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5 パネルディスカッション あの頃の、ヨコハマは・・・戦後編

(10月1日開催分)

最終更新日 2020年2月13日

「横浜市立図書館創立90周年記念 パネルディスカッション あの頃の、ヨコハマは・・・ 記録集」

5 パネルディスカッション あの頃の、ヨコハマは・・・戦後編(10月1日開催分)

はじめに進駐軍による接収野毛山動物園、日本貿易博覧会露天商の登場横浜市の六大事業市電の思い出横浜スタジアム地名の話あれこれ

平成23年10月1日(土曜日) 午後2時~午後4時30分
会場:横浜市中央図書館ホール

●パネラーより自己紹介

・小林 光政(こばやし みつまさ)
出生:横浜市中区花咲町。昭和6年9月18日生まれ
現住所:横浜市西区東ヶ丘
略歴:本町小学校。神奈川県立工業高校建築科。中央大学第二商学部。小林紙工株式会社社長。その他公職 横浜の観光を考える会会長。NPO法人黄金町エリア。マネジメントセンター理事長。その他12か所役職あり

・大久保 文香(おおくぼ ふみか)
出生:昭和15年生まれ。昭和19年、本牧に住む。昭和42年、矢口台に引っ越す。
略歴:横浜紅蘭女学校。横浜緑ヶ丘高校。関内の町作りに7年携わり、その後野毛大道芸に携わる。

・藤澤 智晴(ふじさわ やすはる)
昭和22年生まれの団塊の世代。少年時代は野毛周辺も空き地だらけ。いわゆる原っぱでワルガキとして遊びまくりました。メンコにビー玉、ホンチ…駄菓子屋に入り浸っていました。サラリーマン時代を野毛の外で12年ほど過ごしたあと、昭和56年に戻ってきました。それから、30年。柳通りで定食屋の三代目としてやってます。
人は私を「野毛のトラブルメーカー」と言います。

・森 直実(もり なおみ)
出生 昭和23(1948)年。横浜市西区中央1丁目。藤棚、南太田、瀬谷、港南台、大口に居住
略歴 横浜市立南太田小学校。横浜市立老松中学校。横浜高校。武蔵野美術大学造形学部油絵科。イタリア国立フィレンツェ美術学校中退。横浜市立中学校で、美術科の教員を務め退職。1986年~2005年、野毛大道芸実行委員。2005年~、NPOヨコハマ大道芸・AD。絵画、写真など、個展多数開催。横浜市中央図書館にて写真展「横濱百景」開催[平成23年12月1日(木曜日)~18日(日曜日)]。
著作 『大道芸人』(編著)ビレッジセンター出版。『森直実写真集「野毛大道芸」』かなしん出版

・司会:菊池 真理・黒岩 道子(横浜市中央図書館サービス課)

○司会:それではお時間ですので、横浜市立図書館創立90周年記念パネルディスカッション「あの頃の、ヨコハマは… 戦後編」を始めさせていただきます。本日は御参加いただき、ありがとうございます。私は横浜市中央図書館サービス課の菊池と申します。本日の御案内役をさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。(会場から拍手)
今回のパネルディスカッションなんですが、6月に開催いたしましたパネルディスカッション「あの頃の、ヨコハマは…」の戦後編となっております。6月には図書館の90周年記念ということで、90年前の関東大震災の思い出からお話をしていきました。
その際、御参加いただいた皆様から大変多くのお話をいただけたため、終戦を迎えたあたりのお話で、時間となってしまいました。そこで今回は戦後編といたしまして、第二回目を開催することになりました。
本日のおおよその流れを御説明申し上げます。パネルディスカッションの開催にあたり、皆様からたくさんのエピソードと写真を御提供いただきました。まず、そのエピソードを時代ごとに紹介申し上げます。また、それにちなんだ話題をパネラーの皆様と会場の皆様からお話しいただくというように進めてまいりたいと思います。
パネルディスカッションといいますと、パネラーの方だけが話されるという印象が強いかと思いますが、今日はみんなで昔話をしましょうというような会ですので、皆様もどうぞ積極的に御参加いただければありがたいと思います。
なお、今回は見聞きしたことをお話しいただく会ですので、こういう本にこういうふうに書いてあったとか、そのようなお話は、今日はちょっと御遠慮いただければと思います。
それでは、あいさつが長くなりましたが、本日お招きしたパネラーの方を御紹介申し上げます。まず、舞台の内側から御紹介いたします。小林光政様です。(会場から拍手)
○小林:皆さん、こんにちは。どうも。私は中区花咲町1丁目で生まれました。生まれた日は満州事変が始まった日でございます。丁度私は満80を今月クリアできたと、こういうことでございます。小学校は本町小学校でございますので、友達がこの辺にはかなりおられます。現在は私、小林紙工株式会社の社長を務めさせていただきまして、ほかには公職が若干ございます。何しろ横浜のことしか知らないんですけれども、横浜のことでしたら生まれた時からのことについては若干、耳学問ですけれども、精通しているつもりでおりますので、また皆さんと仲良く話し合いをしてみたいなと、こう思っております。どうぞよろしくお願いいたします。 (会場から拍手)
○司会:ありがとうございました。では、次に大久保文香様です。 (会場から拍手)
○大久保:大久保文香でございます。私は昭和15年に東京都豊島区雑司ケ谷で生まれました。そして4歳の時、昭和19年に父が、疎開先ということで中区本牧元町に引越してまいりました。その後ずぅーっと本牧で育ちまして、結婚してから地続きの矢口台というところに今も住んでおります。その周辺のこと、及び野毛、関内についてはいろいろと関わり合いがございますので、皆様方と一緒にお話させていただければ光栄と思っております。どうぞよろしくお願い申し上げます。 (会場から拍手)
○司会:では、続きまして藤澤智晴(やすはる)さんです。
○藤澤:藤澤といいます。えーと、私は団塊の世代の生まれなもんですから最近、とみに忘れっぽくなりまして、今日はあの、たった今、直前までですね、野毛の、「ちぐさ」をどうやって復活させようかと、そういう話し合いの場がありましてね、つい熱中して
て、このことを忘れちゃったんですね。で、さっき電話があって、慌てて駆けつけました。そんな調子で来たんで、いろいろまたポカやるかも知れませんけれども、どうぞよろしくお願いします。 (会場から拍手)
○司会:では、森直実さんです。
○森:こんにちは。森直実です。えーと、私は西区の中央1丁目が本籍でして、藤棚で育ちました。暗闇(くらやみ)坂を三輪車で降りて遊んでいた記憶があります。それから学校はこのすぐ丘の上の老松中学校でして、当時この図書館も古い建物で、ヒマラヤ杉に似た木が、今と同じにありまして、そこの中学生室で本を随分読みました。私の家(うち)には本が1冊しかなくて、源氏鶏太か何かのサラリーマンものの1冊しかなくて、図書館を利用させていただいたのが思い出です。それから50年、半世紀が経ちまして、今、その図書館でこういう場所にいるっていう、不思議さを今日は感じております。どうぞよろしくお願いいたします。 (会場から拍手)
○司会:ありがとうございました。それではいよいよエピソードの御紹介に入ってまいりたいと思います。皆様には御入場の際にお手元に分厚い資料をお渡ししてあります。こちらには事前に皆様からお送りいただいたエピソードを、時代ごとに並べてあるエピソード一覧。あと、テーマごとに分けさせていただいていますエピソード。あと、こちらからうかがわせていただいて聞き取ってまいりました様々な方のエピソードが、お1人分ずつまとめてあります。また、そのあとに皆様から御提供いただいた写真を、一覧とテーマ別に分けたもの。それから写真の画像等、載せてあります。
配布資料の自己紹介の紙の次を見ていただきますと、前回のパネルディスカッションのときに最後に終わってしまった戦時中の話と戦後の思い出話について、まとめたものを載せております。こちらをまず少し御紹介して、接収のお話から今日は始めさせていただければと思います。

●進駐軍による接収
○司会:では、戦時中のお話をまず御紹介いたします。事前に寄せられたエピソードといたしまして、横浜より小田原に疎開された方のお話で、「長者町に立って港まで見通すことができた」というエピソード。また、「伊勢佐木町の辺りで娼婦の方が集まってきている。また、アメリカ軍の兵士がわらじのような大きさの肉を食べていた。」というエピソードをいただいておりました。
そのエピソードを御紹介したところ、参加者の方から「天王町の辺りの空襲」のお話。また、「元町の現在のプラザ前に飛行機からアメリカ軍の兵士、兵隊が降りてきたこと。」、「マッカーサーが厚木の飛行場から来たときに自分が迎えに行った」というお話。また、「戦前からこの近くにお住まいで、そこからずっと今も住み続けられている」というお話を参加者の方から前回はいただきました。
また次に、接収のときのお話として、「マッカーサーが来てから伊勢佐木に飛行場が出来、かまぼこ兵舎が作られた」というお話。「自分の家の蔵がアメリカ兵に接収されて、物を持って行かれた」というお話。それから、「本牧に夜間照明のある米軍野球場が出来た」というお話を事前にいただいておりました。そのエピソードを御紹介したところ、パネラー方から、「接収された横浜に身を売る女の人がたくさん立っていた」というお話や、「本牧(ほんもく)の商店の人たちが皆さん、すぐに英語を覚えて、簡単なブロウクンイングリッシュで会話をしていた」というお話や、「山手のトンネルを越えるとアメリカナイズされた街があり、日本とアメリカの生活の違いを目の当たりにした」というお話をいただきました。
では、今回はその接収のときのお話から、まず大久保さんにお話をしていただきたいと思っております。大久保さん、お願いします。
○大久保:はい、私の家(うち)は三溪園(さんけいえん)寄りのところに建っておりました。その頃の本牧(ほんもく)は、戦前は非常に静かな漁港でしたが、終戦直後に上陸用舟艇(じょうりくようしゅうてい)という、船自動車と言っておりましたが、本牧の海から続々と米軍が上がってきました。そして瞬く間に一番本牧の中でも平らな、一番いいところを接収して、自分たちの住所として。つまり、何でしょうね、作業を始めたということです。
本牧はそれから36年間、接収という憂目にあった。これは非常に本牧の発展についてはマイナスになっておりましたが、今から考えますとですね、その接収されたということから外国の、特にアメリカの文化。主に音楽ですが、それを新しい、良しとする日本の方、文化人、ミュージシャンの方が本牧を聖地のようにして、グループサウンズの人たちが来たり、それからいろいろな司会者がいたり、特異な本牧の文化っていうのを作ったような気がいたします。
そして昭和57年に、接収地が解除されたんですね。その直後、本牧は本当に空っぽになりましたが、また民間の施設によりマイカル本牧等ができたんですけれども、残念ながら本牧は、昭和42年から、あの綺麗な海が埋め立てられてしまったんです。それは行政の御指導によるもので工場等が誘致されたという大きな大義名分があり、漁師の人は補償金をもらったそうですけれど、私達住民にとっては泳げない、あさり獲りができない。魚も獲れないという、一番本牧に住んでいて魅力だったところがなくなってしまったので、子ども心にも本当に情けない思いがいたしました。そんなことが本牧の接収についてはあります。
細かいことですけど私の父は食べるに困りましてですね、進駐軍の人たちに浮世絵とか、珍しい骨董品とか根付とか、そういったものをあげて、それで米軍のレーションといいますか、あの軍事用の食糧、あんなのをもらって私達一家の飢えをしのいだ覚えが、子ども心にもはっきりとしております。そのときに初めて食べたコンビーフとかチョコレート、あの味わいは今になっても忘れることができません。で、こんな文化をもった国と戦争をしたんだから、日本は負けたのが当たり前だなと、子ども心にも感じました。
○司会:ありがとうございます。本牧(ほんもく)にお住まいの頃の思い出ということでお話をいただきました。前に映っております写真、(「本牧米軍住宅」写真映写)こちらが米軍の住宅地周辺の前景でございます。また、ほかにも、住宅の様子やお店の様子、写真でご覧いただけます。
○大久保:あの、びっくりしたのは、アメリカの方っていうのは間(あい)の洋服っていうのを持ってないんですね。中間の洋服ね。夏服の上に毛皮のコートを着て、それで歩いているのを見て、びっくりした覚えもございました。日本の文化とはかなり違うという感じがしますねぇ。
○司会:会場の方の中で、どなたか本牧の辺りの思い出をお持ちだという方、いらっしゃいますか。
○男性:あのぉ、私は田舎へ疎開したもんですから、焼けた頃の横浜を知らないんですが、22年頃に横浜へ帰ってきまして本牧辺りを、あれしますと、将校の住宅だったと思うんですが、ものすごく広い芝生のところにぽつんと家が幾つかありまして、それでその将校の家族が団欒をしてんだと思うんですけども、そういうのを柵の外から我々は見てですね、非常に屈辱的な感じもしましたし、また、羨ましくも思ったのを非常に記憶しております。本牧だけでなくて、何か山下公園でもそういう将校宿舎があったらしいんですが、それは私は実際に見てませんのでわかりませんけれど、そういう印象が残ってます。
○司会:ありがとうございます。フェンスが張られて、仕切ってあってというお話でしたね。ほかにも本牧に限らずに接収のときの何か思い出があるというお話、ございますか。パネラーの方たちはいかがでしょうか。では、森さん、お願いします。
○森:戦後生まれの若いほうなんですが、遊びに行きますと先ほどの金網、フェンスですね。今のよりもちょっとゲージが太い針金のフェンスの、白ペンキの向こう側がアメリカで、今、おっしゃられたように芝生の広いところにぽつんと多分、白っぽいような建物が建っていて、バーベキューやってましたね。それで、今考えると、あの、バーベキューなんて大したことじゃないんですが、庶民の我々にとってはすごいことをやっているなというふうに思いました。あの、串に刺してですね。まぁ、ピーマンとかね、肉のブロックですね。今考えれば単なる焼鳥みたいなもんなんですけど、あの、非常に驚いた記憶がありました。
○司会:ありがとうございます。最初の写真(「根岸米軍住宅周辺」映写)でも、やっぱり敷地が日本の家屋と比べて随分大きくとってあるなというのが見えるかと思うんですが、一番最初の写真をもう一度出していただいていいですか。大きな道をはさんで左側のところが道が広くとってあるお家ですね。このように写真からも少しわかるかなと思います。

