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6(1)エピソード一覧(テーマ別)

最終更新日 2020年2月13日

「横浜市立図書館創立90周年記念 パネルディスカッション あの頃の、ヨコハマは・・・ 記録集」

6 資料集

・市民の皆様からお寄せいただいた『エピソード』と『写真』です。
・図書館の責任において、若干の編集を施させていただいたことをお断りいたします。
・お寄せいただいたエピソードと史実との照合はいたしておりません。
(1)エピソード一覧(テーマ別)

<テーマ一覧>

吉田新田震災野毛山プール野毛山娯楽施設(野毛・伊勢佐木・吉野町・黄金町・末吉町・北方町)/戦争(野毛・伊勢佐木・元町(もとまち)・本牧(ほんもく)・山手・桟橋・港・赤レンガ・山下公園・Y校・空襲(1)・本郷台・空襲(2))/桜木町事件鯨通り桜木町デパート野毛山動物園露天商図書館野毛の様子日雇い労働ダンス遊園地桜木町駅横浜駅市電鉄道横浜スタジアムその他横浜について(大岡川/マリンタワー/磯子/根岸/横浜/藤棚/屏風ヶ浦/三渓園/その他)/みなとみらい税務署・にぎわい座野球東急線ゆず

●吉田新田
1 吉田新田は開拓から400年になるが、横浜は開港からまだ150年で、横浜は孫みたいなもの。江戸の大火で材木商として財をなした吉田勘兵衛が、仕入れで通る横浜に目をつけ、幕府に埋め立てを願い出たのが吉田新田の始まり。将軍も吉田新田に鷹狩りにきていたらしい。(提供者ク

●震災
2震災後、野毛大通りの道幅が広がった。その時家の土地を無償で提供した。(提供者カ
3震災後2年経ってから生まれたが、当時は震災で怪我をした人が身近にかなりいて、震災が現実の問題だった。(提供者ク
4「復興小学校」というものが横浜にもあった。また、野毛坂下ったところに「復興アパート」があった。(提供者テ

●野毛山プール(1949年(昭和24)年噴水池として野毛山公園プール誕生)
5 野毛山にはプールがあって、50mもあるプールで、まわりがコロッセオみたいになってるんだけど、そこでプロレスの興行とかもやってたなぁ。遠藤幸吉っていう力道山のパートナーの事務所が近くにあって、遠藤幸吉もそこで興行やってたなぁ。
そのプールは大会とかにも使えるような立派なプールだったんだけど、叶屋のもう亡くなった御主人がそのプールで泳いだことがあるって自慢気に言っていたな。(提供者ウ
6 野毛山のプールには10mの飛び込み台があった。子供は一番上の段からの飛び込みは禁止されていたが、競って高いところから飛び込んで遊んだ。 (提供者ツ
7 野毛山公園のプールには、主人が息子を連れて行っていた。水泳大会のアナウンスが聞こえてくると、夏が来たと感じた。(提供者イ

●野毛山
8 正月には門松をたてたが、正月明けに雪が降ると、門松の竹を二つに割ってスキー板にした。それで野毛山を滑った。(提供者キ
9 野毛山のあたりは、昔官庁街だった。(提供者テ

●娯楽施設・野毛
10 野毛にはパチンコ屋さん(モナコ、ホームラン)とか映画館とか遊ぶ場所がたくさんあったな。遊びと食事は野毛が一番って感じだった。今のJRAは吉本劇場や国際劇場っていう映画館だったんだ。映画館って言っても、当時は映画だけじゃなく、歌謡ショーとかもやってたんだ。そこで美空ひばりはデビューしたんだよ。(提供者ウ
11 今JRAがある場所は、戦前は憲兵司令部だったが、その後、マッカーサー劇場・国際劇場となり、今では180度イメージの違う建物になった。(提供者カ
12 有隣堂や、マッカーサー劇場、国際劇場があったのを覚えている。金物店を営んでいたが、店に美空ひばりがスリッパを買いにきたことがある。(提供者キ
13 美空ひばりはデビューした劇場がこの辺りにあった(今のJRAか?)。美空ひばりの像がある辺りなのか。(提供者テ
14 野毛での映画が懐かしい。(提供者参加者)

