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4 パネルディスカッションあの頃の、ヨコハマは・・・

(6月11日開催分)

最終更新日 2020年2月12日

「横浜市立図書館創立90周年記念 パネルディスカッション あの頃の、ヨコハマは・・・ 記録集」

4パネルディスカッションあの頃の、ヨコハマは・・・(6月11日開催分)

はじめに関東大震災からの復興野毛山公園と復興記念大博覧会伊勢佐木町の賑わい真金町(まがねちょう)遊郭、港崎(みよざき)遊郭戦前の野毛横浜大空襲横浜の接収

平成23年6月11日(土曜日)午後2時~午後4時
会場:横浜市中央図書館ホール

●パネラーより自己紹介

・山崎 洋子(やまざき ようこ)
私と横浜の関わりは、中学生の頃です。京都府の宮津市という、日本海のそばに住んでいました。
当時、ハヤカワミステリーの大ファンだった私は、外国に憧れていました。当時は船で外国へ行く人が多かったので、外国への窓口としての横浜にも強く憧れていました。中学二年の春、修学旅行で東京、横浜に行きましたが、覚えているのは山下公園だけ。横浜に来た、という感動でいっぱいでした。その時、大人になったら絶対、横浜に住もうと決心したのです。夢が叶って、いまは横浜の住人です。何度か引っ越しをしましたが、通算すると38年くらい横浜に住んでることになります。江戸川乱歩賞をいただいて作家になりましたが、『花園の迷宮』というその作品は横浜を舞台にしたものでした。
以来、幕末から現代に至るまで、さまざまな時代の横浜を、小説、ノンフィクション、舞台脚本、エッセイなどで書き続けています。

・嶋田 昌子(しまだ まさこ))
出生:昭和15年横浜本牧生まれ。
略歴:県立平沼高等学校卒業。昭和48年に始めた家庭文庫をきっかけに地域活動に入る。昭和50年代に入り、中区社会教育指導員を務める。中区社会教育指導員時代のヨコハマ洋館探偵団を経て平成4年に横浜シティガイド協会を創設。(現在横浜シティガイド協会副会長)著述活動に『本牧のあゆみ』(本牧のあゆみ研究会/編、1986年)がある。また、ケーブルシティ横浜で「ふるさと本牧」を30本制作。

・小林 光政(こばやし みつまさ))
出生:横浜市中区花咲町。昭和6年9月18日生まれ。
現住所:横浜市西区東ヶ丘
略歴:本町小学校。神奈川県立工業高校建築科。中央大学第二商学部。小林紙工株式会社社長。その他公職 横浜の観光を考える会会長。NPO法人黄金町エリア。マネジメントセンター理事長。その他12か所役職あり

・大久保 文香(おおくぼ ふみか)
出生:昭和15年生まれ。昭和19年、本牧に住む。昭和42年、矢口台に引っ越す。略歴:横浜紅蘭女学校。横浜緑ヶ丘高校。関内の町作りに7年携わり、その後野毛大道芸に携わる。

・司会:黒岩 道子(横浜市中央図書館サービス課)
・エピソード朗読:菊池 真理(横浜市中央図書館サービス課)

○司会:それでは、お時間ですので横浜市立図書館創立90周年記念パネルディスカッション「あの頃の、ヨコハマは…」を始めさせていただきます。本日はあまりお天気のよくない中、御参加いただき、ありがとうございます。私は横浜市立図書館、中央図書館サービス課の黒岩と申します。本日の御案内役を担当させていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。(会場から拍手)本日のおおよその流れを御説明申し上げます。御承知のように、皆様からたくさんのエピソードと写真を御提供いただきました。その御紹介の仕方といたしましては図書館の90周年記念ということでございますので、90年前から時代の流れに沿ってエピソードを御紹介申し上げます。また、それにちなんだ話題をパネラーの皆様と会場の皆様からお話しいただくというように進めてまいりたいと思います。パネルディスカッションといいますと、パネラーの方だけがお話しされるという印象が強いかと思うのですけれども、今日はみんなで昔話をしましょうという「大昔話大会」というような趣向でございますので、皆様もどうぞ積極的に御参加いただければありがたいと存じております。ここでなぜこのような会をもつことになったかということを、少しお時間をいただきましてお話をさせていただきます。実は7、8年前頃でしょうか。本日パネラーとしてお招きしております山崎洋子さんから、大変に難しいお調べものの御依頼がございまして、書庫にもぐりこんでうんうんとうなっておりましたら、当時の古老というような地元の方たちが開港当時の様子をお話しになりまして、それをガリ版で書き残したという本に出会いました。その本のことを山崎さんに「こんな本がありましたよ。」とお話ししたところ、山崎さんの方から、現代でも昔を知っている人の話を聞いて残すことはとっても大切なことですよと。今、残しておかないとなくなってしまいますよ、というようなお話をいただきました。人の思い出に残った横浜の記憶をどうにか後世に残していくということは、図書館にとっても大きな役割だと思いますので、なるべく早くこういう機会を設けたいと思っていたのですが、なかなかそういうチャンスがございませんでした。特に先だって3月11日の大震災を経験して、何もかもなくなってしまった東北の、あの街を見ると横浜の記憶を後世に残していかなくちゃいけないという、その思いを大変強くもちます。横浜は御存知のように震災と戦災で大変大きな打撃を受けましたが、頑張って立ち直り、発展してきました。その力の源を知ることにもなるのではないかなと思って期待しております。本日ですが、御自分の見聞きしたことをお話しいただくという会でございますので、会場の皆様にもマイクをお回しいたします。是非御参加いただきたいと思っております。まぁ、御自分が見聞きしたことといいましても、お爺様とかお婆様からお聞きになったこと、そういうようなことでもお話しいただければありがたいと思います。ただ、そういう会でございますので、こういう本にこんなふうに書いてあった、というようなお話は、今日のところはちょっと御勘弁いただければありがたいと思います。さて、長話をして申しわけございませんでした。本日お招きいたしましたパネラーの皆様を、御紹介申し上げます。まず、舞台の内側から御紹介申し上げます。山崎洋子さんです。
○山崎:こんにちは。山崎洋子と申します。(会場から拍手)あの、パネラーの自己紹介という一枚がありますけれども、これ、私だけ違う書き方をしてまして、ちゃんと履歴書みたいに書くんだというのを知らなかったものですから、こう書いちゃったのですけどね。私だけ、生まれた年が出てません。隠したわけじゃないんです。ただ忘れただけで、昭和22年の生まれです。多分、この中では一番若いですね。ここにも、通算すると38年ぐらい横浜に住んでるって書いてるんで、随分いろんなことを知ってるだろうと思われますよね。ですけれども実は今、南区に住んでまして、この横浜の真ん中辺りに住んでからまだ、そんなに長くありません。それからいろんなことに関わったり、横浜にいっぱい友達ができたりして、なじみ出してからまだ20年と経ってないので多分、古い横浜のことは会場のみなさんの方がたくさん知ってらっしゃるんではないかと思います。今日はそれをいろいろと聞かせていただこうと思ってます。よろしくお願いします。(会場から拍手)
○司会:はい、次に小林光政様です。お願いいたします。
○小林:みなさん、こんにちは、どうも。私はこの花咲町一丁目、叶家さんという紳士の酒場があるのですが、その前で昭和6年に生まれました。戦時中は本町小学校に通いましたけれども、その後、反町にあります神奈川工業へ行きまして、あとは大学へ行ったのですけれども、それからずっと家業を継いでおりまして、一時は、終戦直後にですね、野毛の露店のお手伝いもさせていただいた。そういう経験もございますし、まぁ、その後、役割としては野毛地区街づくり会の会長とかですね、振興組合の理事長とか。現在は黄金町地区のですね、特殊飲食店の撲滅運動に参加をして、NPO黄金町エリアマネジメントセンターの理事長というような役割を今現在、やっているわけでございます。何しろ本を読むのがあまり好きではございませんので、自分の実体験したものをちょっとお話しをさせていただこうと、こう思っております。どうぞよろしくお願いいたします。(会場から拍手)
○司会:はい、大久保文香様です。
○大久保:皆様、こんにちは。大久保文香です。私は昭和15年、東京都豊島区雑司が谷に生まれました。で、何故か4歳のときに横浜市中区本牧元町に疎開で引越してまいりました。それからずっと横浜市の中区で育って、現在に至っております。私の思い出は本当に変遷のあった本牧周辺。そして大人になってからの関内と野毛地区でございます。どうぞ皆様に教えていただくことが、たくさんございますので、よろしくお願いいたします。
(会場から拍手)
○司会:はい、嶋田昌子様です。
○嶋田:嶋田でございます。(「まぁーちゃん」と会場から声あり)恐ろしい掛け声をいただきました。歳を最初に申し上げないといけませんが、今日の自己紹介というところで、もうばらしてございます。1940年生まれ、あるいは私と大久保さんの歳は、実は紀元2600年ということでございます。お友達に紀子さん紀美子さん、そういう方々のお名前が、お分かりですよね。紀元節の紀、こうしたものをとったお名前の方が多い年に生まれました。
今は横浜シティガイド協会を立ち上げて副会長をしておりますが、実は先ほど司会の黒岩さんの御紹介のところでちょっと一点、もう既に絡みたいと思っております。山崎洋子さんに開港当時のいわゆる記録、これを、あの、手書きのガリ版刷りの本をお見せになったと。で、今日は私の丁度自己紹介のところに『本牧のあゆみ』という本が出ておりますが、ここに実はそれを使い、その後「ふるさと本牧」というビデオを30分、ケーブルシティで作りました。
そのときに使った文章があの本にいっぱい入っているんですよ。
開港当時、この横浜に、つまり私の場合はその本牧ですが、本牧に鳥取藩のいわゆるおさむらいたちが二千数百人やってまいりました。当時の本牧の村人二千人強。つまり村人よりももっと多いおさむらいが来て、彼らは黒船に驚くよりもサムライに驚いたというようなことが出ております。そんなことを今日、いみじくも最初に御紹介いただいたので喜んでおります。
実はその『本牧のあゆみ』を作るときにお世話になった方の御子息が今日、お見えなのでおやっと思いながら、大変喜んでおります。どうぞよろしくお願いいたします。(会場から拍手)
○司会:ありがとうございました。それではいよいよエピソードの御紹介に入ってまいりたいと思います。お手持ちに分厚い資料をお渡ししてございます。お話の流れといたしましてエピソード一覧というのをご覧いただきますと、おおよそエピソードの内容について、テーマごとに細かく分けさせていただいております。文書でお寄せいただいたものと、私どもがお邪魔してお話をうかがったものとございます。お一人の方でいろいろなことをお話ししていただいておりますが、ちょっと整理の都合上、分割してテーマごとに番号を振らせていただいております。で、そのうしろにお一人ずつのお話の内容を付けさせていただいておりますので、それぞれお読みいただけると楽しいかなと思っております。
また、いかんせん昔話、ご自分の記憶でお話しされたことですので、学術的に正しいかどうかとか、史実上もどうも本と違うことを言ってるよ、みたいなことは散見されますけれども、まぁ、それはそれとして今日のところは聞き逃していただくということでよろしくお願いいたします。いずれこの内容につきましては図書館で書き起こしまして冊子といたしますが、そのときに若干の歴史と、いわゆる史実との整合性というようなことでの注意書きを付けさせていただきますので、今日のところはお気楽に、どうぞ御遠慮なくお話しいただければと思います。