●野毛山動物園、日本貿易博覧会
では、接収のときのお話はこれでおしまいにしまして、次に少し時代が進みます。昭和26年、野毛山に動物園が開園いたしました。今も近くにあります動物園なんですけれども、行かれた方も多いかと思います。動物園についての思い出話、何かある方、いらっしゃいますか。
じゃあ、最初にまずエピソードを御案内します。(市民の皆さまからの提供写真55、56、63、64映写)
「昭和25年頃、野毛山動物園にいた<はま子>が野毛を歩いたんだ。今にして思えば港に着いたはま子を運ぶ手段がなくて、港から野毛山までずっと歩いてきたんじゃないかな。丁度見ていた自分をはま子に乗せてくれたんだ。半ズボンをはいてたんだけど、象の皮膚って硬くてザラザラしていて、硬い毛が生えているんだよ。それがチクチクして痛かったなぁ。」藤澤さんからいただいたエピソードでした。
○藤澤:そうですね。あのぉ、私が当時4歳ですね。当時の記憶というのは、まぁ、皆さんもそうでしょうけれど、ほとんどないですよね。ですけども丁度、あの今の野毛の商店街。都橋を渡って野毛山に至るあの道ですけどね。あの途中で見てたんですね。誰かが象さんの上にポーンと乗っけてくれたんです。びっくりしましてね。象さんっていうのは遠くから見るとすべすべのように見えますけども、実はすごい毛むくじゃらだったんです。半ズボンでね、乗っけられたもんですから、すごい毛がチクチクして痛かったことを覚えています。野毛山へ来た、この間、はま子が、いつでしたかね、亡くなったんですね。記事が載ってましたけれども、あー、あのはま子が死んだのかって、すごくあの、感慨深く思ったことを覚えてます。
○司会:ありがとうございます。では、ほかにもエピソードをいただいておりますので、そちらを御紹介します。「昭和30年代、町田から遠足で野毛山動物園やマリンタワーに来た。あの頃は動物園といえば上野か野毛山動物園だった。」「野毛山動物園に陸橋ができたとき、息子がテープカットをした。息子が幼稚園の頃で、野毛山幼稚園の子ども達でテープカットを見に行った。10年前の冬には孫が野毛山動物園のリニューアルのテープカットに行ったから、親子二代で野毛山動物園のテープカットに行ったわね。」このようなエピソードが事前に寄せられております。
野毛山動物園のエピソード、どなたかお話しになりたいなという方、いらっしゃいますか。では、どうぞ。
○男性:野毛山動物園の開園が、書かれてますように昭和26年ですけども、その前に、年配の方は御存知だと思うんですけど、確か復興博覧会っていうのがあったんですね。それは日本もだんだんと、戦後にいろいろなものができるようになったということで、第一会場と第二会場に分かれて、どっちが先だったかは忘れましたけれど、まだ野毛山公園が整備されてなかったんですね。今の、こちらに貯水池があったところ、ありますよね。あの辺りが中心になって会場が。あと、反町の今のスケートリンクがある辺りだったと思うんですけど、あそこが第二会場だったと思うんですね。
で、のちにそこに市役所が一時移るわけですけど、私は多分、あれは昭和24年だったんじゃないかと思うんですけど、小学生でしたけれども、何が一番印象に残ったかというと、ひとつはテレビですね。あそこで放映したんですね。テレビは戦前からアメリカなんかではあったんですけど、日本でもあったらしいんですけど、テレビで関東学院の方をずぅーっと、こう、見せてですね。で、何かね、小学生なんかは舞台で歌を歌うのを見せてくれたりして、みんな驚いてですね、テレビがこんなに盛んな時代じゃなかったですから、これ一体何なんだろうっていうことをですね、感じたことがあります。
で、そのあとからだんだんと、いわゆる復興ということで貿易も盛んになっていったんだと思いますけども、あとはあの横浜の、丁度今のあそこの貯水池のすぐそばに天文台が作られたんですね。で、その天文台っていうのは結構大きなもので、あの、私達にも見せてくれたんですけども、やっぱりその時、驚いたのは、子どもだからわかんなかったんですけど、天文台の望遠鏡は逆さまに見えるわけですよね。それで丁度あそこからですと今の浦舟町の交差点辺りに焦点が当たってまして、7番の当時の市電がこんな大きくですね、見えたことを覚えています。
で、それからもずっと天文台、だいぶ残ってまして、行事があって、いろいろなことが催されたと思いますけど、そのあとに多分、公園がきちんと整備されたりして、日本も変わっていっちゃったので、あの復興博覧会って意外と忘れられちゃってんだと思うんですけども、結構賑やかでいろいろなことがやられたのを覚えてます。今回、どなたも書いてなかったんでですね、ちょっと付け足させていただいた。
○司会:ありがとうございました。テレビを見られたお話だとか、動物園に限らず出てきましたけれども。じゃあ小林さん、お願いします。
○小林:そうですね、復興博覧会っていいますか、貿易博覧会っていうかたちで昭和24年に行われました。で、第一会場、メイン会場は野毛山でございまして、第二会場が反町ということです。
まぁ、先ほどテレビの話が出ましたけれども、私も並んで見まして、やっとカタカナの「イ」という字がですね、かすかに出てきたというのを私は見ました。あの、そんな経験をもっています。
今の迎賓館っていうのが建物に変わってますけど、その前の迎賓館、結婚式場だったわけなんですけども、それは当時、迎賓館として大勢の方の、貴賓室として使われたものを、民間の方がお買いになって、横浜迎賓館としてお使いになったと、こういうことですね、はい。そんなことしか覚えておりません。
○司会:今、天文台のお話をうかがったんですけども、こちらの方でも初めて聞くっていう声が挙がったんですけど、私もあの博覧会の話はよく耳にして、見たわけじゃありません。耳にしていたんですけど、その、天文台のお話、ほかに御存知の方、どなたかいらっしゃいませんか。前から三列目の御主人、いかがですか、御存知ないですかね。天文台っていうのはあまり聞いたことがないんですけど、どなたか御存知の方、いらっしゃいませんか。パネラーの方でも天文台って、あまり御存ないですか。野毛山の展望台でしたら私も存じているのですが。
○小林:展望台でしたら第二世が出来上がりました。三階建ての展望台があるんで
すね。あれは確か40年代になってから出来たと私は思ってまして、46年に私が撮った写真があります。大変見晴らしのいいところですね。今、二代目が出来上がりまして、今度はエレベーターも付いておりますので是非皆さん、展望していただければありがたいなと、こう思っております。
○司会:ありがとうございます。ほかにも、自分もこういうのを見たよというお話、もしあればお聞かせいただきたいなと思うんですけれども。じゃあ、どうぞ。
○男性:すいません、ちょっと時代は下っちゃうんですけど、昭和30年代に元町(もとまち)小学校で、だいたい2年生のとき、遠足は野毛山動物園と掃部山(かもんやま)が定番なんですよ。今も多分そうかな。で、1年のときは三溪園(さんけいえん)。わけわかんないのに行かされて、僕たちはとにかく三溪園でも池の魚を獲ろうかという感じで(笑)、建物なんかは全然注意してなかったんですけど、それで今、ちょっと野毛山で思い出したのが、やっぱり動物園に入ったときに、その、マントヒヒがですね、こう、木のところの大分高いところからおしっこをしたんですよ、見学のときに。すごい何かそれが印象的で、学校に帰ってから絵を描かされるんですけど、私はそのマントヒヒがおしっこをしたところを描いて、で、ほかの絵の上手い子は、やっぱりはま子ですよね、象を描いたりで、僕は何故かそこだけがすごい印象に残ったんで、そんなのを描きました。それとあと、ゴーカート。知り合いに連れられて、遊園地の方ですけど、色とかそういうのは全然覚えてないんですけど、とにかくカートってのかな。その、こうハンドル持ってて、とにかく下手くそでだめなんですよね。すぐぶつかっちゃって、ゴンゴンゴンゴン。で、ちなみに後ろからハンドルを持ってもらって、やった覚えがあって、そのときにも将来、車の免許なんか取れないなと。その時、小学校1年だったと思いますけど、いま、大型とかいろいろ持ってますけどまぁ、乗れるんだなということがわかりました。 (会場から笑い)
○男性:私も横浜市の生まれで、ずっと育ったんですけど、まぁ、小学校の低学年のときにはやっぱり野毛山の、あの遊園地で飛行塔とか、そういったものがあるときに来た覚えがありますし、あと、野毛山地区のどのエリアか忘れましたけれど、老松中学校のそばかなぁと思うんですけれど、その頃やっぱり野球が流行っていました。その頃、紅梅(こうばい)キャラメルって御存知ですか。今はないですけどね。紅梅キャラメルを買うとカードが付いてまして、それにジャイアンツの選手のカードがついていて、それをいっぱい貯めるという、そういった子どもの遊びがあったということですね。
それから、あとは、私の個人的なあれですけど、図書館の、今、敷地の中に入ってしまったんですけど、老松会館。ここは私が式を挙げた場所です。そんな思い出が野毛にありまして、今は、この近くに住んでます。
○司会:とても大切な場所なんですね、野毛が。ありがとうございました。あの、そのカードのときに随分皆さん、御反応がありましたけれども。
○小林:貿易博覧会のあと、そうですね、遊園地になったんですね、一時ね。ですからそういう思い出をかなり皆さん、お持ちだろうと、こう思います。
○藤澤:あの紅梅(こうばい)キャラメル、なかなか水原監督が出なくて、全部揃わないんですよね。あれを売っていた駄菓子屋さん、<なまこや>っていいますけど、今でも残っていますね。あの大岡川のすぐそばで、<かもめ座>という映画館があったんですけど、その真ん前。今でもあるんですよ、えぇ。是非、駄菓子屋さんに寄ってあげてください。 (会場から反応)
○男性:あの、紅梅キャラメルの話って懐かしいとおもうんですけど、さっきの方がおっしゃったのはですね、こういうことがあったんですよ。そこの今の平沼さんの家がありますよね。あの辺に何か来たんですね。で、それで何をやったかっていうと、紅梅キャラメルが主催して今の関内(かんない)ホールになっているところが、昔あれ、東宝だったと思うんですね、映画館だったんですけど。そこでですね、選手が。川上選手だとか千葉選手とか青田選手とか、みんな古い人ですけど、来てですね、あそこで何かイベントがあったんですね。私は近いもんですからそこまで見に行って、野球の選手ってこんなに体が大きいのかってのを覚えてるんです。で、それからずっとぞろぞろついて行って、その、今の関内ホールに横浜東宝か何かあったんですけど、そこでイベントがあって、サインボールを投げたんですね、選手が。私は拾わなかったんだけど一緒に行った友達が拾ってですね。ちゃんとしたサインが入っているボールでした。当時、珍しいものだったので喜んだ記憶がありますし、とにかくあの頃、小学生は紅梅キャラメルばっかり買ってて、さっきの方がおっしゃったように、なかなか出ないんですね。実はホームランっていうのが一枚、一番何点かなりまして、何点か貯めると今、おっしゃったように大岡川の近所に交換してくれるところがあって、私なんかも歩いてよく行ったことがありました。ちょっと余計なことですけど。
○男性:えー、ちょっとあの、子どもの遊びが出ましたんでね、古くなった話をさせてもらって恐縮ですが、私は宮川町に住んでおりまして、丁度戦前のときに小学校へ入ったんですが、そのときは尋常小学校っていうんじゃなくて、国民学校って言ったんですよ。その老松小学校に入りましてね。学童疎開して。で、戦争が終わる前に戻ってきて、こちらで、焼け野原の中で子ども生活を送ったんですが、そういう中でやはり、まずマッカーサーが来たときにですね、女、子どもは大変だっていうんで、すぐみんな街の人は逃げましたですね。半月ぐらいして、安心だって戻って来て、それからまぁ、先ほどの「ギブ ミィ チョコレート」だとかね、そういうことだったんですが、子どもの遊びとしましてはですね、丁度イタリアで『自転車泥棒』っていう映画があったわけなんですけども、自転車の輪っぱを外しましてね、あれをこう、回す遊びが流行ったと。
それから、えーと、吉田町の関内ですね、まだかまぼこ兵舎がなかったんで、あの辺はもうまるっきり焼け野原の中で、磁石を使って、その、何ていうんですか、あれ、砂鉄といいますかね、そういうものを紙の上にまいて、磁石を下から動かしておどる様子を見るというような遊びとか。それからメンコ遊びで高校、当時は旧制中学とか学芸、えー、民間の実業団かな。それから映画のスターですよね。これがメンコ遊びですね。先ほど出た紅梅キャラメルもそうですが、メンコ遊びとベーゴマ遊び。こういうものとビー玉。これが男の子の遊びの三種の神器です。まぁ、こんなようなことで遊んだと。そんな思い出でございます。以上です。

