このページへのお問合せ
教育委員会事務局中央図書館企画運営課
電話:045-262-7334
電話:045-262-7334
ファクス:045-262-0052
メールアドレス:ky-libkocho-k@city.yokohama.jp
最終更新日 2020年2月12日
昭和32年から野毛に住んでいる。昔は露天商が野毛の大通りから都橋までずっと並んでいたが、それがなくなったのがこのあたりの一番大きな変わったこと。露天商には、食べ物以外のほとんどの物が売ってあった。ジーパンとか洋服をよく買いに行った。今のにぎわい座が中区の税務署だったけど、露天商にはハンコも売ってあった。もうなくなったけど、横浜銀行野毛支店っていうのもあった。露天商にはなんでも売ってあって、どの世代の人も買いに行っていた。露天商がなくなったのは、オリンピックの影響。オリンピックがあるのに見栄えが悪いっていうことで、撤廃して、あの川沿いの2階建ての建物に全部入れられた。
野毛のあたりには市電が走っていた。生麦、杉田、前里町、洪福寺のあたりを走っていた。
野毛に来たころ(昭和32年ごろ)は、野毛の大通りには食べ物やさんは會星楼(中華)しかなかった。今も残っているのは、會星楼とお茶屋の三河屋さん。他は、時計やとか金物屋とかがあったくらい。このあたりで古くからある店は村田家と松本薬局、かめや(寿司屋)。
もみじのお菓子は、昭和32年ごろと何も変わっていないといってもいいくらい。
野毛山動物園に陸橋が出来た時、息子がテープカットをした。息子が幼稚園の頃で、野毛山幼稚園の子ども達でテープカットを見に行った。野毛山動物園のプールには、主人が息子を連れて行っていた。水泳大会のアナウンスが聞こえてくると、夏が来たと感じた。10年前の冬には、孫が野毛山動物園のリニューアルのテープカットに行ったから、親子2代で野毛山動物園のテープカットに行ったわね。
戦後は、伊勢佐木町にも遊びに行っていた。野沢屋さんのマークが「入九」だったので、「いりく」と呼んでいた。昭和32年にお嫁に来た。野毛浦という浦があったので、今でもウナギ屋が多い。野毛には、気軽に人が来た。クリスマスイヴにケーキを持って、帽子をかぶって訪ねてくるような町。おなじみさんが多くて、親子4代で通っていて、昔からのお客さんが多い。東横線が無くなっても、おなじみさんは通ってきてくれた。今は、野毛手形をきっかけにいらっしゃる新規の方もいて、ありがたい。「野毛に来るとほっとする」と言われる。息子の同級生の男の子たちは野毛に今でもいて、息子は町づくり会に参加している。先日、朝市をやってくじらの唐揚げをやった。若い人が集まってくれてうれしい。一国一城の主なので意見が合わないこともあるけれど、ぶつかりあって、良いものが生まれる。
昭和39年のオリンピックを機に、露天商を都橋沿いの建物に押し込めちゃった。オリンピックで世界中から人が来るのに、戦後を引きずりたくなかったんだろうと思う。露天商が並んでいた頃の町のイメージは「怖い、汚い、暗い」だから。露天商が無くなったことで、野毛に来るお客さんが減った。露天商が無くなることに反発した人たちもいただろうが、野毛のあたりにはやくざ者も多かったから、そういう人たちの力もあって整備されてきたんだろうな。
昔と言えば、昭和30年代半ばまで、野毛には馬車が来ていた。乗るためじゃなく、水洗トイレが無かったから、汲み上げた物を積みに来てたんだ。夏の暑いときに、ちょうど砂利からアスファルトに道を整備してたんだけど、ならしたばかりのアスファルトに馬が小便をするから、アスファルトに穴があいちゃったりしたのを覚えている。
露天に行けば、あらゆるものが売ってあった。野毛もにぎわっていて、村田家もいつだって行列になっていた。あらゆるものが野毛に集まっていた。その分、ヤクザ者も多かった。
昭和40年代後半から昭和50年代にかけて、野毛がすたれてきた。三菱造船所が閉所したし、桜木町が終点じゃなくなったから、桜木町で降りる人が減った。駅と野毛がだんだん遠くなってきた。