●関東大震災からの復興
○司会:はい、それでは先ほど申し上げましたように、90年前といいますと、やはり関東大震災でございます。ただ、関東大震災を経験した方というのは、今おいくつになられるのでしょうね、ちょっと計算がよくできませんけれども。ということで御身内の方から関東大震災の様子についてお聞きになっているお話をうかがうということで、とりあえず口火を切るということで小林さん、お話しいただけますか。
○小林:本来ですと経験をされた方にお話をいただくのが一番いいのですけれども、私は昭和6年生まれですので、もう既に大震災後、7年も経って生まれたわけでございまして、実体験もなければ何もないわけでございますけれども、ただ、7年目に生まれてまして、実際にものごころがついたのは昭和10年頃になりますので、その辺まで、この関東大震災というのはいろんなところで、まだその傷痕が残ってたわけですね。まだバラックのおうちも実は野毛地区には2、3軒あったわけで、近所の人は「未だにまだあのうちはバラックだよ。」そんなことを言ってたことを思い出すわけでございますが、この中でお手を挙げられて、もう生まれておられた方がお一人おられたようでございますが、そういう方に本当はお聞きすると一番いいんでしょうけれども、ただひとつ、これは私が父から話を聞いたことなんですけれども、関東大震災でおそらく80パーセント以上、90パーセントといわれている人もいるんですが、その家屋の焼失があったわけでございますが、それに対していち早く行政が動いてるんですね。当時は渡辺市長だったわけでございますけれども、震災が起きて2週間後にですね、もう中央政府に嘆願をしているんですね。このままいけばおそらく東京を中心にですね、復興をされてしまうだろう。横浜はのけものになるであろうということを察知をいたしまして、もう2週間後にはですね、時の内相に御目通りをしてですね、陳情したと、こういうことでございまして、その大臣というのが後藤新平さんでございます。この後藤新平さんは大変いろいろな街づくりに貢献をしてきて、そういう経験があったわけでございまして、このときにその部下をいち早く横浜に派遣をして、横浜と東京は全くイコールの状態で復興させると、こういうお墨付きをいただいたと、こういうことは父から私は聞いたわけでございます。このことがですね、現在の横浜にも繋がっているわけでございまして、私は一番大事なところをやはり父がきちっと教えてくれたなということで実感をもっております。その後、地元で、これはまぁ、皆さんからお聞きしたことですけれども、原三溪さんが復興の会、これは嶋田さん、復興会というんでしょうか。
○嶋田:いわゆる復興にかかる財界人のまとめ役でございますよね。
○小林:そういう民間でそういう団体を作ってですね、復興を、どうしたら復興がいち早くできるだろう。どういうものが必要なのかということをですね、おそらく街づくり、鉄道から橋から道路、それから区画整理もですね、おそらくその中で話題が出たんだろうと思います。幸いなことに昭和元年にはですね、その会は解散をしてるんですね。といいますのは大変に復興が早かったんだろうと、こう思います。
そのとき忘れてならないのがアメリカからのですね、大変な支援があったと聞いております。アメリカにお金を借りたということですね。勿論無償の援助もあったようですけれども、大変な恩を受けているわけです。
例えばここら辺にあります橋ですね。あの大江橋や弁天橋(地図(2)C-1、2参照(PDF(PDF:2,155KB))、これらの橋についてはですね、だいたい昭和の3年か4年頃に作られておりますし、現在のこの桜木・平戸線なんていう通りもですね、そのときの区画整理で延長されました。それまでの大正時代、震災まではこの平戸線、桜木・平戸線はですね、黄金町、初音町のところで止まってるんですね。あそこまでしかなかったんです。その通りを拡張してますし、それからこの野毛山から日ノ出町までの図書館の下の通りなんですが、これもなかったわけでございまして、戸部の方からきた道はそのまま野毛坂に降りて吉田町の方に行ったということでございまして、そういう区画整理をしてますけど、そういう恩恵を我々は受けているわけでございます。
またその後、第二次大戦というですね、大変な問題が起きるわけでございますけれども、それはまず置いといて、とにかくアメリカから支援をいただいた。それと渡辺市長がですね、急きょ2週間以内にやはり中央政府に嘆願した。こういうことはやはり次の世代にきちっと伝えておかなきゃいけないことかなぁと、そんな具合に思っております。
それからもうひとつ震災のことに関連してですね、横浜に震災記念館があったということは皆さん、御存知でございましょうか?御存知の方、ちょっとお手を挙げていただければと思います。あぁ、ありがとうございます。あの老松会館という結婚式場を御存知の方は手を挙げていただけますか。あぁ、多いですね。あの老松会館の前身は、あの建物そのものがこの震災記念館であったわけでございまして、私は父が、図書館へ行って遊んでこいと、本でも読んで時間をつぶせと言われたんですけれども、本を読むのは好きではございませんでしたので、つい隣の震災記念館に行ってですね、ジオラマ、入りますとすぐジオラマがあったんですね。震災で横浜が燃えている、この中心街が燃えているその模型が実はドーンと構えてありました。その前でおそらく2、30分いつも見てですね、そのときの思いを何となく頭に焼き付けてあるのでございますね。今、こういう本がおそらく図書館にはあると思いますけれども、是非ご覧をいただいて、まぁ、見たら面白いかなぁと思いますし、やはりこの震災というのは忘れた頃にやってくるということでございまして、今回の3月11日の大震災もですね、やはり何か残してですね、皆さんの心の中にずっと伝えて、時代から時代へ伝えていかなきゃいけないんじゃないかと。そんなことでちょっと震災記念館のお話もしました。外側には焼けた市電の無残な姿をしたものも飾ってありましたし、まぁ、そういうことで私は大変この図書館よりもどちらかというと震災記念館の方に、記憶が鮮明に残っているということでございます。以上でございます。
○司会:ありがとうございます。私、先ほど見落としてしまいました。関東大震災でお手を挙げた方、もう一度お手を挙げていただけますか。どうぞ。マイクが行きます。
○女性:すいません、父が3歳で関東大震災を経験していて、結構しっかり覚えておりますので。(マイクを隣に渡す)
○男性(女性の父親):私が関東大震災、体験したのは3歳4か月ぐらい。場所は野毛山のお不動様から大神宮様へ行く、あの曲がり角で高い石垣がある場所があります。私は父親に連れられて行きましてね、その石垣の曲がり角の手前でもって父親が誰かと話してたんですね、立ち話してた。何ですか急に父親に抱き上げられて、自分では何が何だかわかりませんでした。これが最初の揺れだったらしいんですね。それであの、今、こっち一角が事務所になってますけど、当時お不動様の建築工事ですかねぇ、材料置場があった。そこへ一時避難させてもらいまして、今、お不動さんの前に「海員悼逝之碑」って高い、石でもって塔のようなものが建ててあります。あれが根元から崖の方へ向かって折れてね。中は空洞ですからね、その空洞の中で避難して生活していた人たちの姿も見た記憶があります。まぁ、今となってはねぇ、あの大震災を体験したって、ほんと、話し手も少ないんじゃないかと思いますけどね。でも子ども心にもあの恐ろしい体験というのは身に染みてますからね、その場所へ行けば今でもね、お話しすることができると思います。
○女性:ちょっと補足させてください。
○司会:はい、どうぞ。
○女性:あと父から聞いた話なんですけれども、大神宮さんのところが延焼しないようにというので、みんなで力をあわせて壊したという話は聞いたことはあるんですが、父の話ですと暴れ馬や暴れ牛に綱を付けて、それに引かせて社殿を壊したそうです。それで延焼を防いだということです。そんな話も聞きました。
○男性:今の話に補足するようですけれども、とりあえず大神宮さんの境内へ避難したんですね、あの高台へ。結構大勢の人に囲まれたと思います。そのうちにですね、戸部の方に火の手が上がって、その火の粉でもって大神宮さんのね、正面にある拝殿、あれに火が入ったら避難している人がみんな焼け死んでしまうと。その拝殿を壊そうということになったらしいんですね。それで人の力ではあの拝殿、壊せませんので、丁度火に追われて暴れ馬が来たんで、その暴れ馬を捕まえてね、何で縛ったか知らないけどね、柱へ縛り付けてね。暴れ馬の尻を叩いて、暴れ馬の力でもって、あの拝殿を倒して火の気をよけたと。幼い心にそんな記憶があります。
○司会:ありがとうございました。震災の話ですとやっぱりどうしても山下公園とか、あの港の辺りの話をちょっと山崎さんからしていただけますか。
○山崎:はい、私は体験したわけではないんですけれども、この自己紹介のところに書いておりますけど、私が初めて見た横浜は、中学2年の修学旅行で来た横浜なんですね。関西で生まれ育ちましたから。で、東京、横浜と行ったのに、そのときに行ったその山下公園だけをもうありありと覚えてます。で、絶対私は大人になったら横浜に住むんだと、その時に決めたんですね。ただ、その山下公園がその震災によってできた公園だということを知るのはずっとあとになってからです。
今もテレビで毎日のようにあのがれきの山を見ますけれども、あのがれきが有害物質や何かを含んだ建材があるからいろんなところに捨てられないそうですけども、その当時はあまり有害物質を含んだ建材はなかったんでしょうね。あの山下公園のところは海だったそうですけれど、そこへそういったがれきをうずめて、そしてできた公園が山下公園なんだそうです、多分そのくらいのことは皆さん御存知でしょうけれども、これが日本初の臨海公園なんだそうですね。
で、山下公園の前に建ってる、あのホテルニューグランドというのも震災がきっかけですよね。それまで横浜には開港以来、外国商館だとか領事館だとかたくさんありましたから、外国人がたくさん住んでたし、また、外国からやって来た人たちが泊まるホテルがたくさんありました。今はもうあまり名前が残ってないホテルもいろいろあったんですね。中で一番有名だったのがグランドホテルってのがありまして、今のあの山下公園前のあの通りをかなり元町側へ行った方ですよね。そっちの方にグランドホテルという素晴らしいホテルがありまして、泊まるのはほとんど外国人でしたけど、それも関東大震災で崩れてしまいました。
で、横浜にはその外国人用ホテルってのがなくなったんですけど、このままではもうさっきのお話じゃないですけど全部、商館から何から全部東京に取られてしまう。横浜はだめになってしまう。とにかく外国人用ホテルを復興のシンボルとして建てようじゃないかというので、官民一体となって建てられたのが今のホテルニューグランドです。ですからその前のグランドホテルっていうのはイギリス人が経営者だったそうですけれども、それとは全然関係ないんですね、ホテルニューグランドというのは。横浜市とそれから民間が一緒になって建てたホテルで、今もお家賃といいますかね、横浜市に払ってるんだそうですよ。あそこが復興のシンボルでした、山下公園とホテルニューグランドというのが。
○司会:それから、復興小学校についてのエピソードを、寄せられた方がいらっしゃいます。(「石川小学校スロープ階段写真」映写)今、スクリーンにお見せするのは復興小学校の中のひとつ、31校あったんですけど、そのうちの石川小学校のスロープ階段でございます。復興小学校は、やはり木造だった学校が全部つぶれましたので、鉄筋で全部作りなおしまして、その中に避難用のスロープなんですかね、嶋田さん。あの、駆けずり回ったという噂話は聞いておりますけれども。
○嶋田:何か遂に古老の中に入れられてしまったような気がしますけれども、私はあの石川小学校ではなくて間門小学校のスロープを覚えてます。この中にもたくさんね、覚えてる方、いらっしゃいますよね。あれ、上からね、駆け降りるんですよ。それから、滑り降りるのはなかなか難しい、非常に緩やかなので。で、駆けるときに両手をぱぁーっと横にひらげてね、ぱぁーっーーって駆けてって、スロープのカーブをぶつからないように回って、また下の方に駆けてくってのは子どもたちに流行った(はやった)遊びでした。
あの、それでよくご覧いただくとあそこのところが木の寄木(よせぎ)になっていたと思うのですが、覚えていらっしゃる方、おいでではない。あぁ、大久保さんも間門。
○大久保:私は間門小学校ではないんですが、兄弟が間門小学校に通って(かよって)おりまして、その関係で覚えております。この写真は石川小学校ですか?間門小学校と同じように見受けられますね。あの、非常に大きい緩やかな造りだったと思います。そして何か間門小学校には市内から体の弱い生徒さんが集められて、海岸のいい空気を吸って、小学校生活を楽しんだというような記憶もございますが、何かとても懐かしい、アール・デコというんですか、ああいう建物はね。そんな雰囲気ですね。
○嶋田:実は間門小学校に入学したときに言われたのは、臨海学級ってのがあるんだよということでした。つまり、いわゆる今でいうと保健師さんみたいな方がいて、震災で体を弱くした子どもたちを、そこの学級で体を強くして、というようなことを言われていました。で、私の兄たちの時代は授業の前にまず窓を開ける。どのくらい窓を開けるか、それも決められていたと。それから肝油を飲まされたとか。そんなお話がきっと復興小学校のエピソードとしていろいろ、会場の方からうかがえたらなと思います。
○司会:もう復興小学校ぐらいになると経験者の方、何人かいらっしゃると思いますが。はい、どうぞ。
○男性:復興小学校はですね私、二つ経験があるんですけれど、この近くですと今、西中学校になっている西戸部小学校。それからあとは、西前小学校。あそこが両方復興小学校だったんですね。私がこの辺の生まれで、自分の学校が戦争で焼けまして。で、低学年のときに西前小学校に少し在学したことがあるんですね。非常にこうスマートな建物で、男の子は、スロープの手すりを飛び越えてね、下に降りるんですよ、みんな。それでね、よく怒られたのを覚えてまして、また、中学校は今度は私は西中学校に進学しましたら、あそこはやっぱり復興小学校だったんですね。西中学校の建物はかなり古くまで残ってたと思います。30年代くらいまで旧校舎でしたから。市大の医学部のそばにある学校も残っていましたし、東京では明石小学校ってのが残ってて、存続問題が起きてるんですけどね。横浜でも、やっぱりひとつくらい残ってると面白いと思います。非常にモダンな学校だったんですね。で、御存知のように、あの大震災のあとにできたこういう公共の建物って丈夫なんですよ。例えばこの辺ですとね、国大の経済学部がありました高等商業。それから嶋田さんは、私の弟と同級生らしいんだけど、あの平沼高等学校もね、ものすごく丈夫にできてまして、壊すのに大変だったってのを聞いてます。だから当時の建物は結構いい建物があったんですね。さっき小林さんがおっしゃいました震災記念館って、そのあと横浜市の経済研究所になってましたよね。そこなんかも非常にいい建物だったんですけど、壊すのが好きな人が多いので、みんな壊しちゃってもったいないと思ってます。そんなところです。
○司会:はい、ありがとうございます。このあたり、何か話したい方、いらっしゃいますか。はい、どうぞ。
○女性:母から聞いた祖父の経験した震災のときの様子なんですけれども、うちの祖父は青森から出てきまして、大工をやっておりまして、日ノ出町の、末吉町の方に構えていたわけです。震災に遭ったときに、ちょっと東京かどうか場所は忘れたんですが、知り合いの人の安否が気になって夜、歩いてそこの様子を見に行こうとしたところ、朝鮮の方が水に毒を入れたというデマが広められていて、いろいろ要所要所、関所のように日本の方が立っておられて、槍みたいな何かそういうのを持って、何か言わせられたらしいんですね。それで朝鮮の方だとはっきり「し」とか「ず」とかの言葉が明瞭に言えないからっていうので、その答えによって日本人か朝鮮人かっていう、あの、非常に乱暴なことをしたそうなんです。東北の出ですから、ズーズー弁って、はっきり言えないんですよね、言葉が。それで何度言ってもそこのところが濁っちゃってうまくいかなくて、お前は朝鮮人だろうってことで、本当に刺されて死ぬ寸前だったという。だけれどもまぁ、どうにかわかってもらえてそこを通って親類の安否を尋ねに行ったということで、そういうときになると本当に怖いんだよって話を、小さいときに聞きましたので、そういうことで朝鮮の方も亡くなられた方も多いと思うんですが、日本人でもそういう嫌疑をかけられて怖い思いをしたということを、ちょっと思い出しましたので。