●娯楽施設・伊勢佐木
15 伊勢佐木町3丁目辺りには両国屋(喜楽座)や賑座があり、東京でやるような芝居を伊勢佐木町で見ることが出来た。
また、デパートの前身である勧工場(かんこうじょう)が芝居小屋の下にでき、だんだん独立した勧工場ができてきた。(備考:1880(明治13)年賑座開業、1899(明治32)年喜楽座(前身は両国座)開業、1911(明治44)年オデヲン座開業)(提供者エ
16 明治になって、芝居小屋が映画館に変わっていった。
特に戦後は映画の絶頂期だった。オデヲン座は洋画の封切館(封を切って一番に放映する映画館)だった。賑座や両国屋も東映、松竹、ピカデリー座などに変っていった。(提供者エ
17 明治7年に埋めたてが完了し、羽衣町にあった芝居小屋、寄席、的に矢を打つ遊び場などが伊勢佐木町に移ってきた。このエンターテイメント施設と松坂屋の跡地にあった常清寺を目当てに人がどんどん集まってきた。(提供者エ
18 「昭和10年頃のハマの活弁時代の想い出」
概要:石崎町という市電の停留所があり、その前に日本館という映画館があった。小学校6年生であった昭和10年、母親と一緒によく見に行った。日本館は無声映画が主力で、スクリーン横には弁士が立ち、スクリーンと客席の間には楽師たちのスペースがあった。
日本館がある通りでは大都映画の撮影の控え所になる店があり、大都映画巣鴨撮影所のトラックが毎日のように止まっていた。俳優たちが自宅の店によく煙草や切手を買い物に訪れた。(提供者ス
19 伊勢佐木町周辺にたくさんあった映画館が思い出として残っている。(参加者)
20 明治32年、大きな火事があって辺り一帯焼け野原となった。その結果、伊勢佐木町には大きな道が出来た。この頃に、伊勢佐木町はエンターテイメントの街から商売の街に変わっていく転換期を迎えたように思う。 伊勢佐木町に野沢屋、松屋(元町で呉服屋として出てきた)という大手企業が進出してきて、商売の街に変わってきた。
その後、震災まで伊勢佐木町は商業地となった。(備考:1909(明治42)年野沢屋呉服店、伊勢佐木町支店開業、1953(昭和28)年接収解除後、「野沢屋」として開業)(提供者エ
21 戦後は、伊勢佐木町にも遊びに行っていた。野沢屋さんのマークが「入九」だったので、「いりく」と呼んでいた。(提供者イ
22 松坂屋には、従業員も入ったことのない秘密の部屋があった。お客様からは見えない、バックヤードにあった。松坂屋は増改築を繰り返していたために、そんな部屋が出来た。(提供者ケ
23 松坂屋の建物は、歴史的建造物のため、外壁沿いに足場を作って、壁面落下防止の作業を行った。その際に間近に外壁を見たが、装飾は素晴らしく、落下物を記念にもらったりした。(提供者ケ
24 自分が伊勢佐木で働こうと思ったのは、小学校の頃、母親に連れられて、一度だけ「野沢屋」に来たことがきっかけ。その時の野沢屋の店員さんがとても親切で記憶に残り、伊勢佐木の百貨店に勤めることになった。(提供者ケ
25 家族で伊勢佐木町や中華街に食事に行った。(参加者)
26 父親の代から、曙町で「岡野乾物店」という食料品店をやっていた。砂糖や小麦粉を扱っていて、「みのや本店」にも卸していた。伊勢佐木の商店をマス目にした双六(昭和10年発行)にも店の名前が載っていて、それが家に飾ってあった。戦争中はみんな配給切符を持って、買い物にきていた。(提供者サ
27 昭和20年の終戦まで、商業の独壇場だった。横浜唯一の商店街だった。昭和30年に接収が解除され、ビルがどんどん建った。平沼市長から、「古くて新しい町」と呼ばれていた。昭和30年から昭和40年の間に横浜駅の西口にダイヤモンド街などができ、発展してきた。こういう風に各駅のまわりが発展していって、商業が一極集中から分散型へと変わってきた。分散することで、伊勢佐木町の力が弱まっていった。(提供者エ
28 平成7年に元コトブキヤだった松屋が馬券売り場になった。また、イセザキモールにパチンコ屋が出来、良く捉えればエンターテイメントが復興した。イセザキモールの通行人は元町より1時間当たり1000人通行人が多い。 今は松坂屋がないのに人通りがある。今年の12月末に松坂屋の生活館がオープンしたら、もっと人通りが増え、活気づくだろう。イセザキモールは、全国で唯一の終日歩行者天国の場所。(提供者エ
29 伊勢佐木の商店街のDNAは変わらない。伊勢佐木町は、イベントを多く行い、人を集める。埋立地だったため、人を集めて地を踏み固めていた頃に始まり、見世物小屋で人が集まれば飲食店も増え、自然に商店街となった。コンサートや寄席というようなイベントは今も多く、町本来の生き方をしているのが伊勢佐木。ユニクロ等の進出から、ビジネスチャンスとしての伊勢佐木の活力も証明されている。(提供者ケ
30 昭和10年の生まれで、小さい頃子供たちはみんな伊勢佐木町のあたりを裸足で走り回っていた。(提供者カ

●娯楽施設・吉野町
31 小さい頃、吉野町の市場まで、さつま揚げなんかを買いにお使いに行っていた。(提供者カ

●娯楽施設
32 カンカン屋などの肉体労働者の人たちが、路上でヒロポンを注射していた。戦後しばらくは麻薬や売春の黄金地帯などと呼ばれているような地域もあった。(提供者ク

●娯楽施設・末吉町
33 末吉町は、西洋野菜の発祥の地である。(提供者ク

●娯楽施設・北方町
34 北方町に松島館という芝居小屋があり、小学校四年くらいの時初めて、曾祖母さんと一緒に芝居を見に行った。(提供者コ

●戦争・野毛(のげ)
35 野毛に憲兵隊隊長などの官舎があった。(提供者カ
36 小学校時代、都橋の向こうに見えたカマボコ兵舎が強く印象に残っている。(提供者カ
37 「野毛山公園で占領軍兵士に人形を売る」
概要:昭和20年10月ごろ。占領軍兵士が日本の美術品などを言い値で買ってくれると聞いた当時10歳の私は母と二人で野毛山公園に人形を売りに行った。公園の広場は物を売る人、空腹の日本人などでごった返していた。(提供者チ