昭和25年頃、野毛山動物園にいたハマ子が野毛を歩いたんだ。今にして思えば、港に着いたハマ子を運ぶ手段が無くて、港から野毛山までずっと歩いてきたんじゃないかな。ちょうど見ていた自分をハマ子に乗せてくれたんだ。半ズボンはいてたんだけど、象の皮膚って固くてざらざらしてて、固い毛が生えてるんだよ。それがチクチクして痛かったなぁ。
昔は、日ノ出町と桜木町を結ぶ道路は村田家の前の野毛仲通り(当時は野毛駅前仲通り)だったんだよ。今でも、日ノ出町から桜木町までまっすぐ伸びているでしょ。
野毛にはパチンコ屋さん(モナコ、ホームラン)とか映画館とか遊ぶ場所がたくさんあったな。遊びと食事は野毛が一番って感じだった。今のJRAは吉本劇場や国際劇場っていう映画館だったんだ。映画館って言っても、当時は映画だけじゃなく、歌謡ショーとかもやってたんだ。そこで美空ひばりはデビューしたんだよ。あと、野毛山にはプールがあって、50mもあるプールで、まわりがコロッセオみたいになってるんだけど、そこでプロレスの興行とかもやってたなぁ。遠藤幸吉っていう力道山のパートナーの事務所が近くにあって、遠藤幸吉もそこで興行やってたなぁ。あと、そのプールは大会とかにも使えるような立派なプールだったんだけど、叶屋のもう亡くなった御主人がそのプールで泳いだことがあるって自慢気に言っていたな。
今のにぎわい座の場所には税務署があったんだ。野毛は物、金、人が集まって潤っていたから、銀行もたくさんあったし、税務署もあったんだ。横浜銀行の野毛支店とか、5つくらいの銀行があった。税務署は福田赳夫とか大平正芳とかが税務署長としていたことがある有名税務署なんだ。にぎわい座ははじめは馬車道のところにあって、伊勢佐木にうつり、そのあと野毛に移って来たんだ。
野毛には米軍も遊びに来ていて、チョコレートやガソリンとか売ってた。米軍は、野毛にそういうものを売って、そのあとMPとして取り締まりに来てたんだから、全くひどい話だよ。伊勢佐木町と野毛の間くらいに「根岸屋」っていう24時間営業のお店があって、舟で横浜に着いた船員たちが遊んでいたよ。外国の人にとっても野毛は遊ぶ町だったんだよ。
あとは、野毛といえば旅館だね。旅館には2つの目的があって、一つは売春、もう一つは外国への移民のための宿泊所。移民の手続きには日数がかかることがあったからね。黄金町と日ノ出町の間にある山城屋さんなんてその一つだよ。
あと、桜木デパートっていうのが今のぴおシティの横にある駐車場にあった。2階建てで、1階には不二家があって2階はバー街になってたんだ。
昭和50年代半ば頃に野毛から店がなくなり、人が減り、5つくらいあった銀行が全部なくなった。昭和59年くらいだったかな。東急線が廃止されることになって、野毛に人を集めなければという事で振興策として、芝居小屋をよぶ話が出て来て、にぎわい座が税務署後にできたんだ。大道芸の拠点になるっていう話も出たんだけど、歌丸さんの力かな。
東急線が廃止されることになってでてきた振興策の中に、大道芸があった。野毛の人たちで、野毛の振興のために何かやろうって言って、昭和60年の春「野毛祭(のげさい)」を実施した。集まった人たちそれぞれの伝手で、絵を描く人、神輿、ジャズ、フリーマーケット、大道芸をやることになった。そしたら、この大道芸が大人気だったから、翌年からは大道芸で行こうって事になった。そもそも大道芸は、投げ銭をもらうから、道路での商売とみなされて、それまでは違法だったんだ。伊勢佐木警察署にも何度も掛け合ったけれどなかなか許可が出なかった。人事異動で小田原から町興しにかかわってきた署長が異動してきて、そこでもう一度お願いに行ったら許可がでたんだ。地元の協力あっての警察だから、警察も地元の力にならなくっちゃといってくれた。こうやって、全国で初めての合法の大道芸は始まったんだ。今でも野毛大道芸は有名だし、最盛期には80万人もの人が来ていた。
伊勢佐木町はエンターテイメントから出発した。