●野毛山公園と復興記念大博覧会
○司会:ありがとうございます。震災ってとっても大きいお話で、深刻な話だったんですが、突然話題が飛びまして昭和4年に誕生した野毛山公園プールについて、エピソードがいくつか寄せられております。ただ寄せられたエピソードには、50メートルプールとか飛び込み台とかありまして、これはどうも戦後の様子ではないかなぁと思うんですが、まぁ、昭和4年にあの公園プールができましたということをきっかけにして、ここでちょっとエピソードを御紹介申し上げます。
○エピソード朗読:「野毛山にはプールがあって、50メートルもあるプールで、周りがコロッセオみたいになっているんだけど、そこでプロレスの興行とかもやってたなぁ。遠藤幸吉っていう力道山のパートナーの事務所が近くにあって、遠藤幸吉もそこで興業をやってたなぁ。そのプールが大会とかにも使えるような立派なプールだったんだけど、叶家のもう亡くなった御主人がそのプールで泳いだことがあるって自慢げに言ってたな。」
次のエピソードです。「野毛山のプールには10メートルの飛び込み台があった。子どもは一番上の台からの飛び込みは禁止されていたが、競って高いところから飛び込んで遊んだ。」
次のエピソードです。「野毛山公園のプールには主人が息子を連れて行っていた。水泳大会のアナウンスが聞こえてくると夏が来たと感じた。」
○司会:うっかりしてましたねぇ。遠藤幸吉、力道山といえば昭和30年代ですよね。私も見た覚えがあります。今の野毛山を見るとプールがあったということは思い出すこともできないんですが、この野毛山のプールで泳いだよっていう方、いらっしゃいます?あぁ、随分いらっしゃいますね。お話を聞かせていただける方、いらっしゃいますか。
○男性:これはですね、突然できたのではなくて、昭和30(1955)年だったと思うんですが、神奈川県で国体があったんですね。その時に神奈川県に競泳用の本格的なものがなかったものですから、その時にできたはずです。まあどこでもそうですけど、横浜を中心に神奈川県のいろいろなところで体育施設がですね、結構新しいものができたんですね。そのときにあそこが本格的な競泳用のプール、更に飛び込みもやらなきゃいけないっていうので、あの改造が行われたはずだと思います。そのために横浜市内でいろいろな施設ができたので。私も覚えていませんけどあそこは多分そうだと思います。
○司会:ありがとうございます。壊すのが好きな人が多いと、先ほど御発言がありましたけれど、あのプールも2009(平成21)年6月に壊されてしまって、今はもうありません。先ほどちょっと震災記念館のお話がありましたけれども、昭和も10年ぐらいになりますと相当復興が進んでまいりまして、昭和10(1935)年に復興記念横浜大博覧会っていうのが開催されました。これにいらしたという方、いらっしゃいますか。じゃああちらの方、お話をお願いします。
○男性:私一人しかいないんですかね。あの、確か私が小学校の頃だと思いますが、山下公園でございました。アメリカのサーカスが来たり、それから今の沈床(ちんしょう)花壇になっているところに鯨が入ったんですね。すぐ死んじゃったんですけれども、そういう思い出がございます。とにかくいろんな資料がいっぱい出てますよね。あの当時の入場券だとか地図だとか出てますので、ご記憶のある方も、本当に私一人しかいないんですかね。歳がわかっちゃいますね、あれ、何年でしたっけ、昭和、昭和10年。私が小学校2、3年の頃ですね。
○司会:ありがとうございます。じゃあ一番そちらの。お願いします。
○男性:私は岡野と申します。昭和4年生まれでして、今、鯨の話が出ましたけれども、実は私もおぼろげながらにそういうことを記憶をしていたので、人に話しますと「いやぁー、そんなこと聞いたことがないよ」と、誰も信じてくれなかったので、今まで黙っていたんですが、今のお話を聞きまして「やっぱり来たんだな」ということを確認しました。昭和4年といいますと横浜公園ができたのも昭和4年の3月。で、私が生まれたのが昭和4年3月なので、丁度私が生まれた月に横浜公園ができたということを思い出しました。