●戦争・伊勢佐木(いせざき)
38 横浜には運河が縦横無尽にはしっていた。中村橋のところにある山の土を使って1859年に港を埋め立てるときに土を運ぶのに運河を使うなど、運河あっての横浜の港だった。吉田橋の下も、昔は運河だった。吉田橋の下の運河を埋め立てるのに神奈川宿と保土ヶ谷宿から野毛の切通しを通って人足が集まった。吉田町は人足町として栄えた。有隣堂も吉田町にあった。(提供者エ
39 空襲の数日後、疎開先の小田原より横浜に入った。川の水が流れなくなるくらい死体が散乱していた。焼夷弾から逃れるため川に飛び込んだが、絶壁の河岸を登れなかったのではないか。ぽつぽつとビルが焼け残っていたが、あたり一面が建物がなく、長者町に立つと港まで見通すことができた。(提供者ク
40 伊勢佐木町の角のあたりに下士官用の慰安施設があり、その周りに娼婦が集まってきていた。米兵たちは、わらじのような大きさの肉を食べていた。その食べ残しや缶ビールの飲み残しを拾い、川沿い(大通り)で食べている人がいた。(提供者ク
41 将校用の施設として、伊勢佐木の不二家が接収されていた。(提供者ク
42 伊勢佐木町の不二家は、横浜に来てはじめて入ったお店だった。(参加者)
43 火事や震災、商業の分散などいろいろな危機があったけど、伊勢佐木町はそういう危機を力に変えていってどんどん発展した。(提供者エ
44 伊勢佐木町1丁目には、朝鮮戦争で負傷した米軍の偉い人がかかる病院があった。そのために、伊勢佐木町に滑走路があった。(提供者ツ

●戦争・元町(もとまち)
45 元町は、小さいころは今みたいにお店が多かったわけではないけど、オリジナルの商品を扱っているお店が多くて面白かった。
輸入のさいふや靴を扱っていたフクゾウ、帽子屋のウルベ、イギリスの輸入品を扱っていたポピー。ミハマで買った靴を履いて旅行に行ったときは、いい靴だって褒められたわ。やっぱり色々な国の輸入品があった。川も交易の場でにぎわっていたしね。三井物産の船から、不良品を譲ってもらったりもしてね。川もきれいだった。(提供者オ
46 元町にあった「大活」大正活映で、曙町出身(「岡野乾物店」)のオペラ歌手、紅澤葉子(べにざわ ようこ)が俳優をしていた。『横濱行進曲』という劇でこの紅澤葉子の役を、五大路子(ごだい みちこ)が演じていたこともある。(備考:1920(大正)9年大正活映開業)(提供者サ

●戦争・本牧(ほんもく)
47 マッカーサーがくると、まずあっという間に飛行場を作り、飛行場ができたと思ったら、カマボコ兵舎が作られた。接収された土地との境には金網が張られ、金網越しに米兵の生活が見えていた。子どもたちが金網の周りに集まって、ギブミーチョコレートと言っていた。(提供者ク
48 家の蔵がアメリカ兵に接収された。蔵の扉を壊して、中にしまってあったカメラや兜、槍などを略奪していくのを金網越しに見ていた。交番に訴えてもどうにもならず、とてもショッキングな出来事だった。(提供者ク
49 「あかざ、しろざ、残飯の想い出」概要:昭和20年夏。空襲で焼け野原となった箇所に野草の「あかざ」、「しろざ」がたくさん自生していた。米の配給が十分ない当時、癖のない「あかざ」、「しろざ」を雑炊に入れて食べていた。戦後、父が進駐軍の残飯を買ってきた。当時、常に空腹だったため、ものすごくおいしく、こんなに美味いものを食べているアメリカ軍と戦争をして勝てるはずがないと思った。(提供者チ
50 東電に勤めていた父親が、終戦後米軍接収地だった本牧に変電所を作る工事に関わっていた。街中に高圧線を通すというので、大変だったらしい。この変電所ができ、本牧では夜間照明のある米軍野球場等が始まった。(提供者コ
51 本牧小港の米軍接収地が思い出になっている。(参加者)
52 本牧に米軍のハウスがあった。(参加者)
53 小港(こみなと)で海水浴ができた。(参加者)

●戦争・山手
54 タイトル:「このような英語なら俺達でも話せる」概要:昭和27年。山手のアメリカ人家族が住む白い家に若い日本人女性のメイドがいた。英語が話せるのかとか感心していつも見ていたが、ある日彼女がYes,No程度しか話せないのを見、この程度なら俺達でも話せると高校の同級生達と話した。(提供者チ
55 タイトル:「空襲警報と警察」概要:昭和19年ごろ。空襲警戒警報が発令された、国民学校からの帰り道に、山手警察署に逃げ込んだが、巡査に追い出され、自宅の防空壕に入った。なぜ警察署に避難していけなかったのか、いまだに疑問である。(提供者チ
56 マッカーサーの親戚が山手に住んでいた。そのおかげで山手に空襲がなかったらしい。(提供者ツ
57 山手付近を歩くと坂など雰囲気がよく、故郷の長崎を思い出す。(参加者)

●戦争・桟橋
58 大桟橋は横浜市に一番初めに返された桟橋。東神奈川付近には、「ノースピア」というまだ返還されていない桟橋もある。(提供者ツ
59 小さい頃よく行った大さん橋。横浜に住んでいる人にとっては普通の風景だが、こういうものがないところに行くと、ああ珍しいものなんだなあと感じる。(参加者)

●戦争・港
60 昭和39年から40年頃、港に船がいっぱいで、港に入るために船が50日くらい待っていることもあった。(提供者テ
61 横浜港はGHQが使うために開発された。(提供者ツ
62 「横浜港を出港する最後の移民船「あるぜんちな丸」」さすがにこのころの移民船は珍しく、この船が最後の出港となった。ブラジルへの移民で若い夫婦が多かった。家族・親戚が抱き合って別れを惜しんでいた。農業大学などの後輩は元気よくあちこちでエールを送っていた。(提供者ソ

●戦争・赤レンガ
63 赤レンガ倉庫は米軍の刑務所だったことがある。(提供者テ

●戦争・山下公園
64 米兵の子どもと友達になり、家に招待した。お返しに、山下公園にある高級将校の家に招待された。家の中はまさにアメリカという感じだった。クリスマスとか楽しみにしていたが、プレゼントを用意するのに苦労した。(提供者ク