●露天商の登場
○司会:ありがとうございました。子ども時代にこういうふうに遊んでいたというお話を聞くことができました。では、野毛山動物園が昭和26年に開園しまして、その頃、野毛の街にも登場していたものがあります。露天商が野毛の街に登場しておりました。写真にも写っておりますが道の脇に露天商が並んでおりました。まず、事前に寄せられたエピソード、紹介させていただきます。
「野毛には大きい店はなく、小さい商店が多くあり、自分で買物用の籠を持って商品を買って回っていた。おせんべいや飴も1個ずつバラ売りしていた。木造りのアーケードや露天商もあり、賑やかだった。露天商はバスが通るときに邪魔になるので、なくなってしまった。都橋の横の2階建ての建物に移り、今も残っている。夜遅く露天商に遊びに行ったりしていて、楽しかった。食べものも着るものも、やかん、鍋、日用雑貨も野毛にいれば何でもそろった。」というエピソードをいただいております。
ほかにも、「昔は露天商が野毛の大通りから都橋までずぅーっと並んでいたが、それがなくなったのがこの辺りの一番大きな変わったこと。露天商には食べもの以外のほとんどのものが売ってあった。今の<にぎわい座>が中区の税務署だったけれど、露天商には判子も売ってあった。露天商には何でも売ってあって、どの世代の人も買いに行っていた。露天商がなくなったのはオリンピックの影響。」ほかにも、「昭和39年のオリンピックを機に、露天商を都橋沿いの建物に押し込めた。」というエピソードをいただいております。
それでは、会場の方からもお話をいただきたいと思いますが、露天商が並んでいた野毛の様子、御記憶にある方、いらっしゃいますか。これは都橋の方から見た野毛本通りの様子です。昭和37年に撮影された写真です。では、小林さんにちょっとお話をいただきたいと思います。
○小林:私は丁度、終戦の年が14歳でございました。家族が多くてですね、兄弟が6人おりまして、次男だったもんですから、私まではどうしても生計を立てるために働かなければならないと、こういうことでございまして、働きながら学校へ行ってたと、こういうことでございまして、その働きながらは一体何を働いたのかといいますと、露店を、お店の番をしてたと、こういうことでございます。
まず最初からお話をいたしますと、私の父が美濃から美濃焼を、しょって買ってきました。それを米軍相手にですね、お土産として売ろうじゃないかと。で、一体どこで売ったらいいのかということで一番その、米軍が一番通るところが当時、馬車道だったんですね。で、その今は神奈川県立博物館になってますけれども、その当時は正金(しょうきん)銀行だったんですね。で、その通りの歩道の上でですね、風呂敷を敷きまして、そこに水差しとか花瓶とかですね、あと湯呑、ポットとかですね、そういうものを並べて。これは戦前、アメリカへ輸出していたものがですね、途絶えて、ですからアメリカ人には大変好まれる、全体は赤であり、模様が全部、金でできてるんですね。ですから、米軍の人たちは競って私のものを買ってくれたんですね。持って来るのが間に合わないくらいの繁盛をしたんですが。で、たまたま父と私でやってたんですけども、父は戦前、ちょっと英語を勉強してましたので、英語ができた。それを私が聞いて片手間の英語で売ってたんですけれども、ある日、父が事情がありまして、私だけで商売をしました。そこへおそらく市の人だと思うんですけど、坊や、こんなところで商売をしてはいけないよということで、今、野毛でこういう露店をですね、集めているから、すぐに野毛に行きなさいということで、私は店をしまってですね、正金銀行の小遣いさんにお願いをして、父が来たらば野毛に行ったと伝えてくれという具合に言づけをしてですね、野毛に行きました。
もう夕方近く、4時頃でございまして、うろうろして場所を探そうと思っていたんですけども、もうほとんど大人の人たちが占拠してまして、場所がなかったわけですね。ところが泣き出しそうな顔して途方に暮れてたら、ある人が声をかけてくれました。坊や、何しに来たんだと。場所を取りに来たんだと、こう言いましたところ、それじゃ俺の隣へ焼けトタンを敷いて、10枚ぐらい敷いてその上に座ってなさいと。こういうことでした。何故、その人が声をかけてきてくれたのかといいますと、やたらに広くは取れなかったんですね。募集はあくまでも一間(いっけん)。ですから1メートル80センチですね。その間口しか取れないということがわかって、余分に取ったので私にその分を分けてくれたと、こういうことで、大変な恩人なんですね。それからその日のうちにですね、屋台を作りまして、私はその上に寝てしまったんですね。で、夜の11時頃になりましたら父が見つけてくれまして、無事にそこに掘っ建て小屋を作って、商売をそのあくる日から始めたわけですけれど、一体何を売るのかって。まぁ当初、その花瓶とかですね、水差し、そういうものしかなかったんですけれども、紙関係の仕事をしていましたので、紙のルートはあったもんですから、そこからいろいろなチリ紙とかですね、障子紙とか、そういうものを美濃から仕入れまして、売り始めたんです。間口一間で、です。それを始めたのは昭和20(1945)年、終戦の年の11月でございます。ですからもう寒かったですね。で、お店はどちらかといいますとこの大通りの方に向かって商売をしているということからスタートしました。
それからもうひとつ、その、所場代(しょばだい)といいましょうか、場所代ですね。おそらく市の代理をしている人だったんだろうと思いますが、町の代表の方が場所代を取りに来たわけですね。で、それは電灯一灯についていくらということで毎日、料金を払いました。それから約1年経って昭和21(1946)年の11月にですね、うちの店は、今度は向きが変わりました。今度は歩道に。今、これ見ますと(45頁写真)歩道に向かって商売をしてますけれども、そういうかたちになります。といいますのは、商売を前からやっておられた方が徐々に帰って来られまして、本建築でお店を作るようになったんですね。ですから真向いにはちゃんとしたお店が、私どもの露店の前にあって、挟むようにして歩道をお客様が歩くという。多少、もう車も通るようになってましたので、それで向きを変えたということになります。それは昭和21(1946)年11月でございます。その頃になりますと所場代というのは電灯一灯ではなくて売上げ歩合、売上に対して何パーセントということで日々、上納してたと、こういうことでございます。それは多分、おそらく税金もですね、その中に入っていたんだろうと思うんですね。実際に私も15歳ですから、まぁ、税金の問題も父がすごく悩んでましたので、日々インフレでどんどんどんどん、毎年毎年、税金の額が上がってくるというように父がかなり苦しんでおりましたので、私自身も、これは税金も入ってるんだなと、そんなことを思いながら店番をしてました。当時の学校は二部制でございまして、私は午後番でございましたので、午前中に私が露店をやり、
午後からは兄が替わると、こういうことで兄弟で3年間、露店をやりました。
その中で一番、私どもで儲かったものは何かというのをちょっとお話しいたしますと、煙草を巻く紙ですね。皆さん専売公社からはですね、<きざみ>しか配給がなかったんですね。実際、どうやって吸うんでしょうか。煙管(きせる)ではちょっと小さすぎますし、そこで朝鮮煙管というのがですね、かなり出回ったんですね。これはマドロスパイプぐらいの容量のものがありまして、日本の煙管と同じように、真鍮でできているんですね。竹の、羅宇(らお)っていうんですかね、それが付いてまして、それで吸うと、きざみでも吸えるわけですけれども、紙の配給がなかったんです。そこで私どもの父が、紙を切るのが専門ですので、小さく煙草の大きさに切ってですね、お店へだしたところ、飛ぶように売れまして、大変実は儲かったわけですけれども、ある日、専売公社に父が捕まりまして、これは専売公社法違反だということで一日留置をされたんです。そこで、私はもらい下げに行きました。このきざみだけを持ってきて煙草を吸ってくださいということですが、どうして吸えるんでしょうかと聞きました。そうしましたら、紙がなければ吸えないと、こういう答えが来ましたので、その紙を供給してんのに何故悪いんだということでですね、私は赤ペンでサインをして、二度と売りませんということを誓約をして、父をもらい下げをしてきた、そんな記憶があるわけでございますけども、そういう具合に大変変わった時代でございました。私は学校でやはり勉強しなけりゃならないので、3年間で露天商は辞めさせていただきました。(笑)
○司会:ありがとうございます。露店に直にお店を出されていたという小林さんのお話を聞くことができました。会場の方で何か買ったとか歩いたことがあるとか、ございますか。
○男性:今、ここに出ております、そのちょっと前の写真を出してくれませんか。(「都橋から見た野毛本通り」写真映写)自動車が2台走ってます。2代目の左側に何とか株式会社って書いております。それは稲垣薬品っていう会社です。
私はその頃ですね、昭和33年頃に、その会社におりました。それからずっといたんですけども、うちの会社はですね工業薬品を主に売っておったんです。で、工業薬品を売ってる中にですね、重曹、御存知でしょうけれど重曹がですね、あれ一袋が25キロとか50キロっていう袋なんです。でもこれ、普通にいえば売っちゃいけないと。切符がなければ売れなかったんです。ところがうちの前に出てる露天商の方はですね、ほんの少しをですね、すごい値段で売るんですよ。私のところでその25キロ一袋を売るよりも高い値段なんです。 (会場から笑い) ですからね、いくら何でもこりゃひどいじゃないかというような思いがございました。以上です、どうぞ。
○小林:大変申しわけございません。 (会場から笑い)
○司会:ありがとうございます。ほかの方はどなたかいらっしゃいますか。
○小林:では、私の方からひとつ。私が丁度露店をやっているときにですね、これは確か昭和21年の春だったと思いますけれども、新円切替(しんえんきりかえ)というのを皆さん御存知でございましょうか。えー、それまで戦前から使ってたお札とか硬貨、硬貨は使えたんですけれども、お札に関してですね、新しいお札に替えるという通知があったんです。これはおそらくインフレを抑えるためのものだったのでしょう。実際に銀行に取り換えに行っても、当時100円まで。100円というと当時、まぁ、月給ぐらいなんですね。100円ぐらいまでは取り換えられたんですけど、それ以上は取り換えられない。あとは銀行でその預金の方は全部作り替えるということです。それ、御記憶の方はおられますか。あぁ、やはりおられますね。じゃあ、そのお客さんの方から御意見を聞いていただいて。
○司会:そうですね、はい。では、前の方、お願いします。
○男性:私はまだ子どもでしたから新円の切替ってことの意味は全くわからなかったんですけども、親父が税理士をしておりまして、昭和19年の8月に、私は徳島へ強制疎開したんですが、親父はまだ仕事があるもんですから横浜に残ってたんです。えー、はっきり記憶がないんですが昭和20年の2、3月頃になって親父はもう、住まいは豆口に住んでたんですけども、その家を売っちゃって、戦争が激しくなってきて危ないからっていうことで田舎へ引き上げちゃったんですね。それで田舎、徳島へ帰っちゃったんですが、それで、終戦になってから昭和21年の半ば頃に、横浜へ親父は先に帰って来たんだと思うんですが、それでどういうわけだかよくわかんないんですけれども手紙が来て、徳島の銀行へ、淡路銀行っていう銀行へ行って、それでその預金をどうとかしろとかと言われて、はっきりした記憶がないんですけども、それが新円の封鎖の手続きか何かだったらしいんですが、生まれて初めて私、銀行へ行ったのもそうですし、その新円切換でどうとかって言ってて、お金が封鎖されちゃってて使えないんだよっていうような話を中学1年になったばかりのときですから、経済のことなんかさっぱり、お金のことなんかもさっぱりわからないんで、何かよくわからないけれども、そういうことで銀行へ行かされたっていう記憶がありまして、それが新円の封鎖の、預金の手続きだったらしいってことが、記憶に残ってます。
○小林:ありがとうございます。新円の切替のときにですね、大金持ちの人は実は品物を買っちゃうんですね。その期日がありますからその前にその、お金をどんどん使っちゃうんです。品物で持っていたわけですね。で、後から売るという。これはひとつは脱税防止でもあったんだろうと思いますし、皆さんの財産を役所が管理する、一番の基になったんだろうと思います。で、ちなみにあの、新円のデザインは皆さん、御記憶でしょうか。十円でいいますと米国(べいこく)という日本的なデザインなんですね。ブルーと紺で印刷されてまして、まだ印刷がそんなにできない頃でございまして、これ、新円と替える量がなくてですね、新円がなくて、シールを皆さんに配布して、旧紙幣にシールを貼って流出をさせたと、こんなことも実は私、覚えております。以上でございます。 ○司会:会場でもうなずいていらっしゃる方が何名かいらっしゃいますね。では、ちょっと写真を御紹介します。今、お見せしているのは野毛の本通りに並んでいる露天商の写真なんですけれども、都橋に入ったあとの写真がありますので。これですね。(「野毛都橋商店街ビル」写真映写)都橋商店街ビルに露店が入ったあとの写真です。昭和40年の、これは撮影された写真ですね。手前の方は靴屋さんですかね。
では、露店に限らず、野毛の昔の生活について少しお話をしてみたいと思います。パネラーの方でどなたか、昔の野毛の生活の様子、遊びの様子、御紹介いただけますか。
○藤澤:私が覚えているのは昭和28年頃ですね。昭和30年になる前ですね。まだ物が少なくて、で、うちは飲食店を経営していたんですけどね、米がなくて。配給だと間に合わないんで闇屋さんに、お遣いに行かされました。近くに闇屋さんがありましてね。そんなのだとか、それからお酒も足りなくてですね、しょっちゅう水で薄めてました。いや、今はそんなことしてません。 (会場から笑い) お客さんもそれ、ちゃんと知ってましてね。あの、あまり今日は薄めないでとか言って、うちのお母さんが「はいはい」とか言いながら、でも、適当に薄めて売ってたのを覚えてます。何しろ物がなくて、本当にやりくりして、基本的な食品がまだ昭和28年頃でも十分でなかった。そんな感じをもちました。