●伊勢佐木町の賑わい
○司会:はい、ありがとうございます。これがまだ第二次大戦の前の丁度、こう盛り上がるところでございまして、なかなか楽しい街の様子が見えてくるんじゃないかと思うんですが、ここでちょっと柔らかいお話を少しさせていただきます。皆さんの中から映画館のお話ですとか野澤屋さんのお話ですとかいろいろ、伊勢佐木町辺りのお話をいただいております。
当時の伊勢佐木町の様子、スクリーンに出ますか。(伊勢佐木町の双六を映写)これ伊勢佐木町の双六になっております。伊勢佐木町のお店屋さんの双六になっているという大変貴重なものでございますので、どうぞご覧になってみてください。伊勢佐木町のその辺りの盛況ぶりを、覚えていますか、嶋田さん。
○嶋田:本来なら小林さんにいくはずだと思うんですが。えー、いわゆる盛り場というと女社会ということで、言っておきますけど大久保さんと1か月違いのお姉さんだけでございますので、お隣にも回したいなと思っております。私、伊勢佐木町っていうと実は私の記憶では昭和20年代以降の記憶なんですね。親に連れられて買物に行く。子どもにとっては買物はあまり面白くないわけで、ただついて行く。ただし終わったらデパートでアイスクリームを食べさせてもらえる。アイスクリームを食べるの、不二家(地図(2)C-3(PDF(PDF:2,155KB))かなと思うんですが、不二家が接収されているんで、この辺がね、曖昧なんですけれども。はい、伊勢佐木町でアイスクリームを食べた方、是非この辺を御助言いただきたいと思います。
子どもにとって、盛り場っていう言葉でピンとくるのが伊勢佐木町。そういう中で最後の御馳走のアイスクリームがとっても楽しかったものですから、どなたか教えてください。会場で是非、どなたかご記憶ないですか。
○司会:伊勢佐木町のアイスクリームの話ということで。
○男性:アイスクリームの話じゃないですけれど、双六の中の一番上の左から三番目、逆さまになっておりますけれども、岡野乾物店(地図(2)B‐4(PDF(PDF:2,155KB))っていうのは私の親父が始めた、創業したところのお店なんです、はい。この双六の実物があったんですが、うちのおふくろが誰かに貸して、なくなってまして、写真だけが残っておりましたので、で、先日こちらへおうかがいしたときにこの写真をお出ししたんです。
○司会:そうですね、これ、もうちょっと拡大したりして詳細に見ると、ものすごく面白いんだろうなと思います。すいません、もうちょっと拡大した画面を用意すればよかったですね。申しわけなかったです。商売繁栄、あぁ、本当だ、商売繁栄双六って、一番上に薄く見えますね。右からですね、商売繁栄双六。それで、東京日日(にちにち)新聞ですね。曙町出張所が作ったんですかね。それで皆さんのところへお配りになったんでしょうかねぇ。これは本当に貴重なものですねぇ。ありがとうございます。
じゃあ小林さんばかり申し訳ないんですけど、伊勢佐木町のお話をもう少ししていただきたいので、少しいいですか。
○小林:それではあの、先ほど会場の方が復興記念横浜大博覧会の話をされましたが、実は父がそのときにですね、輸出品の一部を作っておりまして、出品をしたんですね。それで私も父に連れられて会場へ行ってますけれども、山下公園の会場はちょっと覚えがありません。ですから鯨についてはどうだったかわかりませんけれども、そのあと、父から鯨が確かに泳いだということは聞いております。で、その後、そのあとはプールみたいになっておりまして、今はどうでしょうか、バラが咲いているようなところですよね、そうですね。あそこがちょっと一段低くなってまして、プールみたいになってたわけです。
で、私が行きましたのは商工奨励館でございます。今は情報文化センター(地図(1)C‐1)になってますけど、日本大通りの角ですね。そこの建物が後に商工会議所になるわけですけれども、その建物の中で、私の記憶に鮮明なのは入口に丸い地球儀、地球儀の大きい半円形のですね。地球が回っているんですね。そんなことを記憶してますし、それと父と話を、電話で話し合いをしました。当時の最新型の電話でございまして、取るとすぐ通話ができた。今は当り前のことなんですけども、通話ができた。その昔はまだ電池、磁石を、こう回してかけていたんですけど、取ってすぐかけられる電話があって、それで父と会話をしたことがありました。その程度の覚えしかないんですね。確か四つか五つの頃ですので、そのぐらいのことは覚えておりました。
伊勢佐木町でございますけれども、その当時の伊勢佐木町というのは、私の記憶では人の足のところしか見えなかったんですね、小さかったですから。とにかく人の足の踏み場もないぐらい混んでいて、女性の服、洋服や、お父さんたちの羽織ですかね、そんなのが頭や顔のあたりについたりする、そのぐらい混雑してたんですね。土曜日は皆さん、あの当時は休みじゃなかったですね。おそらく祭日、日曜日におそらく連れて行ってもらったときに、まぁ、そんなことを感じました。それでよく帽子を買っていただいたことも覚えております。今、帽子屋さん、なくなっちゃったんですけどね。
それでこの中で、(「商売繁栄双六」映写)私がやはり一番下のですね、一番左側に奈良屋さん、これは今、馬車道にお菓子屋さんと一緒に2軒並んでいますけれども、和菓子屋さんと奈良屋さん、未だに立派に御商売をされておられますし、一番上の上段のですね、右側の佐藤印刷さん、これは戸部の角にあります佐藤印刷さん。大変立派に御商売をされておりますし、有隣堂は勿論、皆さんおわかりでございましょうし、それからどうでしょうか、稲垣さんっていうのがありましたですね。稲垣さんは今、横浜の野毛大通り、野毛の本通りで化学製品、化学薬品等を含めて御商売をされておられます。
あとは塩田菓子店さんですね、それは私、記憶があります。私がもうちょっと大きくなってから塩田さんにはとりわけお菓子を買いに行った。吉田町だったと思いますね。そんなことを記憶しております。