明治7年に埋めたてが完了し、羽衣町にあった芝居小屋、寄席、的に矢を打つ遊び場などが伊勢佐木町に移ってきた。このエンターテイメント施設と松坂屋の跡地にあった常清寺を目当てに人がどんどん集まってきた。
伊勢佐木町3丁目辺りには両国屋(きらくや)やにぎわい座があり、東京でやるような芝居を伊勢佐木町で見ることが出来た。また、デパートの前身である勧工場が芝居小屋の下にでき、だんだん独立した勧工場ができてきた。
明治32年、大きな火事があって辺り一帯焼け野原となった。その結果、伊勢佐木町には大きな道が出来た。この頃に、伊勢佐木町はエンターテイメントの街から商売の街に変わっていく転換期を迎えたように思う。伊勢佐木町に野沢屋、松屋(元町で呉服屋として出てきた)という大手企業が進出してきて、商売の街に変わってきた。その後、震災まで伊勢佐木町は商業地となった。
横浜には運河が縦横無尽にはしっていた。中村橋のところにある山の土を使って1859年に港を埋め立てるときに土を運ぶのに運河を使うなど、運河あっての横浜の港だった。吉田橋の下も、昔は運河だった。吉田橋の下の運河を埋め立てるのに神奈川宿と保土ヶ谷宿から野毛の切通しを通って人足が集まった。吉田町は人足町として栄えた。有隣堂も吉田町にあった。
昭和20年の終戦まで、商業の独壇場だった。横浜唯一の商店街だった。昭和30年に接収が解除され、ビルがどんどん建った。平沼市長から、「古くて新しい町」と呼ばれていた。昭和30年から昭和40年の間に横浜駅の西口にダイヤモンド街などができ、発展してきた。こういう風に各駅のまわりが発展していって、商業が一極集中から分散型へと変わってきた。分散することで、伊勢佐木町の力が弱まっていった。
平成7年に元コトブキヤだった松屋が馬券売り場になった。また、イセザキモールにパチンコ屋が出来、良く捉えればエンターテイメントが復興した。イセザキモールの通行人は元町より1時間当たり1000人通行人が多い。今は松坂屋がないのに人通りがある。今年の12月末に松坂屋の生活館がオープンしたら、もっと人通りが増え、活気づくだろう。イセザキモールは、全国で唯一の終日歩行者天国の場所。
火事や震災、商業の分散などいろいろな危機があったけど、伊勢佐木町はそういう危機を力に変えていってどんどん発展した。
明治になって、芝居小屋が映画館に変わっていった。特に戦後は映画の絶頂期だった。オデヲン座は洋画の封切館(封を切って一番に放映する映画館)だった。にぎわい座や両国屋も東映、松竹、ピカデリー座などに変っていった。
昭和39年頃は、野毛から杉田まで市電が通っていた。大きい店はなく、小さい商店が多くあり、自分で買い物用のかごを持って、商品を買って回っていた。おせんべやあめも一個ずつバラ売りしていた時代。木造りのアーケードや露天商もあり、にぎやかだった。露天商は、バスが通るときに邪魔になるので無くなってしまった。都橋の横の2階建ての建物に移り、今も残っている。お正月は1日しか休みがなく、忙しかった。夜遅く露天商に遊びに行ったりしていて、楽しかった。食べ物も着るものも、やかん、鍋、日用雑貨も、野毛にいれば何でもそろった。にぎわい座は、前は税務署でね。「ニュース劇場」や「マリウス」(レコード屋)もあって、野毛は本当に横浜で栄えていた。まだ横浜の西口にも何もなかったからね。横浜スタジアムは、前は「平和球場」って呼んでたけど、球場下には卓球とか遊べる施設があった。市役所もまだなかったから、あの辺り一面広場でね。5月の港祭りには、バザーをやっていた。見世物屋も来ていて、お化け屋敷や食べ物の露店、ヨーヨーや鉛筆つかみもあって、とても楽しみにしていた。
洋服は、既製品はあまりない時代だったでしょ。舶来ものを扱っている生地屋で好きな生地を買って、洋裁店に持って行って、洋服に仕立ててもらっていた。昭和33年当時、4000円のブラウスを、三愛さんで買ったわね。高島屋さんが出来る前ね。
昭和30年頃は、どこに働きに行っても、お米の登録証とお布団を持って行っていた。お米の登録証が人口調査をかねていて、お米屋さんが町内のことを把握していたのよ。だから町にはお米屋さんはあるでしょ。