●横浜市の六大事業
○司会:では、野毛もこのように変わってきまして、昭和39年に東京オリンピックが開催されます。これを機に街がどんどん変わっていきました。街が変わっていった様子について、すいません、続けてなんですが、小林さんに少しお話をいただければと思います。
○小林:あの、丁度横浜市ではですね、この、『港町・横浜の都市形成史』という横浜市から発行されている本があるんですけれども、開港当時からずぅーっとですね、何年から何年までは何ていう期だとかですね、そういうことなんですが、実際にその戦後、昭和20年から35年までをですね、戦災復興期という具合に名付けております。それから36年から53年までをですね、都市成長期と、実はこういう具合に区分けをしてるんですね。
で、昭和20年から35年っていうのは戦災復興期。これはもう当然、35年は池田内閣のですね、所得倍増論が発表になった年でございますので、正にこういう復興はですね、だいたい終わったと、こういうことでございまして、36年から53年で、何故53年なのかと、こういうことですけど、この間は都市成長期なんです。で、53年はですね、横浜の人口が270万人になってるわけでございまして、大阪、勿論名古屋も途中で抜いて大阪を抜いた年が53年なんですね。
で、そういう中で実は後々(あとあと)、オリンピックから現在までの中にいろんなお話が出てくるわけですけれども、その基本的な成長期にですね、横浜市の将来をどういう街にするかということで、いろいろ議論がございます。で、その中で横浜市はですね、六大事業という計画を立てました。で、これを実際に実行することになったわけでございまして、この六大事業についてちょっとお話しさせていただきます。
まず、港北ニュータウンですね。で、これは、人口急増地域でございますので、そのまま放置をしますと、どんどんどんどん住宅地になってしまう。で、せっかくの田園風景っていうものがなくなるということでですね、やはり網をかぶせまして住宅地と農地、そういうものをきちっと区画をしてですね、将来の発展に期そうということで、この港北ニュータウン構想が生まれました。で、現在、それが進められてほとんど完成しているわけでございます。それからもうひとつは都心臨海部の開発ということでございます。これは今でいうMM地区でございます。それから新港埠頭ですね。この二つの開発がどうしても必要だと。といいますのは旧市街地の中で伊勢佐木町、元町、中華街。それと横浜西口とですね、まぁ、これがやはり一体化することによってですね、対都市間競争の中に勝てる商店街になるだろうと、こういうことでございまして、その中間の、この新港地区、それからMM地区もですね、やはり業務地域として開発する。但し、その理念はですね、東京へ働きに行く人がですね、多くて、横浜の昼夜間人口の差がですね、38万人の差がありました。昼間になると38万人が減ってしまうんですね、横浜の人口は。土、日はちょっと違いますけれども、普段のウィークデーはだいぶ減ってしまう。その半分の19万人をこのMM地区で復活させよう、人数を生もうと、こういうことで計画をしました。それもほとんど今、だいぶMM地区も出来上がってきているわけですね。それから土地の、もうひとつの土地は金沢のですね、埋立地。これは幸浦(さちうら)、福浦というところですね。これはハ地区(はちく)までは、イロ、ハまでは埋立が済んでまして、丁度飛鳥田市政のときでございますので、今度この金沢の埋立地が計画により乗りました。
それは何故かといいますと、市内にあります問屋さんとかですね、小さい工場はですね、車を置いて道路で積み下ろしをする。そこで、将来モータリゼーションの時代になるということを想定してですね、街の中をもっと機能的にですね、活用できるようにしようということで、そういうものの移転先を埋立地に求めたと、こういうことでございまして、まぁ、現在運送業とか卸売業とか、私どもの会社もそこに出ているんですけれども、そういう計画がそのときになされていると、こういうことです。
それから交通関係ではですね、高速鉄道という名前でございますけれど、決して高速鉄道ではないんですけれども、地下鉄ですね、これ、四路線を計画したわけでございまして、今、二路線だけはできているわけでございます。それから環状道路ですね。横浜に、環状道路をやはり作るということで、今、2号線、4号線が作られておりますけれども、それももう少しで完成するわけでございます。それからもうひとつは、臨海部のですね、輸送の円滑化を図ろうと、こういうことでございまして、これはベイブリッジですね。この六つの計画をですね、まぁ、昭和40年代になりまして計画を立てたと。それが現在、皆さんの、横浜市民の役にたっていると。横浜はですね、この六大事業がもしなかったら、大変混雑をしてるでしょうし、今の繁栄はなかったように私は思います。この六大事業は大変大事な、私はひとつの街づくりの節目というぐらいに考えておりますし、また、他の都市の手本になっている計画であったという。先日亡くなられました田村さんがこの六つの、基本的な計画をしたわけでございますが、それが実行されて現在にあると、こういうことでございます。それをちょっと頭に入れて、次の話題に進んでいただくとありがたいと思います。