●真金町(まがねちょう)遊郭、港崎(みよざき)遊郭
○司会:せっかく山崎さんがいらしてるので、ちょっと伊勢佐木の話で私の方から無茶振りしていいでしょうか?本を読みますと、盛り場には付きもののものがあるかなと思うので、その話をちょっとしていただけますかしら。
○山崎:そうですね、盛り場に付きものといえば遊郭ですね。風俗街じゃないですよ、遊郭って呼ばれてた頃ですけれど、この横浜の遊郭こそ私を横浜に導いてくれたものです。今、私、独り身なんですけど、夫がおりまして、もう十数年前に亡くなりました。私より18歳も上で昭和4年生まれでした。だから小林さんより上ですよね。その夫が横浜生まれの横浜育ちだったんですね。で、昔のその私の知らない横浜の話なんか、例えば空襲の話ですとかね、よく雑談で聞かせてくれたことがありました。その時に出てきたのが真金町遊郭の話です。「昔は横浜に立派な遊郭があってさぁ、子どもの頃、お酉様のときだけあそこ、自由に入ってよかったんだよねぇ」って。「きれいな女の人がいっぱいいて、大きくなったらここに遊びに来られるんだって思ってたのに、年頃になったら戦争が始まってしまって、本当に腹が立った」みたいな話をね、聞かせてもらいました。
遊郭なんていうとどうしても吉原とか、洲崎とか丸山とかそういう有名なところが思い浮かびますが、横浜と遊郭っていうのはちょっと結びつかなかったんですね。結びつかなかったからこそこれはいいなぁと思ったのは、丁度その頃は30代の半ばぐらいでして、まだ作家になってなかったんですけれども、ミステリーを書いて応募して作家になろうと一所懸命やってた頃だったんですね。応募作ってのは誰も書いてない題材を使った方が絶対にいい。で、横浜の遊郭を舞台にして書こうと思いまして、調べはじめました。昭和6年、戦争が始まる前ですね、小林さんがお生まれになった年ですね。混沌とした怪しい時代ではないかと思って、ここら辺に狙いを定めまして調べ始めたんです。当時私は緑区の中山に住んでおりました。うちの夫は六角橋の辺りで生まれ育ったらしいんですけど、疎開で中山へ移ってそのままずっといたんですね。で、当時、図書館へ行ったのか資料館へ行ったのか、私はこの真ん中辺りに全然つてがなかったので誰に聞いたらいいのかもわからなかったんですけれど、探しに行ったら、あまり資料が見つからないんです。で、ない資料の中からいろいろ調べたのが、真金町遊郭というのは前身があって、開港の頃、1859(安政6)年が横浜開港ですけれども、それとほとんど同時に大きな遊郭ができたんですね。外国人もそれから日本人も、ばぁーっと男がいっぱい入ってくる、遊郭が必要だというので建設されました。港崎(みよざき)遊郭という名前だったのですが、場所は今の横浜公園です。信じられないですね、あそこに大きな遊郭があったなんて。
関東大震災とそれから、これから横浜大空襲の話がでてきますが、その二つとも横浜の中心部は壊滅状態になりました。その前に実はもう一回、壊滅状態になったことがありました。開港から7年経った、慶応2年、1866年ですけれども、大火事になりまして、せっかく作った外国人居留地、日本人町もほとんど焼けてしまったのです。そのとき実は火元が遊郭の近くだったものですから遊郭も、丸焼けになりました。遊郭ですから大きな門があって、簡単には出られないようになってる。たくさんの女の人がそこで焼け死んだそうです。
その後、遊郭は転々としまして、最後に落ち着いたのが南区の真金町と永楽町でした。赤線廃止になった1958(昭和33)年まで存続したそうですから、行ったことがあるという方がいらっしゃるかも知れません。
小林さん、ありますか?あるんですね。(笑)(会場からも笑い声)
○小林:私はあの、友人がですね、絶えずやはり行ってました。で、その後、お前は手前のですね、時計の付いてるあのビルにですね、貯金したけど、俺は川の向こうに貯金しちゃったからという話で、ですから私は手前の、あそこは郵便局ですよね、郵便局に貯金をしてたと、こういう比喩ですね(笑)。行って遊んだことはないですね、はい。
○山崎:えー、ないんだそうですけれどもねぇ。(笑)あの、まぁ私、そこを舞台にして小説を書きまして、江戸川乱歩賞という賞をいただきました。『花園の迷宮』というタイトルだったんですけど、ようやくそれで作家になれました。本当に横浜の遊郭のおかげなんですね。その本の中には「読者カード」っていう葉書が入っておりまして、読者に感想を書いていただくようになっています。その中に何と桂歌丸さんの葉書がありました。桂歌丸さんってあとで知ったんですけれど、おうちが真金町で遊郭をやってらしたんですよね、ご実家が。おばあちゃんがやってらしたそうですね。なかなかよく書けてますという感想でした。私も仰天して、出版社の人たちと、歌丸さんだ歌丸さんだと大騒ぎになったことがあります。まぁ、そのお礼を言ったのはずっとずっとあとになって、お目にかかってからでしたけれどもね。
○司会:はい、面白い裏話でした。遊郭の話ってのは今のお話にあったように、表側の資料としてあまりないものでございますので、もう昔話でございます。何か遊郭について思い出話等、おありになる方、ちょっと聞きにくいなぁというところがあるんですけれど、子どもの頃、何かきれいなお姉さんいっぱいいていいなぁというようなことでも結構でございますので、遊郭の近所にお住まいの方ですとか何か、貴重な思い出話等、ございませんでしょうか。あっ、ありがとうございます。
○男性:ただいま、あの、山崎先生、おっしゃったとおりなんですが、何であの遊郭ができたかというと、アメリカがね、開港場を横浜に作ったんですよね。そのときに開港場に遊郭ができて、それが今度は港崎の横浜公園のところへ来て、それが焼けて、豚屋火事って有名なねぇ、今おっしゃった豚屋火事が起きて、それで今度は長者町4丁目かな、向こうの方に一時、移ったんですよ。そのときに根岸に競馬場ができたんですよ。そこの競馬場に行くのに、浄行(じょうぎょう)様っていう、清正公(せいしょうこう)堂っていうのを長者町に建ててあったもんですから、浄行様は体の悪いところを治すということで、遊郭の女の方もお参りに来て、非常に浄行菩薩ってのは盛んだったそうです。
それと併せて競馬場ができたために、一攫千金の夢を見る度に清正公にお参りをして、根岸の競馬場に行ったと。その帰りに、儲かっても儲からなくても伊勢佐木町長者町にそれらのお金が落ちたということなんですよね。それからその後は向こうのね、お酉様の方に移ったんですよ。そのときに桂歌丸のおばあさんの、やり手ばばあの三人に例えられるそのおばあちゃんが(会場から多数の笑い声)、やくざが道を通るときは避けて(よけて)通ったというような有名なおばあさんだったそうです。そういう話があったんでございます。
○司会:いやぁー、初めて聞いたお話が。面白いですね。伊勢佐木町にはいろいろな食べもの屋さんができましたということで、牛鍋屋さんの話をどなたか御存知でいらっしゃいます?遊郭と牛鍋の関係って、どなたか御存知でいらっしゃいます?あぁ、じゃあお願いいたします。
○男性:あの、私はこれ、聞いた話ですけれど、伊勢佐木町に「じゃのめや」さんていう牛鍋屋さんがあるんですが、戦前は遊郭から帰って朝飯を食べるのを朝、もう7時頃から店が開いて(あいて)まして、朝帰りの人たちのお客さんが結構入って来て、それから夕方までやって夜もあるっていうかね、24時間ずっと商売をしているようなところがあったそうですが、お酒の薦かぶり(こもかぶり)って四斗、四十升ですか、入る薦かぶりが一日に三樽ぐらい出ていったという話です。座敷は、追い込みっていいまして、座卓がずっとありまして、ずーっと衝立があるだけで、部屋割りは何にもなくて、そこへみんなお客さんが入って来て、酒呑んだり牛鍋つっついたり、そういうことをしてたという話を、あそこのお店の御当主の弟さんが戦前、ずっとその酒の面倒を見てたという話を、直接うかがったことがございます。
○司会:どうですか、牛鍋と聞いて黙っていられない方、いらっしゃるでしょう。
○嶋田:えー、実は同じようなお話を荒井屋さんでうかがったことがあります。本当に遊郭へ行く、或いは遊郭から帰る。これ、精をつけなくちゃならないんだそうですが、えー、実は荒井屋さんはこういう話もしてくださいました。「嶋田さんねえ、伊勢佐木町の牛鍋の店、表通りに店を。いわゆる玄関口、持ってる?持ってないでしょ。あれはやっぱりこっそり入るもんだから、ちょっと横向きに入口があるんだよ。うちもそうだ」って。荒井屋さんは曙町に近いところですよねえ。それから太田なわのれんさんもちょっと脇へ入る。それからじゃのめやさんも本来的に表通りではなくて裏口と。これはやはりね、さすがの男もね、ちょっと隠れてね(笑)、というお話をうかがいました。真偽のほどはわかりませんが荒井屋さんの亡くなった荒井一雄さんからうかがったお話です。
○司会:ありがとうございました。伊勢佐木辺りのお話で何かもうひと言、言いたいって方、いらっしゃいますか。一番後ろの方、どうぞ。
○男性:あの、この中で比較的現代に近くで21世紀になってからのことなんですけど、伊勢佐木町っていえばカレーミュージアムがありましたね。今はパチンコ屋になってまして、あのカレー屋、仕事に行ってるお昼休みによく行ったことをよく覚えています。食べてもいいカレーがたくさんあって、とってもおいしかったので、仕事中にそこまで走って行き、走って帰ったことをよく覚えています。