●戦争・Y校
65 Y校に通っていた。帽子に校章のYの字が入っていたが、戦時は敵国の字ということで、「Y」でなく「横商」という字を使っていた。(提供者サ
66 Y校の5年生に上がる前に、繰上げ卒業となって軍需工場に動員になった。(提供者サ

●戦争・空襲(1)
67 小学校に上がる前に横浜大空襲にあった。(参加者)

●戦争・本郷台
68 本郷台のあたりは軍用の燃料倉庫が多かった。弾薬庫もあった。(提供者ツ

●戦争・空襲(2)

69 横浜大空襲の時は、横浜の方の空が赤くなっているのが国府津から見えた。 (提供者ク

●桜木町事件

(備考1951(昭和26)年桜木町事件※国鉄桜木町駅構内で電車の1・2両目が炎上し、106人が焼死した。作業ミスによって架線が垂れ下がっていたことによる事故。)
70 桜木町事件。電車が燃え多くの死者が出た。この事件以後、独立していた車両1両1両が幌でつながり乗客が通り抜けできるようになったり、窓も大きく開くようになった。慰霊碑が桜木町駅の近くにあったような… 。(提供者テ
71 桜木町事件のことをよく覚えている。90人~100人くらい亡くなったのではないか。そのとき小学校5年生だったが、当時はビルもなく、学校の教室や屋上から現場が見えた。(提供者キ

●鯨通り
72 野毛には鯨通りがあった(たくさん鯨料理の店が並んでいた)(提供者テ

●桜木町デパート
73 桜木デパートっていうのが今のぴおシティの横にある駐車場にあった。2階建てで、1階には不二家があって2階はバー街になってたんだ。(提供者ウ

●野毛山動物園

(備考:1951(昭和26)年「野毛山遊園地」として野毛山動物園開園。ぞうのハマ子来園、1971(昭和46)年野毛山動物園入口付近に歩道橋架設、2003(平成15)年野毛山動物園改修工事終了、全面開園)
74 野毛山動物園の動物たちも、終戦の境のあたりに注射で殺された。(提供者ク
75 昭和25年頃、野毛山動物園にいたハマ子が野毛を歩いたんだ。今にして思えば、港に着いたハマ子を運ぶ手段が無くて、港から野毛山までずっと歩いてきたんじゃないかな。ちょうど見ていた自分をハマ子に乗せてくれたんだ。半ズボンはいてたんだけど、象の皮膚って固くてざらざらしてて、固い毛が生えてるんだよ。それがチクチクして痛かったなぁ。(提供者ウ
76 ハマ子はインドから来た。(提供者ツ
77 昭和30年代、町田から遠足で野毛山動物園やマリンタワーに来た。あの頃は、動物園といえば上野か野毛山動物園だった。(提供者ツ
78 野毛山動物園に陸橋が出来た時、息子がテープカットをした。息子が幼稚園の頃で、野毛山幼稚園の子ども達でテープカットを見に行った。10年前の冬には、孫が野毛山動物園のリニューアルのテープカットに行ったから、親子2代で野毛山動物園のテープカットに行ったわね。(提供者イ
79 野毛山動物園前の入口を憶えている。(参加者)
80 野毛山動物園に幼稚園の遠足で行き、象のバッヂをもらう。(参加者)

●露天商
81 露天商が昭和30年くらいまであったと思うが、当時は一番野毛が華やかな時代だったのではないか。なんでもそろうし、なんでもOKという感じだった。泥棒なんかもいて、家からなくなった家具が家具屋にいくと売られていたりした。(提供者キ
82 野毛には露天商がたくさんいた。道路の上に60件くらい並んでいたと思う。“おとりさま”を仕切っているのは“とび”だった。(提供者ク
83 昔はいろいろな商売があった。呉服屋とか畳屋とか。露店商では靴とか洋服とか時計を売っていた。だんだん飲食店が増えてきた。今の大岡川沿いに靴屋が多いのは、露店商がなくなった時に靴屋がそこに移った名残。(提供者キ
84 野毛には大きい店はなく、小さい商店が多くあり、自分で買い物用のかごを持って、商品を買って回っていた。おせんべやあめも一個ずつバラ売りしていた。木造りのアーケードや露天商もあり、にぎやかだった。露天商は、バスが通るときに邪魔になるので無くなってしまった。都橋の横の2階建ての建物に移り、今も残っている。夜遅く露天商に遊びに行ったりしていて、楽しかった。食べ物も着るものも、やかん、鍋、日用雑貨も、野毛にいれば何でもそろった。(提供者オ
85 昔は露天商が野毛の大通りから都橋までずっと並んでいたが、それがなくなったのがこのあたりの一番大きな変わったこと。露天商には、食べ物以外のほとんどの物が売ってあった。ジーパンとか洋服をよく買いに行った。今のにぎわい座が中区の税務署だったけど、露天商にはハンコも売ってあった。もうなくなったけど、横浜銀行野毛支店っていうのもあった。露天商にはなんでも売ってあって、どの世代の人も買いに行っていた。露天商がなくなったのは、オリンピックの影響。(提供者ア
86 昭和39年のオリンピックを機に、露天商を都橋沿いの建物に押し込めちゃった。オリンピックで世界中から人が来るのに、戦後を引きずりたくなかったんだろうと思う。露天商が並んでいた頃の町のイメージは「怖い、汚い、暗い」だから。露天商が無くなったことで、野毛に来るお客さんが減った。露天商が無くなることに反発した人たちもいただろうが、野毛のあたりにはやくざ者も多かったから、そういう人たちの力もあって整備されてきたんだろうな。(提供者ウ
87 露天に行けば、あらゆるものが売ってあった。野毛もにぎわっていて、村田家もいつだって行列になっていた。あらゆるものが野毛に集まっていた。その分、ヤクザ者も多かった。(提供者ウ
88 東京オリンピックのときに露天商を都橋の建物に押し込んでしまい、それで野毛の賑わいが減ってしまったと思う。(提供者カ
89 ヤミ市と屋台(オリンピックのため撤去された)が思い出として残っている。ザキと野毛にはずらっと並んでいた。(参加者)