元町は、小さいころは今みたいにお店が多かったわけではないけど、オリジナルの商品を扱っているお店が多くて面白かった。輸入のさいふや靴を扱っていたフクゾー、帽子屋のウルベ、イギリスの輸入品を扱っていたポピー。ミハマで買った靴を履いて旅行に行ったときは、いい靴だって褒められたわ。やっぱり色々な国の輸入品があった。川も交易の場でにぎわっていたしね。三井物産の船から、不良品を譲ってもらったりもしてね。川もきれいだった。
現在は、ぽっかり建物がなくなってしまっている。松坂屋には、従業員も入ったことのない秘密の部屋があった。お客様からは見えない、バックヤードにあった。松坂屋は増改築を繰り返していたために、そんな部屋が出来た。歴史的建造物のため、外壁沿いに足場を作って、壁面落下防止の作業を行った。その際に間近に外壁を見たが、素晴らしく、落下物を記念にもらったりした。自分が伊勢佐木で働こうと思ったのは、小学校の頃、母親に連れられて、一度だけ「野沢屋」に来たことがきっかけ。その時の野沢屋の店員さんがとても親切で記憶に残り、伊勢佐木の百貨店に勤めることになった。
伊勢佐木の商店街のDNAは変わらない。伊勢佐木町は、イベントを多く行い、人を集める。埋立地だったため、人を集めて地を踏み固めていた頃に始まり、見世物小屋で人が集まれば飲食店も増え、自然に商店街となった。コンサートや寄席というようなイベントは今も多く、町本来の生き方をしているのが伊勢佐木。ユニクロ等の進出から、ビジネスチャンスとしての伊勢佐木の活力も証明されている。
松坂屋で販売促進の仕事を担当しており、商店街とのイベントなどに多く携わっていた。閉店後とはいえ、松坂屋の前で路上ライブを行っているのをほっとくわけにはいかないということで、「ゆず担当」が出来た。ゆずは、毎週日曜夜10時から、松坂屋前で路上ライブを行っていたので、正面柱の奥に待機していた。紅白に出る際は呉服を用意したり、「ゆずの地元」として取材を受ける中で、ゆずとの関わりが出来た。松坂屋でゆずグッズを販売したこともある。2003年には、松坂屋にゆずのモニュメントが出来て、12月には紅白で松坂屋の前でライブを行った。紅白出場が決まり、松坂屋の前でライブをしたいという申込みがあった。当然会場は伏せられていたので、箝口令がしかれ、本当に31日の朝まで情報は出なかった。NHKの中継車を見て人が集まり、ライブの際には人があふれる程だった。松坂屋では、屋内でゆずが通るところに「お帰りなさい」シールを貼っておいて、本人達も気付いてくれた。警察は有隣堂のベランダから警備指揮を取った。2004年には、松坂屋の屋上に壁画を作成。これは、昔あった伊勢佐木をプリントして残していこうという「思い出の中の伊勢佐木」という企画の一部で行われ、映画館の看板を描く技師さんが壁画を作成。ゆずの壁画の前で出会った、ゆずに励まされたというファンの親子に、松坂屋でのゆずとの関わりの話をした。後日、親子から手紙が送られてきて、人と人との出会いやつながりを感じた。ライブハウス「CROSSSTREET」は、ゆずに名前を付けて欲しいという声から、ゆずに命名してもらった。
商店街の人達は、ゆずに対して非常に礼儀正しいという印象を抱いていた。路上ライブをしている二人に対して、商店街で音響設備を買ってあげようか、ライブの際の交通整理など協力しようかという話もあったが、ゆずのファンはマナーも良くその必要もなかったため、見守っていた。
私が初めて芝居を見た時の話です。私が小学校の四年くらいの時の事です。当時私の家は大家族で、ヒイおばあちゃんがかくしゃくとして一緒に住んでおりました。そしてある日そのヒイおばあちゃんが芝居に連れて行ってくれたのです。当時親戚の子が遊びに来ておりまして、二人を連れて近くに住んでいたヒイおばあちゃんの娘の人と一緒に芝居見物に行ったのです。