●戦前の野毛
○司会:はい、ありがとうございます。伊勢佐木の方から野毛の方へ移ってきまして、戦前の野毛の様子。皆さん随分思い出がおありかと思いますけれども、戦前の野毛のお話の中で、今回、エピソードいただいた中で村田家さんから随分お話をいただいておりますけれども、村田家さんていうとやっぱり「ドジョウ(鰌)」。(会場から声あり)おっ、失礼いたします。
○村田家ご主人(会場より):私はでもね、戦前は知りません。戦後生まれですから、えーと、いわゆる団塊の世代ですね。で、うちは戦前、伊勢佐木町の2丁目にあったんですよ。加藤回陽堂さんの裏に白牡丹(はくぼたん)、今でもありますけども化粧品屋さんがありましてね、その真ん前の関内パーキング、あの場所が先代、先々代の村田家の場所です。戦前はてんぷら屋さんでね、結構流行ったらしいですね。戦前のてんぷら屋さんというと、あの天吉さんとそれからまぁ、村田家というふうに言われるくらいに大分張り切ったんですけど、野毛に来てもう蚊の鳴くような声で今、やってますよ、はい。
○司会:ありがとうございます。いつも行かせていただいているのに失礼いたしました。はい、どうぞ。
○男性:野毛の話で私、ちょっと思い出したんですが、私の父がですね、戦前、昭和6、7年から12、3年まで野毛の税務署に勤めておりまして、それでその当時ですね、元首相の福田さんと大平さんが横浜の税務署長として若い頃に赴任なさっているんですよ。それで今でも中税務署の所長室のところに、福田さんと大平さんの写真が飾ってあるそうですけども、私の父は将来の総理大臣二人に部下として仕えたんだなんて、自慢そうに話をしていることがありました。
それで、今のにぎわい座のところが中税務署だったんですけども、そこの所長室へは何度か入ったことはあるんですが、赤絨毯を敷いてありまして、ビロードのカーテンがかかってありまして、ものすごく立派なんですよ。何であんなにあそこの税務署は立派なんだろうなということを誰かに聞いたことがあるんですが、そうしましたら戦前はですね、飛行場がメインじゃありませんから、海外旅行をなさる方は全部横浜港から海外へ出かけて行きました。パリに行ったり、ヨーロッパなんてみんな横浜港から行ったわけなんです。アメリカ航路もそうですけども。そのときに政府の高官がですね、洋行するときの、船に乗るまでの間の時間をですね、税関長の部屋か横浜の中税務署の部屋かへ留まって、お茶をさしあげて、ちょっと時間を過ごすということがあったんです。その高官がたくさん横浜の中税務署へ来るもんですから、そういう立派な応接室があった、ということを聞いております。それからもう一つは、横浜中税務署、昭和3年に確か建て上がったんだそうですけれども、それこそ大正12年に震災があったわけですから、ものすごく頑丈な建物だったそうです。ですから、にぎわい座のために壊すとき、すごく大変だったんじゃないかと私、想像してるんです。そのひとつの証拠として横浜税務署の中へ入り、階段を上がりますと左側に公金取扱で税金なんかを納める場所があるんですけれども、正面を入ったらずぅーっと背の高いカウンターがありまして、左側に入るためには、建物の一番右側までぐるっと回って行かないと、入れないよう、そういう構造になってたらしいんです。で、左側の公金取扱のところへ出入りするの、非常に不便なんで、そこのカウンターを切る工事をやったときに、大理石のカウンターだったんですけど、それが切れなくて往生したっていう話をちょっと聞いたことあります。
それともう一つだけ、ちょっとだけお話ししたいのは、先ほど山崎先生がおっしゃってた山下公園の話なんですけども、私は戦災で田舎へ疎開してたんですけども、帰って来たときに家がなくて借地をして家を建てて、父が建てたんですがそのときに何かお医者さんの屋敷だったらしいんですけど、基礎が全部レンガで積んであったんです。で、私らはそこで遊んだことを覚えているんですけども、そんな具合で横浜は大震災の前はレンガ造りの家がべらぼうに多かったらしいんですね。ですからあそこの山下公園の埋立というのはほとんどレンガが埋まってるんじゃないかと私は想像してます。
○司会:はい、ありがとうございました。
○大久保:あの、今のレンガの話で思い出したんですが、今はもう立派に建っております赤レンガなんですが、震災で一号館の端っこが倒れて、今は二号館が現存して一号館は短い形で残ってますが、日活の映画の撮影や何かで使われたあと、すごくいたずら書きがされて閉鎖になった時期がありましたね。あのときに私は市の方と中を拝見したことがあるんですよ。そしたら二号館の中に、菊の御紋章が金箔で書かれておりました。で、そのとき役所の方にうかがったら、皇族の方が横浜港から出港なさるときのお荷物を保管する場所で、特別に菊の御紋がある場所がそれに指定されていると、そういうような貴重な話をうかがいました。今、赤レンガで思い出しましたのでちょっと、口を出してみました。
○司会:初めて聞く話がいろいろあって大変面白いなと思っております。小林さん、お待たせしました。それでは戦前の野毛のですね、賑わいですとか、まぁ、食べもの屋さんのお話ですとか、小林さんの得意な野毛のお話をちょっと聞かせていただけますか。
○小林:そうですね、私が生まれたのが昭和6年で、私は昭和10年以降の話はやはりちゃんと覚えているわけでございまして、おそらくこの会場の皆さんの中にも鮮明に覚えていただける方がおられるんだろうと、こう思います。私どもの生まれたところは先ほど叶家さんの前って言ったんですけど、それから野毛大通りの方へ、野毛本通りの方へ上がっていきますと、あそこに小高い坂があるんですね、村田家さんの方へ上がっていくところね。コーベルさんというお菓子屋さんがあるんですけど、私どもが小さい頃、よくそこの坂で遊びました。最近になって知ったんですけど、そこから砂浜になって海岸線だったそうです。私のところはもう海岸線だったんですね。で、コーベルさん、村田家さんのところは、砂の上の方ですから砂場だったんですよね。そういう具合に思って野毛を見てますと面白くて、税務署の方から大岡川の方へずーっと、なだらかな坂になってるんですね。相当下がってると思うんです。そういうことを考えながら野毛を歩いていただくと昔のよすがが出てくるのかなと、こう思うわけでございます。
先ほど税務署の話がありました。私のうちが狭いもんですから、雨になるとですね、雨の日は税務署行って遊んで来いと、こういうことでございまして(会場から笑い)、税務署の署員さんに一緒に廊下で紙飛行機を作っていただいて、遊ばせてもらったっていう記憶がございますし、当時はおそらく、先ほどのお父さんたちも職員でおられたと思うんですね。で、大平さん、福田さんも、おそらくその当時おられたのかなと思うわけでございますが、今になってバチが当たって税務署に追っかけられてると、こういうことでございます。
そういう話は別として、野毛は本当に静かな街でございました。今みたいに飲食店が街の隅々にあるという街ではなかったんですね。ところどころに、弁護士さんもおられましたし、また、ビリヤードはありました。それから、先ほどハワイへの航路ということで横浜で二泊三泊してですね、船に乗るということもございましたし、帰って来た人も横浜で寝泊まりをして、汽車でご自分のおうちへ帰ると、こういうことでございまして、かなり旅館が多かったですね。で、その旅館についてはだいたい名称がですね、各県の名称が付いたんですね。熊本旅館ですとか、越後屋とかですね、ですからおそらくそこの国の方がそこで泊まって居住をするか、もしくは帰って来た方がやはり自分の出生地の旅館に泊まってですね、帰ると、こういうことだったと思います。
私は花咲町一丁目(地図(4)参照(PDF(PDF:2,155KB))ですけど、一丁目にも2軒、旅館がございました。ビリヤードも2軒ございました。そういう静かな街ではあったんですけれども、今の野毛大通り、それから野毛本通り、そこには商店が並んでおりまして、私の同じ隣組には広瀬さんというお菓子屋さんもあり、大変大福がおいしいお店でございましたし、野口という自転車屋さんがありますけれども、その自転車屋さんもありましたし、それからコーヒーショップもあったりですね、煙草屋さんもあったし、質屋さんもその通りにありました。大通りに面しては商店の方も多かったんですけれども、私の友達のおうちなど、しもた屋(仕舞屋)さんも、あの大通りにもありました。しもた屋というこの言葉は皆さん、御存知なんでしょうか。私の聞いたところですよ、間違ってたら御訂正いただきたいんですけど、仕事をもう辞めたと、えぇ、もうしもうたという、しまった(仕舞った)ということなんですね。まぁ、そういうことですから一般のおうちになって、住宅になってるんですね。それでよろしいでしょうか。(会場から声あり)あっ、そうですかそうですか。いろいろ御意見、あとでちょっとお聞きしたいと思います。
野毛本通り(地図(3)参照(PDF(PDF:2,155KB))には今ではどうでしょうか、あの、永持(ながもち)薬局さんていうのがついこの間までありましたけれども、ちょっとお店が変わりました。それから大塚陶器店さんていうのも、もうなくなりましたけれど、それと板垣さんという、かつぶしとかそういうものをお売りになってるお店もなくなりました。で、三河屋さん、これは酒屋さんなんですけれども、もうやはりかたちが変わりましたですね、建物が変わりました。稲垣薬局さんは今も営業中でございます。それから會星楼(かいせいろう)さんもやっております。あの、金久保さんも果物屋さんの御商売をされております。
ただ、当時、横浜銀行の前身、横浜興信銀行の野毛支店というのがございまして、これは野毛が栄えてた証(あかし)かなと思うんですけども、銀行の人に聞きましたらば、第一号の支店が野毛支店だったそうです。いかに野毛がですね、それだけ繁盛してた街なのかなと、そんなことが思い出せるわけでございます。これらの昔のお店もですね、空襲と同時に全て灰燼に帰したわけでございまして、ただひとつだけ花咲町一丁目、今はマンションになりましたね、そこに耶蘇教があったんですね。このことは御存知、御記憶の方がお出ででしょうか。(会場から声あり)そうですね、はい。教会がありまして、私どもは貧乏人の家族で、子どもでしたので、クリスマスになりますとその1か月前から実は教会に行くんですね。それでクリスマスのミサに行きますと帰りにクリスマスのいろんなお土産をいただける。そのお土産をいただくとまた1年間、ミサには行かないということで、そんなことを実はこの教会にはですね、大変バチ当たりな行為をしたんですけれど、そんなことを覚えております。まぁ、昔のことですので記憶は定かでございませんけれども、そういう本当に静かな庶民的な街であったということを皆さんは御理解ください。
○司会:はい、じゃあ先ほどの話をちょっとうかがわせていただきます。
○男性:私が仕舞屋ということをどういうふうに解釈していたかといいますとですね、実は私の親父はですね、宇都宮商業を出て横浜へ出てきて、野毛にありました杉山商店って砂糖問屋ですね。ここへ来て、商業学校を出ていたもんで若くして番頭さんをとったんですね。そのときにその杉山の社長が、この男に自分の郷里の方から嫁さんを世話すると。で、杉山さんの郷里は平塚でして、うちのおふくろがやっぱり平塚なので、その紹介で来るときに、うちのおふくろのところがその馬入橋(ばにゅうばし)のすぐ際でですね、馬方を相手の質屋だとか、もうとにかく棺箱以外は何でも置いていたっていうお店だったそうなんです。で、学校に行くときには必ず何かしなくちゃ行っちゃいけないっていうことになっていたので、そのときからもう、お嫁行くんだったら仕舞屋がいいって。その仕舞屋って、サラリーマンの奥さんっていう、そういうかたちじゃなかったのかなっと思うんですよ。それで、横浜へ出てきたってことを、おふくろからよく聞いてましたので、あぁ、仕舞屋ってのはそういうもんなのかと思っておりました。ついでによろしいでしょうか。
○司会:はい、どうぞ。
○男性:双六にあります上の左から三行目の岡野乾物店。うちの親父は、その杉山商店に勤めながら店をまず、そこへ開いたんです。そこは元、友野っていうお米屋さんがあったとこでして、娘さん二人で、跡(あと)をやる人がいないからっていうんで、誰か借りる人、いないかなってことを、うちの親父の下でいた小僧さんが、うちの親父にもってきたわけです。で、仕舞屋へ行きたい行きたいって言っていたうちのおふくろがもう、お嫁に来て三月と経たないうちにもう商売をやりたくてしょうがなくなっていた。丁度その話があってそこを借りて昭和元年に店を開いた。そこで私は昭和4年に生まれたわけですけれども、それでひとつ、ちょっと話は飛んじゃうんですけれども、その私の親父が借りた店の持主は友野きぬさんとおっしゃる方です。で、その方からお借りして昭和9年に売っていただいているんですが、その友野さんの娘で友野はなっていうのがおるんですが、その方がのち、横浜の映画女優第一号になった紅澤葉子なんですね。
その友野きぬさんていう、そのお母さんからうちの親父がその建物を売っていただいたときの売買契約書もございます。私は10年ほど前に商売、辞めました。私は協議会に入っていたんですが、そのときに『元町140年史』ってのが出ましてその中を見ていったところが、その紅澤葉子ってのが映画女優ってことがそのとき初めてわかったんです。その前は私、伊勢佐木町の、みのやさんという羊羹屋さんに品物を納めていたので、そこの親父さんから「岡野、お前んところが出ているぞ」って一冊の本をもらったんですよね。
それがこの「いせざき」っていう雑誌なんですが最初のページに紅澤葉子の手記が載っておりまして、ちょっと読んでみますと、「私が生まれたのは72年前、そう、中郵便局の前から伊勢佐木町へ通る道の岡野食料品店のとこで生まれました。」ていうことから始まりまして、「今の中郵便局のとこには横浜座っていう芝居小屋があった」とか、それから「市電はもっと川ぶちを通っていった。今の大通り公園の脇を通ったのが、今の通りを通ることになったので、区画整理になって自分のうち(家)の地所が減っちゃった」とか、ほかにもいろいろ書いてありますけれど、そういうことがわかったと、そういうことです。
○司会:はい、どうもありがとうございました。さすがの皆様も御存知ないお話がたくさん出てきて、驚くばかりですね。
○嶋田:ひと言、いいですか。
○司会:はい、どうぞ。
○嶋田:紅澤葉子さんのお名前が出たんで、本当にびっくりしたんですが、私、県立平沼高校なんですが、昔の第一高女。紅澤さんも第一高女の御出身なんですね。それで、五大路子さんが、『横濱行進曲』、これが紅澤さんが出てくるんで五大さんから呼び出しをかけられて、「嶋田さん、あなた、後輩なんだから、紅澤葉子はいかなる人か、よく調べなさい。」そんな古い話、わからないのですが、実は偶然なことに私の母、それから叔母が当時の第一高女で同級生ということで、いくばくかの資料を差し上げた覚えがございます。是非五大さんのお芝居を観るときには紅澤葉子さんの今日のお話をね、皆さん思い出していただければと思います。どうもありがとうございます。