●図書館
90 受験勉強の図書館をよく利用した。当時はまだ古い建物だった。チラシの建物に見覚えがある。(提供者キ
91 横浜市立現中央図書館に約60年前のノラクロのマンガを読みに来て楽しかった。(参加者)
92 中学受験の時、野毛の図書館を利用していた。席をとるために朝早くから並んでいた。本は貴重品で、当時は貸出はやっていなかった。(提供者ク

●野毛の様子
93 野毛には、とうもろこしを持ち込むと、10円くらい?でポン菓子を作ってくれる店があった。(提供者カ
94 川で拾ったとうもろこしなどを、野毛の爆発屋でポン菓子にしてもらった。(提供者キ
95 小学校のころは崖をのぼったり、木登りしたり、たこ揚げをしたり。テレビがなかった。テレビがきたのは昭和39年くらい。力道山の試合なんかを、電気屋さんのテレビでみた。当時はまだ子どもで、前の方じゃないと見えない。早く行って、場所取りをしたりした。(提供者キ
96 昔は風呂屋がいくつかあった。自宅に風呂がないので、みんな風呂屋にいった。風呂屋はコミュニケーションの場所だった。(提供者キ
97 昔と言えば、昭和30年代半ばまで、野毛には馬車が来ていた。乗るためじゃなく、水洗トイレが無かったから、汲み上げた物を積みに来てたんだ。夏の暑いときに、ちょうど砂利からアスファルトに道を整備してたんだけど、ならしたばかりのアスファルトに馬が小便をするから、アスファルトに穴があいちゃったりしたのを覚えている。(提供者ウ
98 野毛に来たころ(昭和32年ごろ)は、野毛の大通りには食べ物やさんは曾星楼(かいせいろう)(中華)しかなかった。今も残っているのは、曾星楼とお茶屋の三河屋さん。他は、時計やとか金物屋とかがあったくらい。このあたりで古くからある店は村田家と松本薬局、かめや(寿司屋)。(提供者ア
99 昭和26年ごろ氷の販売をしていた。ホテルニューグランドに納品をしていて、それが今でも続いている。(提供者キ
100 野毛はお父ちゃん・お母ちゃんでやっている店が多い。お客さんを大事にするし、お客さんの話を聞いてあげたりする場所になっている。店の方も2代目、3代目と受け継がれていっているが、お客さんの方も長く付き合って2代目、3代目になったりしている。お客さんと心でつながっている場所だと思う。(提供者キ
101 草競馬の馬券場が日ノ出町の駅の辺りにあった。(提供者テ
102 昔は、日ノ出町と桜木町を結ぶ道路は村田家の前の野毛仲通り(当時は野毛駅前仲通り)だったんだよ。今でも、日ノ出町から桜木町までまっすぐ伸びているでしょ。(提供者ウ
103 野毛には米軍も遊びに来ていて、チョコレートやガソリンとか売ってた。米軍は、野毛にそういうものを売って、そのあとMPとして取り締まりに来てたんだから、全くひどい話だよ。伊勢佐木町と野毛の間くらいに「根岸屋」っていう24時間営業のお店があって、舟で横浜に着いた船員たちが遊んでいたよ。外国の人にとっても野毛は遊ぶ町だったんだよ。(提供者ウ
104 あとは、野毛といえば旅館だね。旅館には2つの目的があって、一つは売春、もう一つは外国への移民のための宿泊所。移民の手続きには日数がかかることがあったからね。黄金町と日ノ出町の間にある山城屋さんなんてその一つだよ。(提供者ウ
105 野毛浦という浦があったので、今でもウナギ屋が多い。(提供者イ
106 昭和30年頃は、どこに働きに行っても、お米の登録証とお布団を持って行っていた。お米の登録証が人口調査をかねていて、お米屋さんが町内のことを把握していたのよ。だから町にはお米屋さんはあるでしょ。(提供者オ
107 今通りにあるマンホールは、家の井戸だった。今はNTTが使っているが、井戸の内側の淵を囲う竹はそのまま残っている。(提供者カ
108 通っていた老松小学校の校庭はアスファルトだった。夏場は裸足で立っていると足の裏が暑く、足を踏みかえ踏みかえしていた。(提供者カ
109 教育委員会主催で蔵王にスキーに行く、「市民スキー」というものがあった。野毛や伊勢佐木町の仲間で問題を起こしてしまい、それ以来野毛地区の人間は出入り禁止になった。(提供者カ
110 食料が配給制だった頃、規制を受けない華僑が野毛に集まって料理屋をやっていた。(提供者カ
111 野毛には銀行が多かった。浜銀や帝国銀行、三和銀行、三井銀行。経済がしっかりしていたということだと思う。(提供者キ
112 130年近く続いた「魚幸」は、野毛山の茂木惣兵衛の家や、山を越えた原三渓の家、病院などに仕出もしていた。
ラジオ関東によれば、大正8年10月には山田屋に対して、1860円の売り上げがあった。現在の価格では、2000万円くらいになるらしい。