当時の事を書いたものを読むと北方町に松島館という芝居小屋があったと書いてあります。私の幼い記憶と記事が大体合っているので行ったのは松島館だと思います。幼い私には普通の家の間にこのような芝居小屋があったのが強く印象に残っております。当時はテレビ等無い訳ですからその家の中で話に聞いた芝居の演じられるのを見たのが印象に残っております。
まだ子供にとっては世の中が比較的穏やかな頃のなつかしい思い出です。
終戦後、まだ米軍が進駐軍と言われていた頃の事です。父が東電に勤めていた関係で米軍接収地の本牧に変電所を作る時の話です。米軍の命令で一定の期日迄に変電所を作らなければならないので大変だったと思います。私の家は空襲に焼けなかったので割合に広い離れが空いていました。そこに作業をする人が七、八人泊まり込んで仕事をしたのです。まだ食堂など無い時でしたから、食事を作る母は大変でした。私は昼間は学校に通っておりましたので、工事についてはよく分かりませんが朝晩は大所帯でした。
町の中に高圧線を引くのに人の住んでいないところを通さないといけないので場所の選定が大変だと言う事でした。期日が迫るとコンクリートの基礎がまだよく固まらないうちに変圧器を載せたりしたむずかしい工事だったと聞いております。
そのようにして変電所が出来て本牧には夜間照明のある米軍野球場等が始まったのでした。
結婚後、夫が生まれ育った横浜で暮らすようになったのは昭和四十年の晩秋の頃。家は根岸湾沿いの町にあった。眼前に広がるのは海ではなく、石油タンクが並ぶコンビナート。根岸湾の埋立地は工業地帯となり、その周辺の産業都市化が急速に進んでいた。昭和三十九年に根岸線が開通。市電が走っていた浜の道は国道になる。国道を挟んで海側は工業地帯、丘側は戦災を免れた古い根岸の町並みが続く。近代化の波が押寄せる暮しの中で、人々が何かを失っていくのではないかと思った。
娘が二歳の頃、変な咳をするようになり、病院で根岸喘息と診断された。幸いひどくならずに治癒したが、健康被害の話が聞こえてくるようになった。光化学スモッグも生じることがあった。汚染された空気がきれいになり安心できるようになったのは十数年後のことである。
根岸の丘陵地にある根岸競馬場が接収解除されたのは昭和四十四年。その後、その一帯は森林公園になり、今は樹木が育ち、草花が美しい。特に梅と桜の時季はすばらしい。又競馬場を記念して馬事公園もある。消えた海にかわって市民の良き憩いの場となっている。
近代化・合理化されていく生活・文化。
古い家はいつの間にかマンションやアパートに姿を変えていった。町の人々の健康を支えてくれていた「横浜日赤病院」は「港湾病院」と合併、「みなと赤十字病院」と名を改めて、中区新山下に移転。病院の跡地には、三三〇戸をかかえる巨大なマンションが建った。ほとんどの空地は駐車場になり、古い店は全て消えコンビニが繁昌している。
丘側に沿って通る旧道、浜の道にできた国道、平成十三年に開通した高速湾岸線、それに加えて、やがて国道三五七号が加わる。日々、すごい数の車が通り抜けていく。
海があった頃の生活・文化は、もうどこにもない。
私の10才頃のお話しです。私の家は煙草と雑貨類、郵便切手や葉書を売っておりました。当時のお話しです。今の高島町交差点あたりから戸部警察の間に石崎町という市電の停留所がありその前に日本館という無声映画専門の常打ち映画館がありました。河合映画、大都映画が専門でした。私の家から約3分くらいの所にあり、活弁が主力で当時トーキー映画が一番おそく後発メーカーの優れたるものでしたが無声映画ではダントツな会社でした。封切館ではなく二番か三番館の地位だろうと私は考えておりました。だが本社は東京の巣鴨にあり横浜のロケハーンには常時見えてました。本拠地が私の家のはす向かいのカフェー新玉という所で昼間はこの映画会社の独占の役目をしておりました。時代劇の場合の撮影地の主力は今の三ツ沢街道筋や、豊顕寺や中軽井沢周辺が主力の模様でした。私はホンチ取りの最中に一度だけ松山宗三郎主演の撮影現場を見たことがありました。戦後新宿で「肉体の門」という戦後代表的な小崎政房という劇演出の名前で松山宗三郎の出世姿を見ることがありました。田村泰次郎小説家の戦後傑作の一番手だと思います。近衛十四郎や必殺の藤田まことのお父上などはロケの都度郵便を出すので、筆まめな父上と思いましたが後年聞くところによると早大英文科の秀才で字が非常にお上手でした。