●市電の思い出
○司会:ありがとうございました。横浜の街づくりのお話を少ししていただきました。今も高速鉄道という中でお話が出ていましたが、市営地下鉄が開通するまで、横浜には市電が走っておりました。市電に乗ったことあるという方、手を挙げていただいてもいいですか。たくさんいらっしゃるかなと。残念ながら私はないんですけれども。ちょっとこれから市電についての思い出を話そうかなと思います。まず映っておりますのは路線図(「最盛期の運転系統図」(1960(昭和35)年当時)映写、横浜市市電保存館ホームページより)ですね。ちょっと細かくて見づらいんですが、たくさんの市電が走っていたことはこちらからもわかります。野毛は丁度真ん中辺りでしょうか。ちょっと小っちゃいですね、すいません。では、市電について寄せられたエピソードを紹介します。
「野毛には市電が走っていた。どこかへ出かけるのはほとんど市電だった。市電では25円で野毛から杉田まで行けた。よく海水浴に行った。電車は桜木町までしかなかった。杉田や蒔田に行くには市電に乗らなければ行けなかった。」「市電の線路は途切れているところがあった。川沿いに露店が替わったためらしい。桜木町駅前に市電が集まり、不夜城のようだった。」「市電は交通渋滞の元凶のようにみられ、全国各地で路面電車が次々に廃止されていった。横浜でも昭和47年3月31日で遂に全廃されてしまった。同じくこの年、市営地下鉄伊勢佐木長者町駅から上大岡間が開通した。」というエピソードが寄せられています。乗っていた方がたくさんいらっしゃったので、会場の方からも市電にまつわるエピソード、ここに出かけたことがあるとか、思い出話がいただけたらなと思いますが、どなたかエピソードを御紹介いただけますか。では、あちらの方、どうぞ。
○男性:お話のように市電は正に生活の基盤、基本でして、お風呂に行くにもですね、子安まで電車に乗って行ったとか、杉田にパンを買いに行くんで乗ったとか、とにかく生活の中心は市電そのものでした。今のお話、桜木町が中心の地ですから、そういう意味ではそこへ人が集まってくるんで、米軍に、何ていうんですか、消毒をするんですね。DDTをかけられたとかという、まぁ、そんな思い出があります。以上です。
○男性:あの、市電は確かにいろんな意味で市民の足だったと思います。私が覚えているのは近所に市の交通局に勤めていた人がいたので、こういうことを覚えているんですけど、朝、4時半か5時頃になると乗務員を迎えるために市電が来るんですね。特に警笛を鳴らすんです。で、私は住んでるところは藤棚の近くだったんですけど、4番の市電が通っていて、4番っていうのは三溪園の方まで行く路線だったんですね、保土ケ谷駅から。そうするとそれが、こう、警笛を鳴らすとですね、職員がみんなそれに乗りこんで、で、職場に行くっていうんで、何でそんなに早くから来るのかなと思って、今でも4時か4時半頃になるとよく鳴ってたのを覚えています。
あと、市電っていうのは私達子どものときに遊びに使ったことを覚えてるんですね。我々の小さいときにあんまり、戦後ですけど遊ぶものがなかったんで。ただで乗ったことはないんですけどね。一時、循環線ができたことがあったんですね。何系統だか忘れましたけれど、生麦からずぅーっと来まして保土ケ谷を通って、で、弘明寺へ行って、弘明寺から伊勢佐木町のところを通って生麦の方へ帰って、1番とかっていう系統だったと思うんですけど、それ、1回ぐるっと回ってきても確か私のときには、さっき誰かが言ってたように25円かよりもっと安いときだったんで、10円か13円とかってときだったと思うんですけど、友達と一緒に行くとこがないから乗るとか、うちの祖母なんかは私が子どものとき、これは戦前ですけど、泣いてしょうがないから市電に乗ってですね、一回りしてくるんだって言ってましたけれど、今考えれば悠長な時代なんですけども、非常に市電がなくなったのは今でも残念に思ってます。
確かにモータリゼーションによって、ものすごく車が増えて渋滞になりました。私が唯一覚えているのは昭和28年、27年だったと思うんですけども、高島町の交差点っていうのはすごい長い線だったんですね。ものすごい車の渋滞がありまして、あそこから桜木町まで行くのに非常に時間がかかる。で、市電はまぁ、優先的に軌道を走れるわけですが、周りに自動車がいるわけですね。で、私が勘定したことがあるんですね。何でそんなことをしたかというと、中学校のときだったと思うんですけど、ある先生が転勤をしまして、その先生に手紙を出すときに交通渋滞の話を書いてあげようかなと思って、280台だったと思います、280何台。昭和28年頃ですから、今、考えられないと思うんですけど、ものすごい大渋滞があって、その後だんだんとですね、なくなって私も結構写真なんかも撮っていたのも思い出があるので、持ってたという記憶があります。
○女性:私は今、南区の八幡町というところに住んでおりまして、もう、すぐ中区との区界で、昔は中区の一部だったそうなんですけれども、市電が走っておりまして、私、昭和31年生まれなんですけど、よく昔はやっぱりあの、小さい私達子どもに母が、市電の通る道を電車道って、よく子どもの言葉として「遊びに行っても電車道を越えちゃだめだよって」、よく言うんですね。で、あそこを私達、小っちゃい子ども同士で渡ろうとすると、もう31年のあとですから、やっぱり交通渋滞で市電のほかに車とか来てて危ないっていう意味だったと思うんですけれども、一応そんな感じで言われてまして、で、親に一緒に連れてってもらって乗ったこともありますし、だんだん自分でも乗れるようになって、丁度高校に入った年が市電の終わりの年だったんですね。で、中学のときまでは友達と乗ったりもしたんですが、あの、私は市電が好きだったもので、高校が弘明寺の方でしたので、毎日乗って通えるなと楽しみにしてましたら、3月に花電車か何かで終わってしまい、すごくがっかりしたという記憶があります。以上です。
○司会:ありがとうございます。では、そちらの女性の方からまず、お話をお願いします。
○女性:私も子どもの頃、市電であちこち行ったくちなんですけど、皆様のお話と重なるところが多いです。あの、市電だと軌道がありますので、どこで曲がるとか、何番がどういうふうに行くってのが子どもでもわかるんですね。ですからどこで乗り換えたらいいかとか。で、親も子どもだけで出してくれるという、そういう利点がありました。えー、それから、さっきの市電の系統図を見ますと、だいたい横浜の範囲っていうのが市電のあるところっていうイメージなんですね。えーと、それから、自動車や何かが多くなってっていうお話がありましたけれども、あのぉ、本当に市電の軌道に車が入って市電がほとんど動けないっていう状況も経験してます。で、その点、今の『コクリコ坂から』なんぞというのを見ますと、とてもお行儀よく走ってますので、あれはちょっとあの時代にはなかったなって思いました、はい。
それから、後ですね、小港(こみなと)の方のところを走りますと、丁度先ほどの一番初めの話、接収の話、ありましたけど、今、沖縄に行きますと両側がフェンスになってますけども、あのイメージでした。あと、市電が終わるときに花電車をやっぱり経験して、それから終わるときもそうですけど、始まるときに、保土ケ谷の方を通るときに何か花電車、通ったなぁって、かすかな記憶があります。最後に、あちこちに今でも市電の敷石が残って利用されてますので、そういうのを見かけると、あぁ、懐かしいなぁっていうのを、いつでも思います。以上です。
○男性:えーと、私は港中学に通ってたときに、本当は仲尾台に行かなきゃいけなかったんですけれども、越境入学してまして、上野町から吉浜町まで歩いて行ってたんですけど、やっぱりモータリゼーションで市電の方が遅いんですよね。こっちのが歩いてって着いちゃうくらいで。一度だけ元町のトンネル、赤レンガで出来てたんですけど、陸上部に入っていて、その帰りにですね、元町側から何かちょっと冗談半分で友達と話してて、麦田までトンネルの中へ入ってみようかと。で、二人でトンネルの中へ入ってっちゃったんですよ。で、中は凄く、レールのところはもう上からの、何ていうんですかね、沁みるっていうか、ポタポタと落っこってて、ぐじゃぐじゃなんですよね、レールのところが。それとあと、コウモリが中にいたんですよ、暗いから。まぁ、200メートルぐらいのトンネルなんですけど、そこをもうとにかく必死で走って、市電が来ないようにね。何とか麦田まで出たときには市電が来なかったのでね、怒られなくてすんだんですけどね、まぁ、そんなことがありました。それと陸上部のときに帰りがけに、かなり大雪が降ったとき、吉浜橋のところで、市電が通ったときに反対側から互いに雪合戦をした覚えがありますね。で、何か今、コクリコ坂、言ってましたけど、西の橋っていう駅はないんですよね、電停がね。あれ、ちょっと僕も見てないんですけど、何かあれはちょっと違うなと。 (会場から笑い) そういう歴史的なところから見ちゃうとだめなんですよね。だからそういう目で見ないようにしてもらった方がいいかも知れません。
○男性:皆さんのお話よりちょっと前になりますが、戦争中の横浜の市電ですが、まず、車庫がですね生麦と、それから、あそこは何て言いましたかな、杉田の方へ行く途中、滝頭ですか。それから麦田と、車庫は三つきりしかなかったんですね。で、生麦の車庫はですね、市電の番号でいくと1番、2番、3番なんです。そして4番と5番が麦田の車庫。そして6番から9番まで、戦争中なんかは確か9番までしかなかったんですけど、それは滝頭の車庫ということで、麦田の車庫が一番小さかったんです。で、私はその頃は西平沼というところ、扇だとか、そこら辺から通っていたんですけどすね、その当時は三中っていいました。今は緑ヶ丘ですが、そこへ通ってたんですけれども、市電はすごくのろいという、さっきの話、のろいんです。何故かっていいますとですね、運転席の出力レバーは、直列か並列かというところに最初に持ってきまして、それからグゥッと手前に引くとモーターがガァッと、早く回るようになってるんです。ところがですね、電気を使うからというんでですね、その最初のところまでいって、もう下に支え棒が出来ちゃってですね、進めないんですよ。ですからスピードがとてものろいんです。そうしますとお話のようにですね、扇田町から乗ろうとしてもですね、行っちゃいますと、すっとんで駆けていきますと次の駅でちゃんと、停留所で間に合うんですね。それほど市電はのろかったんです、戦争中は。
で、先ほど高島町ってお話ありましたけれど、高島町が一番賑やかだった交差点として大変だったのは1番、2番、3番、4番、5番、6番、これと7番も通ってました。そこをその線路が全部、四つ角じゃなくてまた斜めにも来るというかたちで、ものすごく複雑だったんです。ですから信号が1回、こう、終わりますと次に来るまで随分時間がありましてねその間イライラして待ってました。そんなような記憶がありますね。まだたくさんありますけど、一応このくらいにしておきますけども。
○男性:今のお話の続きみたいになりますけど、ちょっと高島町の交差点が何か複雑だったらしいんですけど、そこにですね、電信柱みたいな柱が立ってて、その上に何か部屋がありましたよね。で、そこで何か監視をしているらしくて、信号か何かの切替があったんですね。一種の小屋なんですよね。ガラス張りで、何ていうんだろうなぁ、灯台みたいな感じのものがありましてね、そこで信号の切替か何かをやってたようなこと、今、話を聞いてて思い出しました。それから、私は弘明寺の商工高校に通ってたんですが、本牧の千代崎町から通って、尾上町で乗り換えて弘明寺までの終点まで毎日、通ってたんですが、生徒の時代は定期で通ってましたから別に不自由はなかったんですけれど、戦前は確か乗換切符ってのをくれたと思うんですね。それで、例えば千代崎町から尾上町で乗り換えて弘明寺へ行くんであれば、何か細長い、鋏を入れたか入れないかよく覚えてないんですけれども。すごく小さい子どもの頃ですけど乗換切符って、こんな細長いのをもらうと、それを見せるとその次の路線に行かれたように思いますんで、一回料金を払うとずっとどこまでも行けちゃうんじゃなかったかなと、はっきりした記憶じゃないけど、それはあります。
それから、千代崎町で麦田の、先ほどお話が出た麦田のトンネルを越えて行きますと元町の西の橋っていうんですかね、あれは、橋がありまして、そこからずぅーっと吉浜橋、花園橋、えー、横浜市役所の前からずっとまっすぐ行くわけなんですけど、今の根岸線がありませんから、根岸線の下が川だったわけで、その川の向こう側にですね、晴れた日ですと、特に冬なんかは富士山が真正面に見えるんですね。で、素晴らしい風景なんですが、今、あれは全然見られませんし、ビルがたくさん建っちゃいましたから、えー、根岸線に乗っててもほとんど富士山を見ることは出来なくなっちゃったと思いますが、私はもう毎日、富士山を見て通ってた時代を思い出しました。
それからもうひとつ、その市電で面白いのはボギー車っていってですね、四つの輪っぱの付いたところに、あの、市電のボディーが乗っかってるのが前と後ろにあるやつを、それをボギー車って、確か言ってましたけれども、それは割合安定して走るんですけれども、もっと短い電車はですね、車が四つしかなかったような感じがして、こういうふうに揺れるんですね。もう揺れて揺れてしょうがないように揺れるんですが、それで長く通ってたせいかですね、ちょっと気分の悪いときでも、その市電に乗っちゃうと、すっかり気分が良くなっちゃって、平和な、そういう経験がありますし、そのあとですね、学校で大島へ修学旅行に行ったことがあるんです。で、東京の桟橋から船に乗っていって、三十何人か同級生が一緒に乗ったんですけれども、そのとき海が荒れたのか何かよく覚えてませんけど、船酔いしなかったのは私ともう一人、二人しかいなかったんです。で、それ、よくよく考えてみると徒歩通学してた人は皆、酔っちゃったんです。(会場から笑い) ところが私は普段、毎日その市電のこの揺れに、こう、体が順応してたのか、(会場から笑い) 全然酔わないで旅先でびっくりした。私もひょろひょろしてましたから、よくお前は酔わないなぁなんて言われたのを思い出しました。
○司会:ありがとうございました。市電の思わぬ効果が。じゃあ、後ろの、今の方の二列後ろの。お願いします。
○女性:はい、失礼します。通学の話が出てきましたんで、ちょっと今まで区名があまり出ませんでしたが、私、神奈川区に住んでまして六角橋から11番に乗って中学時代、大和町まで通ったんですね。で、そのあと、そこからずぅーっと学校の丘からぐるっと回って、で、11番のあの辺の間門とか、その辺からまた乗って帰れたんですね。えー、実は今でも車で通りますが、その当時は関内牧場って言われてまして、本当に戦争の痕がそのまんま残っている。そして、学校の丘から行きますとYCACから、要するに外国人の、兵隊さんのすてきなハウスが並んでるところへ、不思議に入れたんですね。まぁ、今はとてもMPさんがいてだめですけども、そしてちょっとそこにいる子ども達と、中学生ですので英会話の真似事をして、そして山を下りて三溪園のあの近辺からまた、定期ですから乗って帰ると。その代わりに今は市営バスを、何ですかシニアパスをもらえるようになって、まだもらえるっていうよりは少し前なので自分でまだお金を出してますが、市営バスなら1か月3000円でどこでも乗っていいというので、昔そういう市電に乗った記憶を辿りながらあちこち、ちょっと遊んでられます。あー、でも、その中学時代の思い出っていうのがすごく横浜の復興と重なって、その後の大発展に繋がってるっていうので、この取組もそういう意味ではすごく、何かこういうのを記録に残すと横浜の庶民史みたいなものが積み重なるかなぁと思って、楽しみにしております。以上です。