●横浜大空襲
○司会:4時までの予定で3時半になりましたのに、まだ戦前の話をしております。すいません、もう間もなく横浜大空襲の話で、辛いお話に入りたいと思います。
それでは戦争ということで、エピソードをいくつかいただいておりますので、少し読まさせていただきます。
○(エピソード朗読):「空襲の数日後、疎開先の小田原より横浜に入った。川の水が流れなくなるくらい死体が散乱していた。焼夷弾から逃れるため、川に飛び込んだが、絶壁の河岸を上れなかったのではないか。ぽつぽつとビルが焼け残っていたが、辺り一面が建物がなく、長者町に立つと港まで見通すことができた。
「伊勢佐木町の角のあたりに下士官用の慰安施設があり、その周りに娼婦が集まって来ていた。米兵たちがわらじのような大きさの肉を食べていた。その食べ残しや缶ビールの飲み残しを拾い、川沿いで食べている人がいた。」
○司会:少し戦後までのエピソードを御紹介申し上げました。戦争のあの悲惨な状況についてのエピソードは、実はこの39番のエピソードしか寄せられておりません。私ども、戦争の思い出を随分皆さん寄せていらっしゃるんじゃないかなと思ったんですけども、この一つだけでございました。
ほかのところへ振ったのもあるので申しわけないんですけれど、もしお嫌でなければ当時のお話、戦中、特に5月29日前後のお話をしていただける方、よろしければお願いできませんでしょうか。
三人手が挙がりましたので、順番にお話をいただきますので、そちらから順番に。○男性:あの、戦争の話っていうと横浜の場合には5月29日と、その前に4月にも空襲があったんですね、天王町の方に。で、その前にですね、これ、私、本当に覚えているんで、あとから調べたんですけれど、ミッドウェー海戦が6月に、17年にあるわけですけれど、その4月の18日にですね、アメリカのドーリットルっていう中佐がですね、ホーネットだったかな、B-24ですね、日本を縦断して、あの、攻撃したんですね。で、私も記録を見てましたら横浜のことはあんまり出てなかったんですけれど、横浜大空襲の記録を見ましたら、南区でも亡くなっている方がいるんですね。
で、そのときのことを思い出して、私はまだ当時、私は昭和13年生まれですから、えー、17年の4月18日っていうと、まぁ、あんまり大きくなかったんですけど、当時あの、警防団っていうんですか消防団っていうんですか、ありまして。町内会でそういう役割の人がいたわけですね。私も今もね、本当によく覚えているんですけど、大きな飛行機が飛んでいくんですね。で、そしたらそこの団長さんが、皆に、大丈夫だ大丈夫だ、これは仮想敵機だなんてね、みんな空襲の練習してるんだから大丈夫だ、静まれ静まれって言ってる人がいたっていうのはね、よく覚えていまして、また、あの頃はまぁ、無知っていえば無知だったんですけど、竹やりで突き落とせばいいんだなんて騒いでいる人もいたんでね、まぁ、のん気だっていえばのん気だったんですけど、あとからあれはいつあったのかなぁという、本当に小さな記憶だったんですけど、調べてみましたら4月の18日であって、そのあとミッドウェー海戦があって、日本はそこから負け戦(いくさ)になっていくわけですけど、またそれから空襲も増えていく、そういう日だったんだなって覚えていると共に、日本の防空体制っていうのは極めて牧歌的なことをやったんだなってことを思い出します。
それから横浜が空襲にあったことは皆さんの方がよく知ってると思いますが、私はその始めのことを、ちょっと思い出したので、まぁ、覚えてる方、多分、何人もいらっしゃると思いますけど。
○司会:はい、ありがとうございます。すいません、じゃあその後ろの方、よろしいでしょうか、はい。
○男性:あの、さっき、5月29日とお話がございましたが、私は戦争中、勤労動員に行ったりなんかしましたが、その前に3月10日に東京に大空襲があったりして、横浜も確かあれは中村町だったかな、吉田町の辺りが1回、爆撃で焼けてるんですよね。幾日だか忘れましたけれどね。で、野毛山だとか本牧だとかなんかに高射砲の陣地ができて、さっきのお話じゃないけどね。本当に空襲があると、みんな弾が当たらないというようなのを散見してます。
一度あの、撃墜した飛行機がパラシュートで元町の今のプラザの前の交番のところに降りてきたんですよ、米兵がですね、飛行機から落下傘で。みんなで寄ってたかって殺しちゃおうなんてやってたのを記憶してます。野毛に、さっきお話、出ませんでしたけども野毛に憲兵隊がございましたよね。そこからすぐ駆けつけてきて、触るなというふうに止められた記憶がございます。
話が今度は5月29日にいきますけれども、5月29日には私は小林さんと同じ学校だったんで六角橋にいたんですが、その学校で焼けましてですね、元町まで帰ってきたわけですけれども、もう、そこの辺の状況は皆さん、御存知のとおりでですね。元町でも白系ロシア人の方がお一人、御不幸になられて。言葉が通じなくて防空壕へ入りっぱなしで蒸し焼きになっちゃったという悲惨な光景を見ました。もう元町が丸焼けでしたから、結論から言うと全部焼けました。ただ、丁度クリフサイドから山の根っこまでが、山手の方が、不思議に焼けなかったんですね。そこのおうちへ皆さん、今のお代官さんの上の方が全部焼けなかったんで、そういううちに避難したり、或いは一時はバンドホテル、新山下の今のドンキホーテのところにホテルがあったんですが、そのバンドホテルのロビーにみんな泊まって、それから各おうちへ避難したということです。
ついでながら言いますとその後、すぐマッカーサーが来たんですが、これは皆さん知らないと思いますが、写真は残っていますが、厚木飛行場から隊列組んで来たときに、えー、私は自転車で、桜木町の今の大江橋のたもとまで迎えに行ったんですね。野次馬で行ったんですが誰もいなかったんですよ。で、ニューグランドの中までくっついて歩いて来て、まさにお出迎えしたと。えー、これは私だけじゃないかなと思っているところでございます。以上です。
○司会:はい、ありがとうございました。お待たせしました。
○男性:何度も何度も出しゃばりで申し訳ございません。私、先ほど申し上げたように昭和4年に曙町ってとこで生まれまして、現在82歳なんですが、この82年間どこも動いていないんです。焼けてからもバラックを建ててずっと留まっていました。うちの親父は空襲で亡くなりました。で、現在私は横浜戦災遺族会の副会長をいたしております。地下鉄の阪東橋のすぐそばに、大通り公園の中に平和記念碑ってのがあります。だんだんその遺族って方が亡くなってきておりまして、実際に自分のおじいさんが亡くなっている方でも、もう遺族っていう感覚、薄れちゃってるんですね。今年見えた方30数人しかございませんでした。
あのそばに一番近い小学校で、南吉田小学校ってのがあるんです。で、そこのPTAの方からちょっと何か空襲の話をしてもらえないかといわれて一昨年、朝礼のときに15分間、時間をいただいてお話をしたんです。その帰りに4年生の子があの平和記念碑まで一緒に来てくれまして、私に質問してきたんですが、「おじさん、さっき食べるのがなくて困ったっていったけど、そんときコンビニ、なかったの」って言われました。まぁ、今の子どもの感覚からいくと食べものがないということは信じられないし、金さえあればどこでも買えますので、その買うためのコンビニがなかったからとか、そう言われまして、それで今度の大震災を見て、そういうことを質問した生徒も少しはわかったかなとは思うんですがね。そういうわけであそこの平和記念碑を今、遺族会っていってもあそこへ掃除に来るのは3人しかいないんですよ、私を含めて。3人で掃除して、これで何年やっていけるかなっていう。遺族会っていうのは、亡くなった方の家族が、遺族というかたちでもってあそこに皆さんで集まって、お金を出し合って慰霊碑を立てたんですが、そういう方ですからもう二代目、或いは三代目になっちゃってるんですね。で、だんだん感覚が薄れてきてまして、何かあっても連絡しても、とにかく行かれないっていうふうに、そういう今、状態でいるので、いつの間にかあそこも忘れられちゃうんじゃないのかなぁ。それでいいのかなぁ。そういう気持ちでいっぱいです。