弁士の話しになりますが、時代劇には桜井錦声、現代劇には栖紫郎と云う2名の方々で非常に人気が高かったのです。演奏のお手伝いなどをして鳴物などは非常に上手でした。弁士が演奏の手伝いをするなど、如何にも横浜的なムードが溢れていました。夜の7時30分になるとベルが鳴り「只今より今半ですよ、半額になります」と職員がメガホンで案内をします。また連続ものの伴奏などはテンションをここ一番に盛り上げて演奏をします。邦楽伴奏のなかでも50年たってそれが歌舞伎座で演じる「娘道成寺・・・」の聞かせどころと分かったのは長唄の聞かせ所だったのです。
*ホンチ:蜘蛛のこと。蜘蛛を戦わせる遊びが流行っており、その蜘蛛を取りに行ったときの出来事とのこと。
「横浜ベイスターズ優勝パレード写真の笑い話」
私が優勝パレードの写真を写した写真に神奈川新聞社のカメラマンが市役所の屋上から写真を撮っている姿が、写っていました。
神奈川新聞社のカメラマンが写した写真に、私の写真をとる撮影の姿が写っていました。
すなわち、お互い写しっこした写真が出来たという、記念すべき2種類の写真を私は大切にしています。
1970(昭和45)年4月24日(写真37)
新横浜駅は開業してしばらく経っても、こんな状態が続いた。駅前には広大なタクシー乗り場があり、タクシーが手持ちぶさたにしていた。遠くに「新横浜国際ホテル」だけがポツンと立っている。
1970(昭和45)年3月3日(写真38)
さすがにこのころの移民船は珍しく、この船が最後の出港となった。ブラジルへの移民で若い夫婦が多かった。家族・親戚が抱き合って別れを惜しんでいた。農業大学などの後輩は元気よくあちこちでエールを送っていた。
1972(昭和47)年3月25日(写真39)
交通渋滞の元凶のように見られ、全国各地で路面電車が次ぎ次ぎに廃止されていった。横浜でもこの都市(1972年)3月31日でついに全廃されてしまった。同じくこの年、市営地下鉄伊勢佐木長者町駅~上大岡間が開通した。
1970(昭和45)年5月12日(写真40)
敷地面積が一番広かったころの「横浜ドリームランド」。ここへ行くまでのモノレールも珍しかったし、大規模な施設にビックリしたものだった。私のお気に入りは水中を眺められる潜水艦。写真はゲートを入ってすぐの大花壇を見たもの。この日は平日で人出は少なかった。
1989年(平成元)年7月23日(写真41)
市政100周年・開港130周年を記念して、「宇宙と子どもたち」をテーマに、みなとみらい21地区で1989年3月25日~10月1日まで、191日間にわたって「YES‘89横浜博覧会」が開催された。
会期中の入場者は入場予測を上回る1333万7150人で、大成功を納めた。数多くのパビリオンの中で上位5館は、1:三菱未来館(334万人)、2:横浜高島屋不思議ドーム(307万人)、3:横浜館(292万人)、4:日産・芙蓉館(224万人)、5:建設パビリオン(222万人)だった。この中で、「横浜体験‐きのう・きょう・あした‐」のテーマのもとに横浜市が出店した「横浜館」が上位にランクされていたのが注目される。ちなみにこの日、7月23日(晴)の入場者は、5万1000人だった。
1991(平成3)年8月25日(写真42)
1989(平成元)年10月、横浜博覧会(YES‘89)の終了とともに、その跡地に建てられはじめたランドマークタワー。このころようやく姿を現しはじめて、空高くどんどん伸びていった。4つのクレーンが建築の主役で、最後まで大活躍していた。
1965年 横浜市の6大事業の一つとして、同地区の再開発構想が出る。
1979年 「横浜市都心臨海部総合整備計画」基本構想発表。