○男性:市電の思い出はですね、私住まいが、実家が三吉橋なんです。で、現在私は横須賀なんですけど、一番の市電の思い出っていうのは、あのぉ、屏風ヶ浦っていうんですか、あれから先が満潮になるとね、もう線路まで水が来ちゃうんですよね。あれが一番印象に残ってますねぇ。それから、昭和20年か21年ですか、ともかく焼け野原でもって風呂もないし、で、おふくろと弘明寺まで風呂に入りに行ったことがありましたね、市電に乗っかって。弘明寺と、それから横浜駅の東口。あれ、何のビルだったか、ビルにやはり銭湯がありまして、それが非常に印象に残ってますねぇ。ですから僕、小学校の当時3年ですけれど、やっぱりおふくろと同じ女湯に入ったんですね、小学校3年で。そんな思い出があります。それから、これ、話はあれですけど、森さん、(会場から笑い) 横浜高校ですか。私、横中です。それで、小林さんね、先ほど博覧会の件ですけど、野毛と、それから反町でやりましたね。
というのはですね、僕は小学校が三吉小学校だったんです、浦舟町の。で、そこで疎開しまして、帰ってきたのが南吉田小学校なんです。三吉小学校がもうなくなっちゃって。そんであの、中学へ入ったときに、横中に。試験が出たんですよ、たまたま今、横浜で博覧会しているけど、どことどこなのかと。で、もうさぁーっと手を挙げて。それからもうひとつ覚えているのは光と音とどっちが速いかって問題で、僕は光ですって。そしたら、そうか、本当かななんて言うから、いや、音ですって。まぁ、結局光なんですけど、で、そのとき覚えたのが光が1秒間に地球七回り半ですか。で、音というのは1時間でもってこの辺から下関までがだいたい1時間ぐらいらしいんですね。そんなようなことを覚えております。
それからですね、あと、いろいろもう、私も横浜で勿論生まれて、おじいちゃんから横浜なんです。ですからいろいろ思い出がありまして、もう戦後、何てったってマッカーサーが来てがらっと変わったように、まぁ、ともかく見るも聞くもびっくりびっくりでもって、まずもぅ、ダンプカーだとかね、それからもうともかく機銃車とか、いろいろなもう、何てったってもうアメリカ、アメリカでもって、ですから僕なんかは「ギブ ミィ チョコレート」の時代です。それでもう、いろいろあるんですけど、年代からいったら昭和26年ぐらいですかね。これは今の英国のエリザベス女王ですね。あの人の戴冠式というのがありまして、で、今の天皇陛下が皇太子の時分に横浜から船で行った
んですよね。船の何だかというのをちょっと僕、覚えてないんですけど、そんでその皇太子が乗ってきた車というのが、おそらくロールスロイスじゃなかったかと思うんですけど、運転席と後ろと遮断されてまして、全部ボタンなんですねぇ、右へ回れだとか左だとか、ゆっくりだとか早くだとか、どうのこうのだとかって、それが何か非常に印象に残ってまして、で、それをずぅーっと見てて。で、今思うと不思議なんですけど、よくあんなのを我々が自由にそばまで行って見れたなぁと思うんですけど、まぁ、時代が時代なんですかねぇ。そんなような思い出がありますね。
○男性:あの、今のお話の続きなんですけれども、私も小学生の5年か6年のときですね、今の紅葉坂ですね。あそこで、学校で皇太子がエリザベス女王の戴冠式に行くので並ばされて、立って送ったことがございます。そのとき一番驚いたのは、車を見た印象はないんですけど、その前に散水車がザァーって通っていったので、あぁ、こういうことがあるんだって、それがすごく印象に残っております。
それと市電の話ですけれど、私は17年生まれで、えーと、二十歳(はたち)まで12番の終点の弘明寺に住んでおりました。で、親は藤澤さんと同じで飲食店をやっております。今だに三番目の兄が、継いでやってるんですけれど。市電の印象というと12番で行くと宮元町の辺り、ずぅーっとかまぼこ兵舎があったっていうことと。それで、かまぼこ兵舎の払い下げがあったんでしょうかねえ。弘明寺の国大の法学部の前にかまぼこ兵舎が一つだけ残っていたんですよ。そこが図書館になって、私も図書館派です。結構、本を読ませていただきました。えーと、石油ストーブの匂いがすごかったのを覚えております。
あと、戦前ですが、父親の体がちょっと具合悪かったときにキリンビールの方の人が何か、市電を使い、今じゃぁそんなこと出来ないでしょうけれど、市電を使って何か製品を、弘明寺まで持ってきてくれたってことが。で、市の交通局の方、結構お客さんで来てたんで、それでやっていけたことがあったようですね、えぇ。大岡川が氾濫したときもやっぱり市電の12番、弘明寺の終点の方までビヤ樽が転がっていったことがございましたね。そういうことも思い出しました。あと、一番上の姉が結婚して曙町っていうところで、中郵便局の向かいのところでやはり飲食店をやっておりまして、そのとき、お酉さんのお手伝いに行ったことがあるんですよ、酉の日ですね。酉の市ですか。そのときに朝か夜、風呂が何か終夜営業みたいで朝に帰ったんですよ。そのとき切符が何か安かったような、安い値段で乗れたような覚えがちょっと残ってるんですけど、それがちょっと記憶が確かじゃないんですけど。以上です。
○男性:私、団塊の世代で戦前のことは知らないんですけれども、昭和30年頃、丁度野毛から山元町に行くのが市電3番が通ってまして、この市電は山坂が多いので、運転席の横に必ず砂袋ってのが置いてあって、で、雪なんか降ったときに坂、登れないんですね、滑っちゃって。で、その車掌が砂袋から砂を出して市電の前に撒きながら登っていくと。そういうことを、ほかの電車はよく知らないんですけれど、3番の電車は、よく。山元町のところ、もう、すごい坂ですからね。
あとねぇ、すごく、我々団塊の世代の男の子は多分、こういういたずらをほとんどの人間がしてたんじゃないかなぁと、悪ガキの頃なんですけども。市電のね、線路の上にね、釘を置くんですよ。 (会場から笑い) これ、多分ね、ほとんどの人がやってたんじゃないかと思うんですよね。釘を置いてね、路地に隠れているんですよね。市電が、そのね、ガタァンと通るとね、釘がぺっちゃんこになってね、それをこう、弓矢の先に使うんですよね。それがね、変に置くと曲がっちゃうんですよ。まっすぐ置かないと曲がっちゃうんです。だんだんだんだんエスカレートしてね、あの、石とか置いたりするんですよね。 (会場から笑い) そうすんとね、それ、発見されて電車が止まっちゃうんですよね。そうすんとね、急いで逃げてね。(会場から笑い) 多分、団塊の世代の男の、ガキ、悪ガキ、多分同じような経験、してたんじゃないかなって気がします。
○森:やりましたやりました。(笑) (会場から笑い) あの釘が磁石になるんですよね。それであの、砂鉄を集めたりとかね、みんなやりました。それからあの、癇癪玉を撒いて、車が通るとパパパァーンとかね。そんなことばっかりやってましたね。(笑)
○司会:悪ガキトークがありましたが、皆さん、うなずいている方もお見受けしたので、たくさんの方がもしかしてやられたのかも知れないですねぇ。ほかに何かお話しになりたいという方、いらっしゃいますか。では、真ん中の方から先にお願いします。
○男性:地下鉄の話になるんですけれども、えー、昭和47年に上大岡と伊勢佐木長者町間で営業を開始したわけなんですけれども、現在では例えば上永谷には地上の基地があります。この最初、開業した当時の上大岡と伊勢佐木長者町の間には地上の基地はありません。で、じゃあこの、漫才みたいな話ですけれども、その車両はどこから入れたんだ。 (会場から笑い) これ、ちょっと疑問で私、ちょっと調べたんで知ってるんですけれど、それは内緒にしといて、どうやって車両を入れたか御存知の方、いらっしゃいますでしょうか。
○司会:どうでしょうか、御存知の方、手を挙げていただけますか。あっ、お一人。
○男性:あれ、どこから入れてるかということですか。
○男性:そうです。
○男性:あれ、上永谷じゃないですか。
○男性:いえ、上永谷までは地下鉄の駅は行ってません。上大岡までまでしか。
○男性:上大岡までのときですね。それは知りません。
○男性:その前のことをいただきたいと。
○小林:私の記憶では確か弘明寺の辺だったと思うんですけど。地上から入れたと。
○男性:実はその、蒔田の駅の西に杉山神社ってのがございます。そこの歩道に、その時にここから入れたんだっていう記録が書かれております。何でもそこのところを上から掘りまして、で、車両をトラックで積んできて、あそこから吊るして車両を。もう線路が敷いてありますから、そこへ乗せて、それで蓋をしちゃったと。で、当時4両だかを入れて、それで行ったり来たりしてるのが、これが最初だったそうです。丁度私もいろいろな方に聞くんですけども、知らない方が多かったんで、誰か知っていらっしゃる方、いるかなぁと思って、ちょっとお話しました。
○司会:ありがとうございます。地下鉄が始まったときの秘話でしたでしょうか。では、一番前の方、お願いします。
○男性:先ほどから戴冠式のお話が出ていましたけれど、船の名前はプレジデント・ウィルソンかプレジデント・クリーブランドだったと思いますんで、その頃はもう、船が盛んな時期でした。で、よく港に見に行った記憶がございます。それとあと、市電の件ですけど、えーと、小学校の低学年のときに遠足、春の遠足がありまして、その帰りに丁度、桜木町の前に止まって、通ったときに桜木町事件の黒焦げの国電を見た記憶があります。小学校低学年でしたね。それから後は、まぁ、先ほど釘の話も出ましたけど、まぁ、それ、私が言う前に言われて(笑)、そんな記憶がございます。まぁ、勿論その辺り、例えば10円玉とか1円玉なんてやった記憶もあると思うんですけど、まぁ、そんな遊びが、遊びっていうか、まぁ、悪さがありました。
それから、まぁ、今、市電が全くなくなってしまいましたけど、何とかやっぱり横浜に一路線くらい観光用の、よく、まぁ、富山とか、あぁいうところで非常に盛んに動いているような一路線、あったらいいなと。今、私なんか思ってるのは今まで走っていたところの例えば3番系統、あぁ、3番かな。あの山元町へ行く電車、あれ、3番でしたっけ。そうですね、あの路線なんかは坂もあって、山手の丘の方に経由して歩いて行けるような、あれがありますんで、非常にこれを期待しているところです。
○森:今お話しにあった釘の方もやりました。それで、やんちゃな奴は京浜急行でやったのがいまして、あれだとすごくぺっちゃんこになるんですね。車両の数でしょうか。ただ、飛ばされちゃうんですね。で、それを探すのが大変で、探しているうちに次の京浜急行が来ちゃうんで、非常に危険なことをやっておりました。(会場から笑い) 今、京浜急行の関係者の方まさか、いないといいんですが。(会場から大笑い) えーと、市電はガキ大将が指図していて、曲がり角でやると脱線するかも知れないのでやめろというような指示が出ていました。本当に脱線するかどうかはわかんないんですけど。それを細い笹にひもで結わいて弓矢にして。お金のある子はピストル持ってるんで、西部劇やって、お金のない貧乏人の子はその弓矢でアパッチの方をやりまして、それで、暗黙のうちに顔から上は狙うなっていうことになってんですがね、うっかりすると飛んできて刺さるんですよね。それで太ももに刺さった友達のを僕が引っこ抜いたんですけど、笹の方だけ抜けちゃって、釘が深く刺さって、これが取れなくて、えらいことになったことがある。
それから、この路線図で左上の方の横浜国大がございます、「文」って書いてあるところですね。あそこの下の前里町四丁目の、そばに住んでおりましたから、割にどこでも行けるんで、先ほどの乗り継ぎでもって杉田の辺まで行きまして、春先ですね、潮干狩りでバケツ持って乗って行って、あそこは漁業権がありますんで、バケツに1杯獲っちゃうと30円ぐらい取られちゃうんですけど、子どもですとお目こぼしがあって、楽しいからいっぱい獲るんですが、上がるときにまた撒いてきて、バケツに三分の一ぐらいにしてですね、監視のおじさん、いい人を知ってますから、そこの人だとお金取らないんですね、子どもは。それで往復、先ほど13円という値段があったんですが、確かこのくらい。子ども料金だったんでしょうか。それから往復乗車券を買うと確か1円安くなった記憶があって、それで杉田から前里町四丁目まで帰って来ました。
もうちょっとエピソード言いますと、あそこ直角に曲がっていますけれども、すごい急カーブでして、あそこは天皇陛下が葉山の御用邸に行かれる時に必ずあそこを通るんですね。それを子どもの情報で何で知ったのかはわかんないんですけど、毎年あそこで捕虫網(ほちゅうあみ)を持った少年達、半ズボンの私達が天皇陛下の来るのを待ってた記憶があります。天皇陛下の乗った車も90度曲がりますので、あそこでスローダウンするんですね。そのときに天皇陛下は毎年、子ども達がそこで迎えているのを知っていまして、窓が開きましてね、縁なしのメガネがきらっと光って、まぁ、戦後生まれなんですが、恐れ多いというあれはなんですが、何か直立不動になりまして、天皇陛下は確かほほえんだ。昭和天皇ですね、ほほえんだ記憶が前里町四丁目にはあります。
それからこれ、昭和35年の路線図で全盛期だと思うんで、一番多かった頃のじゃないかと思うんですが、これ見て認識したのは「私の横浜」ってこの範囲だったんだなぁという。で、市電には、お小遣い10円あるかないかの頃ですから、なかなか乗れなくて、このエリアをほとんど歩いていたような記憶があります。よほどお金がないと子どもは乗らなかったですね。潮干狩りはさすがに遠いですからね、乗ったと思いますけども、以上でございます。
○司会:ありがとうございます。市電の写真をたくさんいただいていますので、少し皆さんにもご覧いただければと思います。(市民の皆様からの提供写真27~29、39、65~81映写)
○森:それから、このことがあるからじゃなくて一昨日、実は滝頭の市電保存館に行ってきましたら、懐かしい市電が並んでおりましたけど、私の頃はブザーではなくて車掌が紐を引っ張って「チンチン」って、あの、運転手に鳴らせて知らせてましたね、発車のね。あれがないんでがっかりして、全部ブザーになってましたんで、えーと、投書でもしてやろう、1台そういうのを作れと。 (会場から笑い) いわゆるチンチン電車の語源になった、その設備がなくて、全部ブザーでした。それからワンマンになってましてね、非常に残念に思いました。
○司会:ありがとうございました。では、写真をどうぞご覧ください。(市民の皆様からの提供写真72~74映写)根岸湾が奥に見えるようですね。こちらは下ぎりぎりに市電が見えますが、奥が磯子駅だそうです。(写真79~81映写)右上に見えてる車両が根岸線の車両で、市電は真ん中の木の陰に見えるものですね。こちらは芦名橋で折り返している様子が写真に撮られているものです。これは待機中です。
○小林:この頃のパンタグラフはですね、受電装置、屋根に付いてますね、パンタグラフ、ああいう具合になってますけれども、その昔は一本の棒だけだったんですね。それで先の方に車が付いてまして、それで受電をしてたんですね。よく交差点で曲がるときにですね、それが外れちゃうんですね。そうしますと車掌さんが、後ろの窓を開けて乗り出してですね、それをこう直すんですが、なかなかそれが決まらないときがあるんですね。そうすると乗ってる人からバカとか早くやれなんていうような声が飛び交うんですけど(笑)、それが面白かったですね。そんな記憶があります。
○司会:車がたくさん横に。先ほどカウントされたという方もいらっしゃいましたが。
○小林:先ほどのお客様の中からお話がありました柱のようなものが一本立って、その上にお家があってですね、その中で見張ってるというようなお話がありましたが、あれは、右へ行ったり左へ行ったりするときのレールの切替をあの中でやってたんですね。で、私も一回、あの中を見せていただいたことがございまして、えー、そうですね、1メートル20センチぐらいのポールにガチャっと。ガチャンと引っ張るんですね。そうしますと機械式にですね。ですからあそこは年中油をぬってたと思うんですね。で、冬なんかですとちょっと温めてたと、そんなような記憶があります。
○司会:(市民の皆様からの提供写真69映写)今、映っているのが杉田線の廃止をお知らせする看板ですね。昭和42年の7月に撮られてます。(写真39映写)えーと、これが昭和47年で、もう廃止される年の市電ですね。桜木町の駅前で撮られている写真です。このような市電の写真が皆様からたくさん寄せられました。どうもありがとうございます。