ある冬、茂木惣兵衛がナスを食べたいと言い出したがなかなか手に入らず、魚幸に依頼がきた。店の若い衆が、鑑賞用のナスがあるのを見つけ、それを買ってきた。(提供者カ
113 野毛は「ダービーの町」と言われていた。一時は競艇などのギャンブル系の施設を野毛に集め、夜の町として復活しようという考えもあった。(提供者ク

●日雇い労働
114 昭和40年頃、桜木町から都橋にかけて日雇い労働者が集まる場所があった。人が多く集まるため、食堂や飲み屋がたくさんできた。日雇い労働者の日当は1500円くらいだったような(当時の公務員の月給が1万円)(提供者テ
115 野毛には税務所や区役所があった。職安もあって、一日はたらいて240円とかだった。日雇いの仕事にあぶれた人が立飲み屋で飲んでたりした。(提供者キ
116 日雇いの労働者はトラックに詰まれていき、船着場で荷運びをしていた。(提供者キ
117 野毛には港湾関係の仕事を求める肉体労働者が集まっていて、そういった人たちのハローワークや飲食街になっていた。(提供者ク

●ダンス
118 昭和40年ごろ、「ハマジル(=横浜ジルバ)」があった。横浜独特のダンスだった。(提供者テ

●遊園地

(備考:横浜ドリームランド:1964(昭和39)年開園、2002(平成14)年閉園)
119 「全盛期の横浜ドリームランド」敷地面積が一番広かったころの「横浜ドリームランド」。ここへ行くまでのモノレールも珍しかったし、大規模な施設にビックリしたものだった。私のお気に入りは水中を眺められる潜水艦。写真はゲートを入ってすぐの大花壇を見たもの。この日は平日で人出は少なかった。(提供者ソ

●桜木町駅

(備考:1964(昭和39)年根岸線桜木町-磯子間開通、1983(昭和58)年三菱造船所閉所)
120 昭和40年代後半から昭和50年代にかけて、野毛がすたれてきた。三菱造船所が閉所したし、桜木町が終点じゃなくなったから、桜木町で降りる人が減った。駅と野毛がだんだん遠くなってきた。(提供者ウ
121 JRは桜木町が終点だった。みんな桜木町で降りて、野毛を通って伊勢佐木町へ行った。(提供者キ
122 今の高島町のあたりが桜木町駅だった。碑が立っているのではないか?(提供者テ

●横浜駅
123 相鉄線の横浜駅は木造だった。(提供者テ
124 横浜駅西口には映画館が何館かあった。(提供者テ
125 横浜駅西口は石炭置き場だった。川があって、そこに石炭が積まれていた。(提供者キ
126 横浜東口によく遊びにきていた。新橋から汽車に乗るのが楽しみだった。(参加者)

●市電

(備考:1904(明治37)年横浜電気鉄道により開業、1921(大正10)年横浜市が横浜電気鉄道を買収し市電となる、1972(昭和47)年市電廃止)
127 昭和39年頃は、野毛から杉田まで市電が通っていた。(提供者オ
128 野毛には市電が走っていた。どこかへでかけるのはほとんど市電だった。(提供者キ
129 市電は25円で野毛から杉田まで行けた。よく海水浴にいった。(提供者キ
130 電車は桜木町までしかなかった。杉田や蒔田へ行くには、市電に乗らなければいけなかった。(提供者テ
131 野毛のあたりには市電が走っていた。生麦、杉田、前里町、洪福寺のあたりを走っていた。(提供者ア
132 市電の線路が途切れているところがあった。川沿いに路線が変わったためらしい。(提供者サ
133 桜木町駅前に市電が集まり、不夜城のようだった。(参加者)
134 「廃止直前の横浜市電」交通渋滞の元凶のように見られ、全国各地で路面電車が次ぎ次ぎに廃止されていった。横浜でもこの年(1972年)3月31日でついに全廃されてしまった。同じくこの年、市営地下鉄伊勢佐木長者駅~上大岡間が開通した。(提供者ソ
135 磯子に市電が走っていて海が見えた。(参加者)

●鉄道
136 相鉄線は神中線(じんちゅうせん)という名前だった。神中線は砂利を運んでいた。砂利置き場は今の高島屋の場所。(提供者テ
137 昔は海岸線を横須賀まで軍用物資を運ぶための列車が走っていた。単線だった。今もあるかはわからないが、山下公園に続く道に線路が残っていたと思う。(提供者ツ
138 市営地下鉄は初め、上大岡駅~伊勢佐木長者町駅間で開通した。(備考:1972(昭和47)年市営地下鉄開業)伊勢佐木の商店街は初め地下鉄に反対していたが、いざ駅ができるとなると、自分たちの名前も入れるよう要求したため、「伊勢佐木長者町駅」という長い駅名になった。(提供者サ
139 「閑散としていた新幹線「新横浜」駅前」新横浜駅は開業してしばらく経っても、こんな状態が続いていた。駅前には広大なタクシー乗り場があり、タクシーが手持ちぶさたにしていた。遠くに「新横浜国際ホテル」だけがポツンと立っている。(備考:1964(昭和39)年東海道新幹線新横浜駅開業)(提供者ソ
140 当初は地下の区間しかなかったので、蒔田の杉山神社に大きな穴を掘って車両を下ろした。その頃はどうやって地下に電車を入れるかという漫才が流行っていた。(提供者サ

