入れ、道を急いだものであろう。
淡島神社(現港北区折本町)は江戸時代には女人信仰の神として、広く庶民の間に崇敬されていたといわれる。「江戸名所図会」に「淡島神社・相模街道大熊村より左へ十三、四町人りて折本村にあり、神主雲路氏奉祀す。祭礼は三月三日、縁日は毎月元日、十三日にして、祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)及び神功皇后二座なり、勧請の初めは詳ならずと云ふ」と記している。紀州の和歌山にある加多神社がその総本社といわれ、そこでは今でも赤い紙人形を婦人のお守りとして配っている。

婦人病、子授け、安産祈頓に霊験があるとされている。
近世中期以降には、庶民の間で各地の霊場参拝を目的とした寺めぐりが盛んに行われた。女人念仏講なども村の生活の束縛からいっとき離れ、気の合った女性同士のリクレーションとして、講を中心に村外脱出が活発になっていったこともこの時代の特徴とみられる。天保年間(1830~1843)上淡島の願人という祭文(さいもん)読みが全国を歩いて淡島信仰を広めたという。
淡島神社は住吉神の女房神であったが、血の病にかかったため、住吉神社の門の扉にのせて海に流され、紀州の淡島に3月3日に漂着し祀られたと伝えられる。3月3日の神送りの行事の一つである「流し雛」はこれに由来するといわれている。折本町にある淡島神社の境内には女性の神様らしく針供養の大きな碑が建っている。この針を納める習慣は、あわしまさまに限られ、3月3日の節句には裁縫の上達を願って村の娘達が、古くなった針を納めたという。

淡島信仰は、医学の未発達の時代、女性ばかりを対象に、願人達によって全国に広まり一時期流行したが、一面農村の女性に活気を与え生活意欲にも転換があったことも確かなようである。今では、行定庵の道標は、もはや道しるべの用もなくなり長いこと路傍に淋しげに立ちつくしている。

鶴見区文化協会「鶴翔」より

鶴見歴史の会/大熊司

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