●横浜スタジアム
○司会:市電のお話で大変盛り上がりまして、そろそろ4時になりました。昭和53年に横浜スタジアムが完成いたしましたので、そのお話を少しさせていただきたいと思います。横浜スタジアム、今、出ている写真がゲーリックスタジアムの写真ですね。今、出ているのが今のスタジアムです。では、横浜スタジアムについて寄せられたエピソードを少し御紹介します。
「現在の横浜スタジアムは、戦後はゲーリックスタジアムという名前で、夜になるとアメフトの試合をやっていた。終わり近くになると無料で入れる席があったため、近所の子ども達で席に残った食べ残しの缶詰のピーナッツを集めたりした。」
ほかにも、「横浜スタジアムは前は平和球場って呼んでたけど、球場下には卓球とか遊べる施設があった。区役所もまだなかったから、あの辺り一面、広場でね。5月のみなと祭りにはバザーをやっていた。見世物屋も来ていて、お化け屋敷や食べものの露店、ヨーヨーや鉛筆つかみもあって、とても楽しみにしていた。」というようなエピソードが寄せられています。
皆様の中で平和球場の時代ですとか、何か思い出のあられる方、いらっしゃいますか。では、真ん中の辺りの方、お願いします。
○男性:今の横浜スタジアムの前のゲーリック球場で、これはプロ野球ではジャイアンツが大変、横浜では人気があって、最終戦でですね、川上がホームランを打ちまして、青田とともに25本の、同時にホームラン王というのをゲーリック球場では記憶してます。それから、今の横浜スタジアムでは細郷さんが横浜市長で、丁度あの頃、市民球団ってことで株をだいぶ上げたと思うんですがね。そういう中で細郷さんが始球式をしたんですが、あの方はスポーツマンですがね、東大でヨット部、ヨット部というか船の関係でですね、ボートの選手だったようですが、それで始球式をしたところが、自分の真ん前に投げて、キャッチャーまで全然球が行かなかったという記憶が。以上でございます。
○男性:昭和24年の話になるんですけども、ここに出ている横浜球場はゲーリック球場といっておりましたが、その横浜公園の中にはこれのお隣に野外音楽堂ってのがありました。で、昭和24年に米軍からの食糧の援助があったので、その感謝大会が神奈川県の主催で行われたんですが、たまたま私、そこに行く機会があったときにですね、アトラクションとして何かあるということで期待してたんですけども、実はその、ちっちゃな女の子が白いドレス着てパタパタっと出てきまして、「東京ブギウギ~」って唄い出したんですね。これが美空ひばりだったんです。で、その後すぐ、野毛の国際劇場ってのがありましたね。そこの舞台に出て、それですぐに今度は浅草の国際劇場っていうように。だけど一番最初の美空ひばりを見たところになるのかと。
○男性:川上がホームランを打ったっていうお話をしたんですが、この写真を見ますとね、夜間照明の塔がないんですよ。確かね、ナイター設備がこの後に出来たのかも知れないんですけれども、おそらくナイターは横浜球場がプロ野球で最初じゃないかと思うんですけど、はっきりした確信はありませんけれども、そんな感じをもっておりますけども。
○小林:では、私から。戦時中の話に戻ってちょっと申しわけございません。私の記憶では、あそこは捕虜収容所になってまして、今のグラウンドは畑になってた記憶がございます。私はそれを見させていただいたことを記憶しております。そんなことをご記憶の方はおられますでしょうか。それともうひとつ、新しい今の球場を作るときでございますけれども、市民から株主を募集したんですね。で、一口250万円ってことで800口を皆さんからお金を集めまして、で、それでこれを作って、建物そのものは横浜市に寄附をしましたので、スタジアム、横浜スタジアム株式会社が現在所有をしておりません。横浜市の所有になっております。で、土地は国有地でございます。
○藤澤:スタジアムの公園の中に昔はフライヤージムっていうかまぼこ型の大きな体育館があって、あそこで室内競技のですね、県大会とか市の大会とかをやってましたね。それから、今の噴水辺りに大きな教会堂がありましてね、チャペルセンターって。主に米軍の関係の方々の礼拝だとか、それから結婚式だとかをやってました。で、特に宗派を決めないで誰でも使える。それから日本人の人でもあそこで結婚式を挙げることが出来たんですね。私の友人もあそこで挙げまして。わずか50人ぐらいしかいなかったのに、広ーい教会堂で、えらく何かこう、間の悪い結婚式だなぁなんて、そんなことを覚えてますね。
○大久保:あのぉ、私もその公園のそばの教会に、たまたま子どもの頃ですがクリスマスの日の前に行ったことがありまして、米軍の方がきれいに着飾って教会に入るのを、何か映画のワンシーンのように覚えております。
○男性:あの、今のフライヤージムのお話が出たんですけど、あそこに体育館が映ってますよね。あれってフライヤージムじゃないですよ。あのねぇ、フライヤージムは今の弘集堂っていう本屋さんがありますよね、伊勢佐木町に、オデオンのそばに。あそこにあったんですよ。あそこにあって、私が何故記憶しているかというと、初めてオーケストラの一団、日本人の森正(もりただし)さんがあそこで指揮をして、あそこで何か音楽会があったんですね。で、中学生のときだったと思うんですけど、みんなその、珍しいからっていうんで行ったことがあって。あそこから多分、そっちへ移ったんだろうと思うんですね。だから初めは、私が行ったのは伊勢佐木町にあったのと、それとどう違うのかなというのが疑問だったんですね。それであの、調べてみたら昔の地図にフライヤージムの位置が今の、弘集堂さんていう本屋さんは昔からありますよね。丁度あの弘集堂さんはね、逆の方にあったんですよね、前は。で、あの辺りにフライヤージムってのがあって、そこの道路に面していて、そこで音楽会をやって、で、森正が来て、確かあのときにみんなで聴きに行って、で、やった曲もラデッキー行進曲と、それから何か幾つかですね、有名な曲をやって、初めてオーケストラって聴いたのを覚えているので、それで今、おっしゃったのは私もそこだとばっかり思ってたんですよ、あの平和球場の横のところかなと。
○藤澤:私は昭和35、6年の頃はあそこはフライヤージムって、僕ら言ってたんですけどね、違ったか。
○男性:あぁ、いや、そうじゃないの。私のはね、もうちょっと前です。私はね、昭和27年ぐらいですから、あの、言われてるとおりに移転している可能性があります。どうもすいませんでした。