1981年 一般公募により事業名が「みなとみらい21」に決定。
1983年 三菱重工横浜造船所の移転完了。
帆船日本丸の横浜市への移管が決定。
11月8日に「みなとみらい21」事業着工。
1984年 埋立事業の礎石沈定式。
株式会社横浜みなとみらい21設立。
1985年 横浜そごうが入る「横浜新都市ビル」開業。
「日本丸メモリアルパーク」一部完成、帆船日本丸を一般公開。
1989年 動く歩道完成。
横浜市制100周年、開港130周年を記念して「横浜博覧会 (YES'89) 」開催。動員数1333万人。以後、同地区の開発が本格化。
「横浜ベイブリッジ」開通。
中央地区の広範囲における町名、住所表記が「みなとみらい」に決定。
「横浜マリタイムミュージアム」開館。
「臨港パーク」一部完成。
横浜市内初の大型美術館である「横浜美術館」正式開館。
1991年 「パシフィコ横浜」(横浜国際平和会議場・展示ホール)竣工。
「ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル」開業。
「ぷかりさん橋」完成。
1992年 首都高速道路横羽線にみなとみらい出入口設置、供用開始。
1993年 「横浜ランドマークタワー」開業。
「横浜銀行本店ビル」竣工。
「横浜ロイヤルパークホテルニッコー」開業。
1994年 国際大通りの「国際橋」開通。
パシフィコ横浜内に「国立横浜国際会議場」完成。
「三菱重工横浜ビル」竣工。
1996年 「けいゆう病院」移転開業。
「横浜スカイビル」開業。
1997年 新港地区の都市計画が決定。
「横浜桜木郵便局」開業。
「クイーンズスクエア横浜」開業。
「日石横浜ビル」竣工。
「汽車道」開通。
「パンパシフィックホテル横浜」開業。
1998年6月 「横浜みなとみらいホール」正式開業。
1999年 「横浜メディアタワー(NTTドコモ神奈川支店)」開業。
「よこはまコスモワールド」正式開業(観覧車コスモクロック21も
移転)。
「横浜ワールドポーターズ」開業。
「運河パーク」完成。
横浜国際船員センター「ナビオス横浜」開業。
「グランモール公園」全面完成、「横浜ジャックモール」開業。
2000年 「クロス・ゲート」(横浜桜木町ワシントンホテル)開業。
2001年 「新港パーク」全面完成。
集客イベントとして企画された「横浜トリエンナーレ2001」を開催
2002年 「山下臨港線プロムナード」完成。
横浜赤レンガ倉庫が改築され、「赤レンガパーク」全面完成。
「JICA横浜国際センター」開業。
2003年 高層マンション「M.M.TOWERS」竣工。
昭和20年9月3日の降伏文書調印後、中区内の繁華街の主だった場所は全て占領軍に接収されて、僅かに日本人の町として残されたのは野毛だった。
10月頃、野毛山公園では占領軍の兵士が日本の美術品、着物、人形などを珍しがって日本円で、しかも言い値で買ってくれるというクチコミ情報が入ってきた。円は「エン」、銭は「セン」で通用して、金額を紙に書いて持っていれば、言葉が通じなくても買ってくれるという。母は、イエス、ノウ、サンキュウ、グルバイ(グッドバイを当時の多くの人は、このように言っていた。)位は喋ることができたので、母と当時10歳の私は人形を持って野毛山公園に行った。
野毛の町は完全な焼け野原であり、野毛山公園に行く野毛本通りや細い路地には店が沢山出ており、野毛しか行き場のない日本人であふれていた。店といっても、殆どが露天商である。公園の広場では店は出てないが、多くの人がいた。ただ居るだけの人、食べ物を篭やざるに入れて売っている人、占領軍兵士に品物を売っている人、占領軍兵士相手の日本人女性、戦災孤児、それぞれの国の戦闘服姿で武装した連合各国の兵士などで、ごった返していた。売っている食べ物は全て自家製で、半分に切った蒸かし芋、うどん粉に重曹を入れて膨らませただけの蒸しパン、飯を潰して餅のようにしたもの等であるが、日本人は皆腹を空かしていたので、結構売れていた。
