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平山煙火カタログ

最終更新日 2019年4月5日

平山煙火製造所は、三河出身の平山甚太と豊前中津出身の岩田茂穂が明治 10(1877)年に、横浜に共同で設立した花火会社です。
国内だけでなく海外からも花火の注文を受けていたようで、海外で販売するために作成された輸出用のカタログが残されています。
平成23(2011)年7月31日(日曜日)には中央図書館地下1階ホールにて、特許庁の櫻井孝氏を講師にお招きして講演会を開催しました。
デジタルアーカイブでは、平山煙火製造所が発行した煙火カタログ6点と昼花火の使用説明図1点のほか、横井煙火発行の煙火カタログ1点をご覧いただけます。

デジタルアーカイブ都市横浜の記憶 URL: https://www.lib.city.yokohama.lg.jp/Archive/(外部サイト)

1 日本人で初めて外国特許を取得した人物は誰だ?

日本で特許制度がスタートしたのは明治18(1885)年、専売特許条例が施行され、専売特許所が設置されたことによります。その後明治32(1899)年にはパリ条約に加入し、国際的な特許保護の枠組みに参加します。このパリ条約発効以降、米国に特許出願された日本人の発明で、一番早く特許になったものは、宮原二郎の出願した「水管式ボイラ」です。
さて、ここで問題となるのは、宮原以前に、まだ日本が国際的な特許保護の枠組みに入る前、さらには日本に特許制度さえない時代に、米国に特許出願した人物はいるのか、ということです。米国特許商標庁に情報提供を依頼したところ、なんと明治16(1883)年に特許取得した日本人がいたのでした。それが平山甚太であり、発明の名称が「昼花火」です。

2 平山甚太って誰?

明治16(1883)年に日本人で初めて米国の特許を取得した人物である平山甚太は、天保11(1840)年1月13日に豊橋で生まれました。三河吉田藩の勘定方を勤めていましたが、早くから横浜に出て各種の商売を手がけます。明治10(1877)年頃には高島町に平山煙火製造所を設立し、その後16(1883)年に米国特許を取得します。明治23(1890)年には郷里豊橋へ移転し、同地において明治33(1900)年に60歳で逝去しました。
米国特許を取得する前、明治10(1877)年に、英国に特許出願しようとしたことが、『工業所有権制度100年史(上巻)』(S59.3)に書かれています。

3 どんな発明で特許をとったのか?

さて、甚太の発明とはどんなものだったのでしょうか?
米国特許商標庁の記録によると、発明の名称は“Daylight Fire-works”。「昼花火」です。その名の通り、夜ではなく昼に上げる花火で、爆発すると人形などの作りものが飛び出す仕組みでした。和紙などでつくられた意匠物が詰められた外皮に火薬とヒューズが取り付けられ、点火すると外皮が空中に放出され、その中身も放出されるようになっていました。

4 昼花火ってどんなもの?

さらに昼花火について見ていきましょう。
平山煙火製造所は、輸出用に花火カタログを発行しています。中央図書館では6種7点のカタログを所蔵しており、紙などの素材でつくられた「昼花火」の中身がどのようなものであったかを色鮮やかな図版からうかがい知ることができます。
タイトルをクリックすると、デジタルアーカイブ上のカタログ本文がご覧いただけます。

5 特許取得までの道のり

日本に特許制度さえない時代に、甚太はどのようにしてアメリカの特許取得のための手続きを行ったのでしょうか。
書類のやりとりは米国の代理人を通して行っていますが、出願にあたって必要な宣誓書は明治15(1882)年12月に米国神奈川領事館を訪れ、ライス副総領事の署名をもらっています。明治16(1883)年3月、特許出願を行いますが、これは書類の不備などにより拒絶されます。再度書類を作成して6月に2度目の提出を行い、晴れて特許登録されたのが8月でした。

6 明治のグローバル戦略

日本がパリ条約に加入するより前に、日本人が日本から出願して米国で取得した特許は平山甚太のも含めてたったの3件でした。まだまだその当時の日本人の目線は海外で特許をとって商売に結びつけるところまでいっていなかったのでしょう。
こうしたなかで、平山のとった海外事業戦略の素早さは、日本におけるグローバルビジネスのパイオニアとして浮かび上がってきます。

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電話:045-262-7336

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