●横浜スタジアム

(備考:1945(昭和20)年横浜公園野球場は、アメリカに接収され「ゲーリック球場」と改称。1952(昭和27)年接収解除され、市営の平和球場となる。1978(昭和53)年横浜スタジアム開場)
141 横浜スタジアムは、前は平和球場って呼んでたけど、球場下には卓球とか遊べる施設があった。
市役所もまだなかったから、あの辺り一面広場でね。5月のみなと祭には、バザーをやっていた。見世物屋も来ていて、お化け屋敷や食べ物の露店、ヨーヨーや鉛筆つかみもあって、とても楽しみにしていた。(提供者オ
142 現在の横浜スタジアムは戦後はゲーリック・スタジアムという名前で、夜になるとアメフトの試合をやっていた。終わり近くなると無料で入ることができる席があったため、近所の子どもたちで、席に残った食べ残しの缶詰のピーナツを集めたりした。(提供者カ

●その他横浜について・大岡川
143 石炭とか、大岡川を利用して運搬している業者が多かった。(提供者キ
144 いまみなとみらいにある鉄橋は昔は貨物の通り道だった。そこから飛び込んで泳いだりしていた。昔は大岡川もきれいだった。(提供者キ
145 昭和28~35年までの風景・写真(大岡川周辺)を憶えている。(参加者)

●その他横浜について・マリンタワー
146 子供の頃、マリンタワーに遊びに行った思い出がある。(参加者)
147 マリンタワーへよく行った。外の階段を使って上ったこともある。(参加者)

●その他横浜について
148 仕事場が関内なので思い出深い。(参加者)
149 海が埋立てられたことで途絶えていた奇祭・三〇〇年も続いてきた根岸八幡の祭りを、昭和六十年八月三十年振りに復活させた。担ぐ神輿は白滝不動の水で清めた榊の枝だけで造ります。(提供者シ
150 中学生(昭和50年代)の頃、森林公園でマラソン大会があった。(参加者)
151 蒔田公園の近くに寿警察署があった。今は市の施設になっていたような…。(提供者テ

●その他横浜について・磯子
152 磯子の山の上は別荘地だった。(提供者ツ
153 プリンスホテルは皇后様の家の土地だった。(提供者ツ
154 磯子駅のあたりも海だった。産業道路あたりまでは海だった。あのあたりの漁師は埋め立てにあたって賠償金(立ち退き料?)をたくさんもらっただろう。(提供者ツ

●その他横浜について・根岸
155 昭和40年付近に、二歳の娘が根岸喘息と診断された。光化学スモッグなどが発生し、健康被害の話を聞くようになった。(提供者シ
156 根岸の丘陵地にある根岸競馬場が接収解除された。競馬場を記念して馬事公園も作られている。(提供者シ
157 町の人々の健康を支えてくれていた「横浜日赤病院」は「港湾病院」と合併、「みなと赤十字病院」と名を改めて、中区新山下に移転。病院の跡地には、三三〇戸を数える巨大なマンションが建った。(提供者シ

●その他横浜について・横浜
158 洋服は、既製品はあまりない時代だったでしょ。舶来ものを扱っている生地屋で好きな生地を買って、洋裁店に持って行って、洋服に仕立ててもらっていた。昭和33年当時、4000円のブラウスを、三愛で買ったわね。高島屋が出来る前ね。(提供者オ

●その他横浜について・藤棚
159 藤棚商店街のあたり、現在さびれてしまったが、中学・高校時代の青春の思い出。季刊誌「横濱」にも取り上げられていたと思う。(参加者)

●その他横浜について・屏風ヶ浦
160 昔は、南太田から屏風ヶ浦や野毛山まで海水浴や遠足に行っていた。
屏風ヶ浦まで歩いて行ったため、実際泳げたのは1時間ぐらいだった。(提供者ツ

●その他横浜について・三溪園
161 三溪園裏砂浜での潮干狩りが思い出として残っている。(参加者)
162 三溪園近くで潮干狩りをしたことが思い出として残っている。(参加者)

●その他横浜について・みなとみらい
163 みなとみらいが小学校だった。(参加者)
164 みなとみらいが少し前はさびしかったが、だいぶにぎやかになった。(参加者)
165 横浜博からのみなとみらいの発展が思い出となっている。(参加者)
166 みなとみらいが変わったことが思い出となっている。(参加者)
167 「大成功を納めた横浜博覧会」概要:市政100周年・開港130周年を記念して、「宇宙と子どもたち」をテーマに横浜博が開催された。入場予測を上回る大人気で成功をおさめた。(備考:1989(平成元)年横浜博覧会開催)(提供者ソ
168 「建設中のランドマークタワー」 1989(平成元)年10月、横浜博覧会(YES'89)の終了とともに、その跡地に建てられはじめたランドマークタワー。このころようやく姿を現しはじめて、空高くどんどん伸びていった。4つのクレーンが建築の主役で、最後まで大活躍していた。(備考:ランドマーク1990(平成2)年着工、1993(平成5)年開業) (提供者ソ

●税務署・にぎわい座
169 露天商が消えてしばらくはまだよかったが、その後伊勢佐木町のデパート、銀行が5、6年で一斉になくなってしまって不便になった。会社の横浜支店といったら馬車道にあるものだったが、この頃から横浜駅西口に移っていった。(提供者ク
170 野毛の中区税務署もなくなった。中税の署長と言えば出世コースで、池田、佐藤、福田、大平などの歴代総理は20代の頃みんな中税の署長をやっていた。ノンキャリの副署長もここで無事署長を送り出すことができれば、自分も他の税務署の署長になることができた。(提供者ク
171 今のにぎわい座の場所は、昔中区役所か中税務署だった。(備考:2002(平成14)年横浜にぎわい座開業)(提供者テ
172 今のにぎわい座の場所には税務署があったんだ。野毛は物、金、人が集まって潤っていたから、銀行もたくさんあったし、税務署もあったんだ。横浜銀行の野毛支店とか、5つくらいの銀行があった。税務署は福田赳夫とか大平正芳とかが税務署長としていたことがある有名税務署なんだ。 にぎわい座ははじめは馬車道のところにあって、伊勢佐木に移り、そのあと野毛に移って来たんだ。(提供者ウ
173 今のにぎわい座のところに横浜ニュース劇場があった。マンガもやっていたのでよく見にいった。大人も子どもも30円ぐらいじゃなかったかと思う。マンガはディズニーとかで、トムとジェリーを見た覚えがある。力道山の試合もやっていた。一週間のニュースというのをやってたから、一週間に一回は通ったよ。(備考:1947(昭和22)年横浜国際劇場、マッカーサー劇場開業、1950(昭和25~)年代ニュース劇場開業)(提供者キ
174 にぎわい座は、前は税務署でね。ニュース劇場やマリウス(レコード屋)もあって、野毛は本当に横浜で栄えていた。まだ横浜の西口にも何もなかったからね。(提供者オ