母と私は、今まで物を売ったことがない。売っている人に売る要領やどのくらいの値段ならば良いかを教わり、値段を紙に書いて持っていたら、しばらくしてアメリカ陸軍の兵士が買ってくれた。
通りや公園広場の治安のための警察は、武装したアメリカ軍の憲兵であるMP(陸軍)やSP(海軍)が行っていた。敗戦直後の日本の警察には治安能力がなかった。
昭和20年7月6日に、事情があって箱根の集団疎開から横浜の自宅に帰ってきた。当時は米の配給量が少なかったので、野菜や野草を入れた箸が立たないような雑炊が主食だった。夏なので、空襲で焼け跡となったころには、野草の「あかざ」や「しろざ」が沢山自生していた。「あかざ」、「しろざ」は癖がないので、殆ど毎食の雑炊に入れて食べた。「あかざ」と「しろざ」のお陰で命拾いができたといっても、過言ではない。私は「あかざ」と「しろざ」に恩義を感じており、今でも毎年庭で「あかざ」と「しろざ」を絶やさないで育てている。時々、葉を使った料理を作り、感謝しながら食べている。
戦争に負けて、更にひどい食糧難の時代となった。ある夜、父が進駐軍の残飯を買ってきた。小港のワシン坂の方で昭和20年の9月、10月頃、進駐軍兵舎から出た残飯を売っていた。進駐軍兵舎から出た残飯だから何が入っているかわからないので、よく火を通してから食べた。当時はいつも空腹だったので、ものすごくおいしかった。こんなに美味いものを食べているアメリカ軍と戦争をして、勝てるはずがないと思った。飽食の今では、とても食べられてものではないだろうと思う。
県立緑ヶ丘高等学校の2年生の時(昭和27年)、学校への行き帰りは徒歩で裏門、台山を利用していた。現在の本牧山頂公園は米軍の家族の住宅地として接収されていて、サンフランシスコ講和条約が成立するまでは、日本人は入れなかった。
裏門を出てガス山通りを登りきった道に出たところに、山手警察署の駐在所(現在は、ない。)があり、駐在所の裏の細い道に面してアメリカ人の家族が住む白い家があった。私は、いつも友達2、3人とこの家の前を通っていた。
この家には、若い日本人女性がハウスメイドとして働いていた。当時、多くの日本人女性が外国人の家出ハウスメイドをしていた。
私達は若いハウスメイドを見るたびに、この人は英語が喋られるのですごいと、いつも話していた。定期試験のある日の学校帰りの昼下がりに、いつものように友人達とその家の前を通ると、よちよち歩きの坊やが庭で泥遊びを始めた。窓からこれを見た女性が、「No,No!」と大きな声で叫んだ。坊やはすぐに泥遊びを止めた。これを見て、彼女は「Yes,Yes」といった。
このような英語ならば、俺達だって喋ることができるぞと、皆で話し合った。
空襲がまだそれほど多くなかった頃の国民学校の児童は、警戒警報(長いサイレンが一回鳴る。)が発令されると家に帰された。当時は、空襲警報(短いサイレンが何回も続けて鳴る。)が発令されると、一般の人は外を通行することが禁止されていた。サイレンの装置は、本牧国民学校の屋上にあった。
大鳥国民学校3学年(昭和19年)の夏の晴れたある日の昼前、警戒警報が発令されたので上級生や下級生たちと数人で集団を作り走って下校中に、空襲警報のサイレンが鳴った。丁度山手警察署(空襲で焼けるまでと敗戦後しばらくは、山手警察署は本牧二丁目377番地にあった。)の正門前にいたので、私達学童は警察署の建物の中に駆け込んだ。警察ならば避難させてくれるだろうと、思ったからである。
玄関入ってすぐの机に座っていた巡査が大声で、「入ってきては駄目だ、出ていけ。」と怒鳴ったので、私達は慌てて外に出て走って家に帰って、自分の家の防空壕に入った。
何故、警察署の中に避難したのがいけなかったのかが、子供心に大きな疑問だった。今でも、疑問に思っている
教育委員会事務局中央図書館企画運営課
電話:045-262-7334
電話:045-262-7334
ファクス:045-262-0052
メールアドレス:ky-libkocho-k@city.yokohama.jp
ページID:263-274-392