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外国船
最終更新日 2018年8月24日
外国船の来日は、ペリーが初めてというわけではありません。寛政4(1792)年に帝政ロシアの陸軍中尉アダム・ラクスマン(Laksman, Adam Kirillovich)が根室に来航したのに続き、文化元(1804)年、帝政ロシア貴族で露米毛皮会社の重役レザノフ(Rezanov, Nikolai Petrovich)が長崎に来航しました。いずれの場合もロシアの目的は通商でしたが、幕府は鎖国政策の下、拒絶しました。文化5(1808)年、イギリス軍艦フェートン号が長崎に侵入する事件が発生しました。この際、日本の対応は混乱し、長崎奉行松平康英は責任をとって切腹しました。文化8(1811)年には帝政ロシアの海軍中佐ゴローニン(Glovnin, Vasilii Mikhailovich)が国後島に測量目的で侵入し、幕府に捕らえられる事件が発生しています。その後も浦賀近海にイギリス船・アメリカ船が何度か出没しています。
参考文献
『日本史総合辞典』林陸朗ほか/編 東京書籍 1991.11
『来日西洋人名辞典』武内博/編著 日外アソシエーツ 1983.03
『横須賀市史』横須賀市史編纂委員会/編 横須賀市 1957.03
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