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第3回:平岡広高が開いた 児童遊園地「花月園」

最終更新日 2024年7月9日

子どもたちを狂喜させた東洋一の大遊園地

新橋の料亭花月の経営者平岡広高は,妻とヨーロッパ旅行をし,パリ郊外の児童本位につくられた遊園地を見て,日本にも児童の体位向上のための児童遊園地の必要性を感じた。帰国後,鶴見の東福寺を訪れ,境内3万坪を借りて,大正3年(1914)児童遊園地「花月園」を開園した。はじめは,寺のまわりの動物園・噴水・花壇・大滝・ブランコ,本家茶屋などだったが,宣伝上手と第一次世界大戦の景気にのって施設も充実した。大山すべり・豆汽車・少女歌劇・つり橋・電気自動車・観覧車・飛行船塔・ボート池・野外音楽堂・アイススケートリンク・登山電車・たぬきの洞窟など,次々に珍しいものをつくり,子どもたちを狂喜させた。大人の社交場として,本格的なダンスホールもつくられ,谷崎潤一郎の『痴人の愛』,里見とんの『多情仏心』にも出てくる。お花見や菊人形・お化け大会・写真撮影大会など,年間を通じていろいろな催しが開かれ,外国人も大勢訪れて「東洋一の大遊園地」といわれた。弁天池の回廊には,当時の日本を代表する画家たちの絵馬が220枚奉納された。

花月園は全国児童絵画展発祥の地

第2の宝塚を目ざしてつくられた少女歌劇には最盛期50人もの踊り子がいて,児童のために「金太郎」や「さるかに合戦」などのおとぎ歌劇を上演した。音楽は成田為三,文芸は鈴木三重吉などが担当していたが,大正15年に解散した。大正5年に,日本ではじめての全国絵画展覧会を開催。2回目からは国際少年展覧会とし,中国・アメリカ・イギリス・フランスなどの児童画も展示。昭和4年まで14回開催した。

名物はタイ飯と子育まんじゅう

園内の売店では,花月園名物のタイ飯や子育まんじゅうが飛ぶように売れた。昭和に入り景気が悪くなっても客足は衰えなかったが,多摩川園や三笠園などができてからは下火になり,昭和8年,600万円の膨大な負債を抱え,花月園の経営権は京浜急行に移った。戦時下の体力奨励のため大山すべり跡に相撲場が建設され,昭和16年11月に大相撲一行400名による相撲が行われた。戦後,一時再開された花月園遊園地も,昭和21年11月の「鶴見十景学童絵画展」を最後にその幕をとじ,昭和25年6月,花月園の名を残して競輪場となった。
平岡広高にすすめられて子育まんじゅうを復活した天野芳太郎はペルーに渡り,カタクチイワシの肥料で財を成した。また,インカ帝国の遺跡を発見し,ペルーに天野博物館を設立した(下の画像は「昔の花月園の案内図」)。



昔の花月園の図

「つるみ・このまち・このひと」から

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