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第10回:大本山總持寺境内にある鉄道事故関係慰霊碑等について
最終更新日 2024年7月9日
曹洞宗大本山總持寺境内には、桜木町事故死者供養碑と鶴見事故供養碑がある。
桜木町電車事故死者慰霊碑(桜木観世音菩薩立像)
桜木町事故は昭和26年(1951年)4月24日午後1時45分ごろ、国鉄(現・JR)京浜東北線の5両編成の電車モハ63形が桜木町駅に進入する直前、最先頭車のパンダグラフが、断線し垂れ下がっていた架線にからまり破損。電気ショートにより車両火災が発生した。火は瞬く間に先頭車を全焼し、2両目に延焼。2両目も半焼し、死者103名、重軽傷者95名の大惨事となった。この事故は当時としては高架上のうえ、さらに車両構造の問題が指摘された。
モハ63形電車は、戦時中の昭和19年に資材節約のため簡略設計で製造された木造車両だった。できるだけ多くの乗客を乗せるため座席数を半分に減らし、乗り降りも迅速にさせるため出入り口は4箇所にしたが、現在のような非常用ドアコックは設置されていなかった。窓はガラスを節約のためか、上下約29cmの小さな3段窓だった。事故発生により車両火災が発生し、燃えやすい木造車両は瞬く間に火の海となった。桜木町駅の改札口にいちばん近い1両目の車両には150人もの乗客がいた。2両目の車両へ逃げようとしても満員の乗客で扉を開けることができない。窓を蹴破っても大人一人が抜け出すこともできないような状態だったため国鉄有史以来の大惨事となった。
モハ63形電車は、戦後、戦災車両補充のため量産され、復興に大きな功績を残したが、たまたまこの事故で欠陥が指摘された。直ちに改造(車両間の通路や非常用ドアコックの設置、窓の改造、車両の難燃化、パンタグラフの絶縁強化など)され、モハ72形モハ73形が生まれた。
桜木町事故で死去された犠牲者の方々のご冥福を祈って、昭和27年4月24日、当時の東京駅長と国鉄労組委員長の発起により、桜木観世音菩薩が建立された。像は彫刻家赤堀信平氏の自発的な申し出によって制作された。「桜木観世音菩薩」の名号及び遭難者氏名は、鎌倉円覚寺管長朝比奈宗源老師の揮ごう。桜木観音菩薩が建立された。
鶴見事故慰霊碑
鶴見事故とは、昭和38年(1963年)11月9日午後9時40分、国鉄(現・JR)東海道線新子安・鶴見間の滝坂不動踏切から、鶴見寄り約500m地点で、脱線転覆した下り貨物列車に衝突した上り横須賀線電車が脱線し、さらにさしかかった横須賀線下り電車が衝突した三重衝突事故である。この事故により死者161名、重軽傷者119名の犠牲者を出す大惨事が起きた。
事故現場付近の人の話によると、事故発生時、「ゴ-ン」という大きな地響きがした。悲鳴も聞こえた。阿鼻叫喚、さながら地獄絵のようであった。日赤の医療救護班も来て負傷者に輸血を行っていた。地元の人たちも血まみれになって手伝っていた。遺体は總持寺に運ばれた。
事故の原因は、貨物列車のいわゆる競合脱線(車両・線路・積荷・運転状況、過密ダイヤという単独要因ではなく、これらの要因が競合する脱線)であるとされた。
国鉄では、この原因を究明するため、北海道の根室本線落合・新得間の旧線に実験線を設備し、各種テストを行い、世界の鉄道界でなぞとされている競合脱線の解明に努めた結果、昭和47年2月に至り一応の結論を得た。この間緊急事故防止対策を行い、さらにこれらのテストを元に恒久的事故防止対策を行った。
昭和39年11月9日に発生した鶴見事故慰霊碑には、160人の物故者名が刻まれている。「鶴見事故慰霊碑」の文字は、總持寺独住18世孤峰禅師の筆。事故発生現場には五輪供養塔がある。
「日本国有鉄道百年写真史」より一部引用する。
文責:鶴見歴史の会副会長・林正己
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