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知ってる?西区のむかし

最終更新日 2024年10月1日

西区文化協会が発行している広報誌「にしぶんか」から、 これまでの西区の歴史をひも解いていきます。ぜひ西区のむかしに思いをはせてみてください。

西区文化協会とは?

西区文化協会は1981(昭和56)年の創立。創作・芸能・茶道部門に分かれて活動しており、誰でも加入できます。「にしぶんか」は創立から5年後に発刊されました。西区に密着した文化と歴史、地域に隠された趣あるエピソードを交えて、温故知新を語り継ぐ広報誌です。地域振興課(区役所4階48番窓口)でお渡ししています。

第9回 有島武郎(2024年10月号掲載)・・・・・・にしぶんか No.36から

知ってる?西区のむかし第9回内容
知ってる?西区のむかし第9回

有島武郎(1879〜1923年)は西区老松町の税関宿舎で育ちました。山手の英和学院に通った経験を背景に書かれた短編小説が「一房の葡萄」です。主人公の「僕」は、登下校の際に目にしていた海と喫水線の赤い外国船を絵にしたいと思っていました。しかし、「僕」の持っている粗悪な絵の具ではその色を表現できません。そして外国人同級生が持っていた西洋絵具のうちの、海の濃紺と喫水線の赤の2色の絵の具が無性に欲しくなってしまいます。教室が空っぽになった時、その2色を自分のポケットに入れてしまいます。事件はすぐに発覚しました。少年の苦悩、それを優しく包んでくれる若い女教師との心の交流をみずみずしい感性で描いた短編小説「一房の葡萄」は、その後何度か教科書に採用されました。
これとよく似た短編「少年の日の思い出」(1931年発表)をドイツの作家ヘルマン・ヘッセ(1877~1962年)が書いています。
ヘッセは武郎の作品を知る機会はなかったと思われるので、独立して書かれたのでしょう。少年の罪と後悔、そしてその赦しは普遍のテーマなのかもしれません。
武郎の二人の弟、生馬と里見弴もそれぞれ画家、作家として活躍しました。

武郎の他の代表作:「或る女」「生れ出る悩み」など
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有島武郎
絵 石黒繁夫

第8回 高島嘉右衛門(2024年8月号掲載)・・・・・・にしぶんか No.35から

知ってる?西区のむかし第8回内容
知ってる?西区のむかし第8回

高島嘉右衛門は、江戸の材木商人の家に生まれ、横浜に出て材木商として成功しました。大隈重信と知り合い、明治3年、横浜の鉄道敷設用地海面埋立工事を落札します。そして、戸部から平沼一帯に広がっていた入江の一部を弓形に埋め立てて開港場(現在の神奈川県庁近く)までの線路の最短ルートを築きました。出来上がった埋立て地の、線路及び道路部分を除いた残りは嘉右衛門に与えられました。そこが横浜駅近くの「高島町」の町名の由来になっています。
PDFをダウンロードできます(PDF:1,523KB)

高島嘉右衛門
絵 鈴木太郎

第7回 西区の誕生~みなとみらいの開発(2024年6月号掲載)・・・・・・にしぶんか No.28から

知ってる?西区のむかし第7回内容
知ってる?西区のむかし第7回

昔は行政区画は警察署が単位でした。最初に神奈川署、その区域が浅間町から今の興福寺まで、あとの区域が平沼から岡野、戸部一帯は戸部署の管轄で、実際に生活している住人には不便でした。そこで新しく「戸部区」を設置して欲しいと住民が要望しましたが一度は却下されました。戦争が激しくなり、隣組同士が主体となっている戦時下、命令先が二つの署に分かれていて不便という事で昭和19年4月に南区に続いて西区が独立しました。
戦後に移り、「みなとみらい」ができたいきさつですが、ドックを金沢区の埋め立て区域に移した時、その跡地を横浜市が買い取り、接収で遅れた都市再開発がスタートしました。都市部の再開発で金沢等の海岸を埋め立て、そこに市内にある工場を移転させる。その跡地が今のみなとみらい地区です。交通渋滞を緩和するためにベイブリッジの建設等、六大事業を興しました。みなとみらいが整備されて「横浜博覧会」開かれました。
日本で石積みのドックというのはここにしかなく、ランドマークタワーができたとき、ドックヤードガーデンとして生まれ変わり国の重要文化財になりました。
「みなとみらい」がこのような形になるとは思いませんでした。まさに、西区は温故知新で古いものと新しいものがうまく共存しています。
PDFをダウンロードできます(PDF:190KB)