●野球
175 「横浜ベイスターズ優勝パレード写真の笑い話」
概要:自分がパレードを写した写真に、神奈川新聞社のカメラマンが市役所の屋上から写真を撮っている姿が写っていた。神奈川新聞社のカメラマンが写した写真に、私の写真をとる撮影の姿が写っていた。お互いに写しあったことになる。(提供者セ

●東急線
176 東急線が廃止されることになってでてきた振興策の中に、大道芸があった。野毛の人たちで、野毛の振興のために何かやろうって言って、昭和60年の春「野毛祭(のげさい)」を実施した。集まった人たちそれぞれの伝手で、絵を描く人、神輿、ジャズ、フリーマーケット、大道芸をやることになった。そしたら、この大道芸が大人気だったから、翌年からは大道芸で行こうって事になった。そもそも大道芸は、投げ銭をもらうから、道路での商売とみなされて、それまでは違法だったんだ。伊勢佐木警察署にも何度も掛け合ったけれどなかなか許可が出なかった。人事異動で小田原から町興しにかかわってきた署長が異動してきて、そこでもう一度お願いに行ったら許可がでたんだ。地元の協力あっての警察だから、警察も地元の力にならなくっちゃといってくれた。こうやって、全国で初めての合法の大道芸は始まったんだ。今でも野毛大道芸は有名だし、最盛期には80万人もの人が来ていた。(備考:2004(平成16)年横浜‐桜木町駅東急東横線廃止、1985(昭和60)年野毛祭開催、1986(昭和61)年野毛大道芸として開始)(提供者ウ
177 野毛には、ざっくばらんに人が来た。クリスマスイヴにケーキを持って、帽子をかぶって訪ねてくるような町。おなじみさんが多くて、親子4代で通っていて、昔からのお客さんが多い。東横線が無くなっても、おなじみさんは通ってきてくれた。野毛手形をきっかけにいらっしゃる新規の方もいて、「野毛に来るとほっとする」と言われる。(提供者イ
178 昭和50年代半ば頃に野毛から店がなくなり、人が減り、5つくらいあった銀行が全部なくなった。昭和59年くらいだったかな。東急線が廃止されることになって、野毛に人を集めなければという事で振興策として、芝居小屋をよぶ話が出て来て、にぎわい座が税務署跡にできたんだ。大道芸の拠点になるっていう話も出たけど、歌丸さんの力かな。(提供者ウ
179 このあたりで一番大きく変わったのは、東横の桜木町駅がなくなったこと。当時商店街に10億円の補助金が出たり、駐車場が入ったりした。(提供者ク
180 東横線が世田谷まで走っていた。電車に油がしいてあって、ニキビにしみて痛かった。すごく混んでいた。(提供者キ

●ゆず
181 松坂屋で販売促進の仕事を担当しており、商店街とのイベントなどに多く携わっていた。閉店後とはいえ、松坂屋の前で路上ライブを行っているのをほっとくわけにはいかないということで、「ゆず担当」が出来た。ゆずは、毎週日曜夜10時から、松坂屋前で路上ライブを行っていたので、正面柱の奥に待機していた。紅白に出る際は呉服を用意したり、「ゆずの地元」として取材を受ける中で、ゆずとの関わりが出来た。松坂屋でゆずグッズを販売したこともある。(提供者ケ
182 2003年には、松坂屋にゆずのモニュメントが出来て、12月には紅白で松坂屋の前でライブを行った。紅白出場が決まり、松坂屋の前でライブをしたいという申込みがあった。当然会場は伏せられていたので、箝口令がしかれ、本当に31日の朝まで情報は出なかった。NHKの中継車を見て人が集まり、ライブの際には人があふれる程だった。
松坂屋では、屋内でゆずが通るところに「お帰りなさい」シールを貼っておいて、本人達も気付いてくれた。警察は有隣堂のベランダから警備指揮を取った。(提供者ケ
183 2004年には、松坂屋の屋上に壁画を作成。これは、昔あった伊勢佐木をプリントして残していこうという「思い出の中の伊勢佐木」という企画の一部で行われ、映画館の看板を描く技師さんが壁画を作成。
ゆずの壁画の前で出会った、ゆずに励まされたというファンの親子に、松坂屋でのゆずとの関わりの話をした。後日、親子から手紙が送られてきて、人と人との出会いやつながりを感じた。(提供者ケ
184 ライブハウス「CROSSSTREET(クロスストリート)」は、ゆずに名前を付けて欲しいという声から、ゆずに命名してもらった。(提供者ケ
185 伊勢佐木商店街の人達は、ゆずに対して非常に礼儀正しいという印象を抱いていた。路上ライブをしている二入に対して、商店街で音響設備を買ってあげようか、ライブの際の交通整理など協力しようかという話もあったが、ゆずのファンはマナーも良くその必要もなかったため、見守っていた。(提供者ケ

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