●横浜の接収
○司会:それで終戦を迎えまして横浜は、御存知のように大部分接収される中で、庶民が力強く生きていくんですが、そこの辺りについて、露天商の話ですとか、野毛に来ると何でもあって、どうも終戦直後の野毛のたくましさみたいなものについてのエピソードを皆さんからたくさんいただいております。
先ほど読みましたエピソード40番のところに、下士官用の慰安施設があり、娼婦が集まって来たというお話が出てございます。ちょっとその辺りの、その辺りのって言っていつも山崎さんに振るのもおかしな話なんですけど、女性の生き方をお話いただけますか。
○山崎:はい、終戦後、接収された横浜に身を売る女の人がたくさん立ってた様子なんかは、私は勿論見てないんですけど、ご覧になってた方はいらっしゃるんじゃないかと思います。私はデビュー作が遊郭を舞台にしたものだからというわけではないんですけれども、社会の中で、底辺に生き、それなりに国を一生懸命支えたのに、なかったものの如く歴史からは消されていくような、そういう名もない女性に、同じ女として思いを寄せずにいられません。そういう女性を主人公にした小説を書いてきましたが、小説ではなくてノンフィクションで一冊、『天使はブルースを歌う』というのを書いております。
これはたまたま昔、ゴールデンカップスという横浜出身のね、有名なグループサウンズがおりましたけれども、そのメンバーたちがほぼ私と同い歳(おないどし)なんです。で、その人たちのその後を取材して、ノンフィクションにしようという企画をいただきました。その取材をしている過程で、ふととんでもない話が出てきました。終戦直後の頃、ゴールデンカップスのメンバーや私はその頃の生まれですけれど、その同じ頃に、夜な夜な(よなよな)、あの山手の外国人墓地に新聞紙や毛布にくるまれた、赤ん坊の遺体が置いていかれたというんですね。その赤ん坊はもう見れば一目瞭然でハーフなわけです。これは、占領軍の兵士たちと、それから日本人の、身を売って働かざるを得なかった女の人たちの間にできた子なのではないかと、外国人墓地の当時の管理人さんは思われたようです。今だと赤ちゃんの死体が置いてあったりしたらもう大騒ぎですけれども、戦後の混乱期ですから、管理人さんはひっそりと埋葬してあげた。
でも山手の外国人墓地っていうのは由緒ある外国人ばかりが埋葬されてますので、ほんとは素性の知れない赤ちゃんを埋めたりできない。だけどどんどんそうした遺体の数が増えてったそうです。他に場所がないかと探したら、山手の駅のすぐ近く、根岸にもうひとつ大きな、割と忘れられた外国人墓地があったんです。そこなら空いてるからっていうんで、どんどんどんどん赤ちゃんを埋めていった。びっくりしましたよね、私と同じぐらいの年に生まれて、そんなふうに闇に葬られた子どもがいたのかしらと思って調べてみると、どうもこれが事実らしくて、山手外国人墓地には以前、小さな木の十字架がたくさん並んでたそうです。それが整備されて、消えたんです。私が取材を始めた頃も市役所の人に尋ねると、「あったかも知れないけど、なかったということになってます」みたいなね、あいまいなお返事でしたけれども、それはあったと考えて不思議ではないと思います。
エリザベスサンダースホームとかね、ありましたよね。そういうところに収容されたり、それから誰かに引き取られたり、それからお父さんとお母さんが結婚して幸せに育った子もおりますけれども、随分とたくさんの子どもたちが栄養失調、その他で犠牲になりました。生きのびた子どもたちも、ハーフであるがゆえに差別をされたようです。ところが私が二十歳(はたち)ぐらいになったときには、世の中で一大ハーフブームというのが起きまして、前田美波里(まえだ びばり)さん、資生堂のコマーシャルに出ましたけど、前田美波里さんを筆頭に、歌手だのモデルさんだのハーフの人がいっぱい現れたんですね。日本人の価値観が変わったんですね。何かこう、欧米文化に対するあこがれです。ゴールデンカップスの人気も無関係ではありません。このあたりのことを詳しく書いていますので、機会があれば『天使はブルースを歌う』という本を読んでいただけたらなぁと思います。
街に立ってた女の人たちは亡くなったり、それから別の職業になったりして消えていきましたが、ただ一人消えないでずっーと残ってたのがメリーさんですね。どんどんどんどん白塗りになって。そのメリーさんも今は横浜から消えてしまいましたけれども、私はメリーさんを見るたびに、戦争があったということ、一番辛いところに立たされたあげく歴史から消されていった女性たち、そして闇に葬られた子どもたちがいることを、忘れてはいけないんだよって言われているような気がしたものです。
○司会:ありがとうございました。ちょっと場所を移して、本牧辺りのお話を少しうかがいたいと思ってます。先ほどあの、マッカーサーを出迎えに行ったという貴重なお話を聞いたんですけど、マッカーサーが来たあとの本牧の様子について少しエピソード、いただいておりますので御紹介いたします。
○(エピソード朗読):「マッカーサーが来ると、まずあっという間に飛行場を作り、飛行場ができたと思ったらかまぼこ兵舎が作られた。接収された土地との境には金網が張られ、金網越しに米兵の生活が見えていた。子どもたちが金網の周りに集まって「ギブ ミー チョコレート」と言っていた。」
「家の蔵がアメリカ兵に接収された。蔵の扉を壊して、中にしまってあったカメラや兜、槍などを略奪していくのを、金網越しに見ていた。交番に訴えてもどうにもならず、とてもショッキングな出来事だった。」
「終戦後、まだ米軍が進駐軍といわれていた頃のことです。父が東電に勤めていた関係で、米軍接収地の本牧に変電所を作るときの話です。米軍の命令で一定の期日までに変電所を作らなければならないので大変だったと思います。私の家は空襲に焼けなかったので割合に広い離れが空いていました。そこに作業をする人が7、8人泊まりこんで仕事をしたのです。まだ食堂だのないときでしたから、食事を作る母は大変でした。私は昼間は学校に通って(かよって)おりましたので工事についてはよくわかりませんが、朝晩は大所帯でした。街の中に高圧線を引くのに人の住んでいないところを通さないといけないので、場所の選定が大変だということでした。期日が迫るとコンクリートの基礎がまだよく固まらないうちに変圧器を乗せたりした。難しい工事だったと聞いております。そのようにして変電所ができて、本牧には夜間照明のある米軍野球場などが始まったのでした。」
○司会:片方では食べるものがないといいながら、片方では、野球場を作るという、この大きな違いが同じ横浜の地で巻き起こっていたわけです。本牧といいますと、私が30数年前に横浜に来たときに、本牧のあの米軍接収地の横の通りを通ったときに、あぁー、横浜に来たなぁーっていう、非常に能天気で申しわけないんですが、そういうアメリカのにおいを感じたものでした。
今まで野毛、伊勢佐木町中心でございましたが、本牧の思い出について、特に接収について何か思い出を語っていただける方、いらっしゃいませんでしょうか。じゃあ大久保さん、お願いします。
○大久保:えー、私は昭和19年に本牧に疎開してまいりました。で、すぐ大空襲がありまして、焼野原になったわけなんですが、一番記憶に残っているのは終戦後、すぐに上陸用舟艇(じょうりくようしゅうてい)というのが本牧の海岸から上がってきたことなんです。船自動車(ふねじどうしゃ)とも言ってましたけど、船に車が付いて、それがガラガラガラガラ陸へ上がってくるんですね。その辺あたりで向こうの国と日本の国力の差を子どもながらに実感いたしました。それからすぐに小港、本牧原、あの周辺が接収ということになったらしいんです。で、その辺りに住んでいた人たち及び焼け出された人たちはすぐ立ち退かないと、ブルドーザーで家を壊されてしまうという立場になりました。で、身を挺してここをどかないという人は、じゃあ、お前の体ごとブルドーザーで片付けちゃうよって、そういうような米軍の言葉もあったそうです。実際に私の英語の先生はブルドーザーに轢き殺された人のおばあちゃんの幽霊を見たって、そんなことを子ども心に聞いたことがありました。
ですが、立派に出来上がってみますと海岸の、本牧の海の方面はエリア1(ワン)という名前が付きまして、米軍の位の下の兵隊さんの家族のハウスになって、私も遊びに行ったことがありました。山側の方はエリア2という名前で、少し位の高い米軍の方の家族のおうちになりました。
で、本牧の商店の人たちは花屋さん、八百屋さん、魚屋さん、みんなすぐに英語を覚えて、簡単なブロウクンイングリッシュで会話をして、非常に商売繁盛していた記憶がございます。嶋田さんも同じような記憶がおありと思いますが。
○嶋田:今の山手のトンネルを越えると、そこはアメリカナイズされた街でした。まずは広告がですね、横文字に変わる。かつて山手のトンネルを越えると潮風の吹く本牧というイメージがあったようですが、戦後はそこにアメリカの風が吹いていたという感じですね。
で、そういう中であそこを通ると周りにね、鉄条網というか、フェンスに囲まれて、外国の方の生活があったわけですが、私は昭和22年、小学校に入ります。で、その頃の思い出をひとつ。本牧の、フェンスの向こうでですね、22年に小学校に入った頃、学校は二部授業です。午前の部、午後の部がある。そして非常に寒い冬はスカートの下にもんぺをはいて行く。家の暖房はこたつ、あるいは何でしょう、火鉢。そういう時代にフェンスの向こうではエリア全体が暖房されてるんです。で、半袖の、それこそ薄いワンピースの上に毛皮をぱっとはおって、アメ車がカァーッと出てく。本当にその当時の日本の生活とアメリカの生活の違いを目の当たりにしたのを覚えています。
○司会:はい、ありがとうございました。今、3時55分でございまして、3時55分なんですがまだ昭和20年代でございまして、なかなかどうも今日中には終わりそうもないという雰囲気になってまいりまして、うーん、どうしましょう。(会場から声あり) はい、そうですね。あの、もし皆様がまた来ていただけるという、お約束をいただけるのであればまた、またの機会を設けさせていただきまして、この続きを是非、お話をうかがいたいと思いますが、よろしいですか。(会場から拍手多数)
○司会:ありがとうございます。私だけここにいるという状態じゃ困るので是非、皆さんまたどうぞお越しになってくださいね。よろしくお願いいたします。何だかパネラーの皆様も中途半端な終わり方で、申し訳ございません。是非またこの機会、設けますので皆様も図書館からのお知らせを見落としのないようにご注意いただきまして是非またお集まりいただき、またこの続きを、お話をしたいなと思います。今日はどうもありがとうございました。何か中途半端な終わり方で申し訳ございません。ありがとうございました。(会場から拍手多数)

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