ドックヤードガーデン
ドックヤードガーデン(旧第2号船渠)

第6回 野毛山動物園(2024年4月号掲載)・・・・・・にしぶんか No.34から

知ってる?西区のむかし第6回内容
知ってる?西区のむかし第6回

日本貿易博覧会場は、博覧会終了2年後の1951(昭和26)年に野毛山遊園地として生まれ変わりました。大きな遊具は鶴見区の花月園から移築されたものでした。博覧会場で人気のあった動物園は遊園地の一部として開園。インドゾウの「はま子」、ラクダの「ツガル」などの大きな動物が翌年までにそろいました。現在は2頭のレッサーパンダを含む約90種の動物がいます。遊園地部分は貯水池建設のため1972(昭和47)年に閉鎖、「野毛山動物園」に名称変更されました。
遊園地の一部だった時代を含めて動物園は2021(令和3)年4月に開園70周年を迎えました。市内には他に金沢動物園、横浜動物園ズーラシア、万騎が原ちびっこ動物園が誕生し、野毛山動物園の廃園が検討されました。しかし、交通の便利さや入園料が無料なことにより、子どもたちが手軽に訪れて動物と触れ合える場として存続が決定。今に至っています。
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文化協会員が描いた野毛山動物園の動物たちの画像
文化協会員が描いた野毛山動物園の動物たち

第5回 日本貿易博覧会(2024年2月号掲載)・・・・・・にしぶんか No.34から

知ってる?西区のむかし第5回内容
知ってる?西区のむかし第5回

日本の復興をアピールし、貿易の再開を求めて1949(昭和24)年3月15日から6月15日まで、横浜市と神奈川県の共催により「日本貿易博覧会」が開催され、国内外から360万人の入場者数を記録しました。会場は野毛山公園と反町公園です。野毛山公園では児童館・天文館・観光館・特設野外会場・動物園などが設けられ、反町公園では産業館・企業紹介館・外国館などが設けられました。野毛山公園は子ども向けなど娯楽色の強いものが設けられていました。野毛山の特設野外会場では大人気を博したテレビジョンの公開実演のほか、のど自慢大会、人形劇、お化け屋敷などが行われました。横浜港から戦後初の生糸の輸出が行われたことから、この博覧会は横浜が貿易港として再出発する記念のイベントでもあったのです。
PDFをダウンロードできます(PDF:1,730KB)

日本貿易博覧会野毛山会場のにぎわいの画像
日本貿易博覧会野毛山会場のにぎわい

第4回 掃部山の銅像(2023年12月号掲載)・・・・・・にしぶんか No.32から

知ってる?西区のむかし第4回内容
知ってる?西区のむかし第4回

「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たつた四杯で 夜も眠れず」
幕末、ペリー提督が黒船四隻を率いて江戸湾に来航した時の世相を詠んだ戯れ歌です。上喜撰は宇治の高級茶で、蒸気船に引っ掛けています。歌の意味は、「泰平の世の中にたった四隻の黒船が来たことで(たった四杯の高級茶のカフェインで)夜も眠れなくなってしまったことよ」といったものです。
海岸には異国の巨船見たさに野次馬が押し寄せ、幕府は開港を迫るアメリカの圧力に右往左往しました。時の大老井伊直弼は、朝廷の許可(勅許)を得ずに独断で開港したと、尊皇派の怒りを買ってしまいます。そして「桜田門外の変」で倒れます。横浜にとっては直弼の「勇断」によって、寒漁村から大都市への未来が開けたと言うことができます。直弼の銅像は掃部山公園から海を見下ろしています。
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掃部山の銅像のスケッチ画像