●地名の話あれこれ
○男性:ちょっとパネラーの方にお聞きしたいんですけど、大したことじゃないんですけど、あのぉ、今、大桟橋(おおさんばし)って言ってますね。あれ、僕なんか子どもの頃は大桟橋(だいさんばし)って言ったんですよね。で、ローマ字ではずっと<OSANBASHI・オサンバシ>って書いてあって。というのはこの間ですね、外国の人からね、「おさんばし、これでいいのか」って聞かれたわけなんですよ。最初僕はオサンバシって何かなぁと思ったら、要するに大桟橋(おおさんばし)のことなんですよね。<おおさんばし>ってのは僕なんかは<だいさんばし>なんですよ。これ、どうなんですかねぇ。まぁ、どうってことない話かも知れないですけど。で、僕なんか、桟橋には月に何回も船を見に行きましてね。で、そのときは何も<おおさんばし>だとか<だいさんばし>なんて関係なかったんですけど、最近あれ見てみるとみんな、<おおさんばし>、<OSANBASHI・オサンバシ>って書いてあるんだよね。だからおかしいなぁと思って、どっちが正しいっていうか、何ていうんですかねぇ。僕なんか<おおさんばし>っていう、それがどうしても頭に入ってますもんで、そこんとこどうなんですかねぇ。大した問題じゃないかも知れませんけど。
○森:あの、よろしいですか。あのぉ、大小みたいな漢字は平仮名ふらないもんですから、その辺でわかんなくなっちゃうケース、あるんじゃないかと思うんです。で、私が子どものときは<おおさんばし>っていう言い方、既にしてまして、大学、東京だったものですから、そこで会った友達が<だいさんばし>って言うもんだから、いや、あれは横浜では<おおさんばし>って言うんだって、直させた記憶があります。それで、そういったものはほかにもたくさんあって、簡単な小学校で出てくる漢字の振り仮名はふらないので、読み方は微妙に変わる可能性ってあるんじゃないかと思います。
○藤澤:そうですね、この間の震災でもそうですね。大津波(おおつなみ)、大津波(だいつなみ)ってあるしね。大震災(だいしんさい)、大震災(おおしんさい)。あの辺もだから大(おお)と大(だい)がどういうふうにあれかって、すごく疑問なんですけどねぇ。私も<おおさんばし>って言ってたんですけどね。学生時代、丁度ね、1970年ちょっと前でしたかね、65、6年だったか、あそこにね、<おおさんばし>に行く手前にジャパンエクスプレスって会社がありましてね。そこでアルバイトやったことあるんですよ。で、当時、桟橋にナホトカから、ロシアですかね、客船が着きましてね。その客船の中からバゲッジをですね、こう、上に上げていく、そんな仕事をですね。それからトラックの上乗りだとか。今の赤レンガ倉庫が当時まだ稼働してましてね、赤レンガ倉庫の中ででっかい、何かほこりだらけの袋を担いであちこち動かしたりとか。それから、もっとすごいのは沖にある船から船への荷物の上げ下ろしですね。私はやんなかったんですけど私の弟がアルバイトに行ったときに、丁度たまたまこの仕事に回されて、それで生の牛の皮をですね、かぶらされて、それであの、もう下、40メートルぐらいの海面のところを僅かなこんな、こんなようなところを渡らされて、で、頭からべたべたになって帰って来た、そんなようなことを覚えてますね。1970年ちょっと前ですから40年ちょっと前ですかね、そんなようなアルバイト、港の周りでね、学生達が随分やってたなってなことを、あの周辺のことをふと思い出します。
○森:ここに参加させていただく上で私はちょっとお聞きしたいことがひとつだけありまして、それは町名なんですが、金の港、金港町(きんこうちょう)ですね。これ、現在のそごうの辺りが金港町なんですが、これは小学校のときですから昭和30年代前半ですが、小学校の先生から、金港っていうのは、国にとっての主力の第一港のことを、表玄関のことをゴールデンポートという。で、ゴールデンポートの直訳が金港であるという、そういうふうに聞いた記憶がありまして、これは子どもながらに横浜は金港なんだと誇りに思ったもんで、えー、50年も経っても記憶しているわけなんですが、この金港って言葉がほとんど死語になっています。
それで金港タクシーとか金港スポーツとかあるんですね。それで金港タクシーの運転手さんに聞くと、多分本社が金港町にあったからじゃないかっていうような話しか出てきません。それから横浜市の、こちらプロがいらっしゃいますけど、本の中にね、横浜市の町名の辞典のような本があるんですね。それで私も金港町を見たんですが、錦の港であるから、それが金港になったっていう記述しかないんですよ。で、小学校の先生、もうお亡くなりになっちゃってますから、これ、どうなったのかって、で、辞書を調べますとゴールデンポートそのものが辞書に載ってないんですね、新しい辞書には。その辺の調査の仕方は私、学問に弱いんで出来ないんですが、どなたかその辺、お調べいただけるとありがたいなと、御教授願えたらと思っているんです。で、これは横浜税関の前を通りかかったときに、そこの課長さんにお会いして、たまたまお会いしたその人はちょっと知っているんですよね。
で、そういうことで六つ港を開いて、神戸、新潟、函(箱)館とか開港時に開いたときにくじ引で決めたんだそうで、長崎が元々、開港前の江戸時代から長崎が国際港であったので、長崎を第一の港とすべきであるというようなことだったらしいのですが、くじ引で横浜が第一港を射止めたと。つまり横浜が日本の表玄関になったということですね。で、これが今はエアポートの時代。飛行場が港になったわけで、エアポートですね。それでいくと第一港は成田なのかどこなのかって言う、そういういろんな疑問がわいてくるんです。これ、先ほどの、私も<だいさんばし>って子どもの頃に言ってた記憶もあるんですね。それ、非常に曖昧な部分でして、こういうような庶民の集いって言いますと失礼な言い方になっちゃうのかも知れませんけれども、市民史ですね、要するに民衆史。これは非常に、文献に残りにくい部分が結構話されるわけですね。ですからそういったことにおいてちょっと私が横浜市の町名で気になっているのは金港町という町名が何だったのかということですね。それから、それに対して、では銀港町というのがあるのではないかと思いまして、神戸市役所に電話で問い合わせたんですが、神戸市内には銀港町という町名はないそうです。この辺もまさか小学校の先生がでたらめ言ったとも思えないんですが、どこにも載ってないんです、正直言いまして。ですから、この場でちょっと投げかけるというと大げさなんですが、ささやかな話なんですがね、実はね。ただ、その<おおさんばし>、<だいさんばし>ひとつにとってもですね、本を読んでも平仮名はふる必要のないような簡単な用語については時代とともに変わっていく。平気で変わっていっちゃってどれが正しかったのかわからない。ただ、それで生命、関係ないんですけれどね、ただ、そういう意味でこういう会っていうのは私は必要だと思っておりましたんで、長くなりましたが最後に発言させていただきました。どうも。
○男性:年配の方に聞きたいんですけども、私も年配なんですけど。昔の地図を見ますと今の桟橋ですけど、南埠頭って表示があるんですよね。で、中央埠頭ってのが今はもうなくなりましたけど、昔、引き込み線がありまして、中に税関みたいなのがあって、あそこに直接、東京から来た人が入って、アメリカ航路だったと思うんですね。で、メリケン波止場っていうのも昔、言葉があったんですよね。だから私なんかは昔の地図を見ると、あれ、南埠頭。中央埠頭ってのは既になくなりましたけれど、私は写真、撮っておきましたけど、引き込み線があって、中にステンドグラスなんかがあって、で、結構立派なのが残ってたんですね。
だから<おおさんばし>っていう、私も<だいさんばし>ってあまり聞いたことないんで<おおさんばし>っていう言葉だったんですね。で、今もおっしゃったように確かにオーラルヒストリーっていうかね、結構大切なんですね。で、これ、ちょっと変な話なんですけど小林さんに質問なんですけどね。こう、ものの、地名の呼び方ってありますよね。で、例えば関内(1=<かん>強調読み)とは言わないはずなんですよね。私ね、関内(2=<かんない>平坦読み)って言ったはずなんですよね、昔の人は。小林さんなんかは関内(2)だと思うんですよ。それからね、呼んでるときにおかしいのはですね、綱島(2)<つなしま>=平坦読み)って言ってんですよ。あの、東横線は。あれ、綱島(1=<つな>強調読み)なんですよね。だから昔から住んでいる人はね、そんなのどうだっていいっていやぁいいんですけどね。やっぱりそういうところから変わっていくのかなと思うんですけれども、だけど私は関内(2)はね、ものすごくね、拘っていてね、うちじゃあ昔から、明治時代から横浜の人間ですからね。小さいときから関内(2)、関内(2)って言われてたのに、いつからか関内(1)、関内(1)って言ってるから、うちの息子も私に、いやぁ、あれはおかしいって言うんですけどね。まぁ、それはいいんですけども、そういうのを正せとはいわないけど、変わってってもいいんだろうけど、結構知らないうちにですね、まぁ、横浜はいろんなところの人が来るから、そうなっちゃうんでしょうけども、小林さんなんかはいろんな立場があるでしょうから、そういうようなところをもう一回整理していただいて、あぁ、本当はこう読むんだよっていうのをですね、言っていただきたいと思います。どうもすいません。
○小林:大変難しいことなんですけど、私は関内(2)ということをですね、<かん>にあまり力を入れないで関内といっておりますけれども、若い人達は関内(1)って言う、いつ頃からで
しょうかねぇ。そう言われるようになりましたね、えぇ。関内(1)って<かん>の方に力を入れるんですね。どうでしょうか、これは。やはり大事な提言ですね。
○司会:ありがとうございます。
○森:えーと、関内(2)っていうふうに聞いてた記憶があるんですね。関内(1)と関外(3=<かん>強調読み)じゃないですか。外と内で。関内(2)ですよね。
○男性:祖父があの辺で仕事をやってたんで多分、間違いないんじゃないかと思うんですけどね。今、おっしゃっるように。
○藤澤:関外(4=<かん>強調読み)だと変ですよね、明らかに。対になっている言葉だから関内(2)の方が正しいのではないかと。気がしますけど。昔はあの辺を関内(2)牧場って言ってたんですよね。関内(1)牧場じゃないですよね。
○男性:私は後から横浜に来た人間なんで、並みいるネイティブ横浜っ子にはあれなんですけども、えーと、駅の名前の呼び方に対しては多分、普通の人が関内(1)って言ってて、普通の人というか、これくらいの年代の人は関内(1)っていう人のが多いんだと思うんですけど、我々よりもずっと若い人は日本語の全体の発音の平板化の中で関内(2)っていう言い方をしてると、逆になってると思うんですよ。
それで、JRの車内放送というか駅に付いてるホームの放送なんですけど、あれ、気がついたんですけど二つ言ってるんですよね。最初、関内(1)って言って次、関内(2)って言ってるんです。で、桜木町も。いや、二回言ってるんですよ。で、桜木町も桜木町(1=<さくら>強調読み)って言って、次に桜木町(2=<ぎちょう>平坦読み)って、違う発音で別々、二回言ってます。私はだから最初のが年寄り向け、我々向けで、 (会場から笑い) 二回目のがもっとかなり若い人、30代くらい以下の、えぇ、もう変わろうとしているのが二回目に言ってます。だから渋谷もそうですね。渋谷(2=<しぶや>平坦読み)、渋谷(1=<しぶ>強調読み)とか何とか。あの、皆さんそういうふうに気をつけて言ってると。あの、年寄り発音と若い発音と両方言ってますんで。 (会場から笑い)
全然ちょっと関係ないんですけど、それで私、新参の横浜なんで、ちょっとあの、せっかくなんで教えてほしかったんですけど、市電の話にちょっと戻って申しわけないんですけど、桜木町と高島町の間の雪見橋の辺りに、多分市電のせいだと思うんですけど道が斜めに走っているところがあって、で、さっき高島町の交差点がすごいことになってたっていう話があったんですけど、何で高島町で回らないで、あそこの斜めの道があるのかっていうのがずっと疑問だったんですけど、どなたか御存知の方がいたら教えていただきたいと。
○司会:どなたか。いらっしゃいますか。では、お願いします。
○男性:あの、市電に関係ないと思うんです。あれ、斜めにある道はですね、えーと、岩亀楼(がんきろう)とかっていうのがあったところで、あれは、あそこは川でしたから。今、道路になっているところは。川ですから市電が通るわけはないと思うんで、川の上を走ることはないんで、橋があっただけですから多分、それはないと思いますね。
○小林:あの、これは私の記憶ですけど、確か岩亀横丁(がんきよこちょう)からですね、あそこに横浜ドックの入口があったんですね。それに合わせたと私は思うんです。そのためにちょっと斜めになってたと思いますけども。いかがでしょうか。それから先ほどの駅名なんですけれども、隣のお婆さんがですね、次の駅はどこですかと言ったら「きくな(菊名)」って言ったってんで。(会場から笑い)これ、落語の世界で菊名(聞くな)、でございます。
○司会:面白い笑い話がありました。では、そろそろもうお時間が4時半になろうとしておりますので、ここら辺で今回のパネルディスカッションを終わろうと思います。昭和53年の横浜スタジアムの完成までのお話がありまして、そのあと、まぁ、横浜接収が解除されたりとか、みなとみらいの開発があったり、いろいろなことが起こり今に至るわけです。
前回のパネルディスカッションと今回のパネルディスカッションで90年前からの横浜の様子、皆さんの暮らしの様子を、本に載ってない情報までいろいろお聞きできたのはとてもよかったなと思いますし、皆様にこうやって積極的に御参加いただいて、とても嬉しかったです。今回、90周年事業ということでこのような機会を設けましたが、また皆さんでこのようにお話しできる機会があれば御参加いただければと思います。
では、本日はこれで終了したいと思います。どうもありがとうございました。
(会場から拍手)

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