第3回 近代水道の誕生(2023年10月号掲載)・・・・・・にしぶんか No.34から

知ってる?西区のむかし第3回内容
知ってる?西区のむかし第3回

開港場近くの居留地や日本人街には人口が密集していました。しかしこの地域は埋立地で水質が悪く、井戸を掘っても塩分を含んだ水しか得られませんでした。ここにきれいな大量の水を安定的に供給する必要に迫られました。この事業はイギリス人技師のヘンリー・パーマーに委託されました。パーマーは日本人技術者と一緒に、相模川上流から総延長43kmの導水管(鉄管)を敷設して水を野毛山に導き、貯水池と浄化槽を設けました。この導水管を埋設した道が水道道と呼ばれています。1887(明治20)年10月、野毛山から日本最初の近代水道として市街地への供給が開始されました。これを記念して野毛山にはパーマーの胸像と顕彰碑が建てられました。
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パーマーの胸像と顕彰碑

パーマーの胸像と顕彰碑の画像
パーマーの胸像と顕彰碑

第2回 新橋・横浜間の鉄道開通(2023年8月号掲載)・・・・・・にしぶんか No.35から

知ってる?西区のむかし第2回内容
知ってる?西区のむかし第2回

江戸から明治の世になると、国の近代化のために多くの人や物資を一度に運べる鉄道の敷設が大切だと考える人々が現れました。明治政府の大隈重信や伊藤博文たちでした。一方で、鉄道よりも軍備優先だと考えるグループがありましたが、明治天皇を後ろ盾にして鉄道建設計画は着々と進められました。今から150年ほど前の1872(明治5)年、新橋と横浜を結ぶ全長27kmの日本最初の鉄道が完成しました。その「初代横浜駅」は開港場に近い、今のJR桜木町駅の場所に造られました。その後、京都・大阪方面に鉄道を伸ばすために便利な、東京寄りの高島町に「二代目横浜駅」が。さらに現在の横浜駅は「三代目横浜駅」の場所に建て替えられています。新橋・横浜間に敷かれた鉄道がその後の鉄道の発展と、日本の近代化の礎となりました。
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初代横浜駅(横浜開港資料館所蔵)

初代横浜駅の画像
初代横浜駅

第1回 西洋文化との出会い(2023年6月号掲載)・・・・・・にしぶんか No.34から

知ってる?西区のむかし第1回内容
知ってる?西区のむかし第1回

アメリカのペリー艦隊の浦賀への来航をきっかけに、西欧諸国の日本に対する開港圧力が強まりました。武力で劣る日本はやむを得ず開港を決めましたが、その影響をできるだけ小さくするため、港は当時寒村だった横浜村(現在の神奈川県庁近く)に開設しました。東海道と港を結ぶための道路を突貫工事で造りました。現在の浅間町から、平沼、戸部を経て港へつながる最短道路です。このために野毛山は削られ、「野毛の切通し」が生まれました。野毛山からは、港近くの外国人居留地や外国船が望めましたし、イギリスやフランスの兵隊が訓練後に、
ラッパを吹きながら山手の駐屯地に戻る行軍も見えました。こうした光景は当時の人たちにとって異国情緒あふれる新鮮なものと映りました。
PDFをダウンロードできます(PDF:699KB)

イギリス軍駐屯兵の行進

イギリス軍駐屯兵の行進の画像
イギリス軍駐屯兵の行進

野毛の切通しより開港場方面を望む(横浜市立図書館所蔵)

野毛の切通しより開港場方面を望むの画像
野毛の切通しより開港場方面を望む

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このページへのお問合せ

西区制80 周年記念事業実行委員会(事務局:西区区政推進課内)

電話:045-320-8321

電話:045-320-8321

ファクス:045-314-8894

メールアドレス:ni-suishin@city.yokohama.jp

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