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インタビュー6

最終更新日 2019年1月16日

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(このインタビューは2005~2007年に実施したものです。)

鈴木さん近景

勝田町

鈴木進さん

昭和13年生まれ
昭和20年横浜市立中川小学校
昭和26年横浜市立中川中学校
昭和29年中川組合学校
昭和59年横浜荏田東郵便局開局
現勝田町内会長


ニュータウンの先駆者は、今、
ふたたびタケノコづくりに燃える

今回は、都筑区の真ん中近くにありながら、静かな山あいの里を思わせる、鈴木さんのお宅でお話をお聞きしました。ニュータウンで初めて開設した郵便局。その局長の席を譲っての悠々自適の生活と思いきや、町内会長としても実に多岐にわたるお仕事に携わってのお忙しいなか、有意義なお話をうかがえました。

ニュータウン地区の目と鼻の先でハクビシンが庭の柿の木に!!

──広いおうちですね。すごく静かで豊かな感じをうけます。

都筑区ができる前の緑、港北区の頃でも宅地で500坪というのは大きいほうでしたね。昔はこの前に蔵が並んでいたんです。後に取り壊したわけですが。

ここは、勝田といってもニュータウン地区と接しています。裏の山の中腹(茅ケ崎町)までは宅地化されて今どんどん家が建っている状態だけれど、こちら側の市街化調整区域はすこしは昔の風情が残っているかもしれないですね。つい、一週間ほど前の夕暮れ時に、孫たちが庭の柿の木に3匹ものハクビシンが来ていたのを見つけました。親子か兄弟かわからないけれど白い鼻面と目だけが光った写真が残ってます。

今では中川商店会とついた街灯や、交番に名残があるだけになっているけれど、昔は、このあたり、茅ケ崎新道と中原街道に沿ってがいわば「銀座通り」みたいなものだった。武蔵小杉からのバスもこのすぐ下まで来てました。そうはいっても周りはほとんどが農家、水田と畑の風景です。昔はあめ玉ひとつ買いに行くにも綱島まで4キロの道を歩いていくみたいなところでした。

想像できる?大水の後の「ヘビの垣根」

──早渕川についての思い出のようなものは

昭和30年代の初めでしょうか、狩野川台風や伊勢湾台風の時には大水が出て、川沿いの水田も全部水没した覚えがあります。上流の東急の開発が進んで、雨水の行き場がなくなって川に一気に流れ込んで増水することが頻繁になった。

普段はきれいな水のせせらぎなんだけれどいったん大雨になると一気にあふれる、へその上まで水が出ることがしょっちゅうでした。もうこれは人災ですね。とにかく早いんだ。荏田で水が出てジープでこっちに戻るより先に鉄砲水が来る。そのころは消防団でしたから、夜半に川沿いの家を救助にも行くわけで、そんな時には電柱から電柱にロープを渡しておいてそれを伝って救助に行く。

──流されないようにですか?

そう、真っ暗ななかで道を踏み外せば、田んぼの堀ですから。下水も何もかもみんなあふれるから、汚い話、水の出たあとは着るものに染み付いた臭いが抜けるまでが大変なんだ。勝田では今でも水の出るのを心配する人は多いですよ。

一番びっくりしたのは大水の引いたあと。川の近くのお宅の竹垣に、流されてきたヘビが絡まってまるでヘビの垣根が毎回できるんだ(!)気持ち悪いくらい。マムシは水の中にもぐっちゃうから他のアオダイショウとかヤマカガシとかのあらゆるヘビね。こんなにヘビがいるのかってくらい。大水の後の風景の一つかな。

──マムシもいたんですか?

うちの田んぼが勝田小の向こうの蛇山(じゃやま)、形がヘビのかっこしてたからジャヤマって言ったらしいけれど、の近くにあったんですが、それこそ名のとおりヘビ、マムシがいっぱいいましたよ。マムシはきれいな水のところ田んぼの水の口、用水の最後のところには必ずといっていいくらいいた。

私もよく捕まえたんですが、マムシってのは道具取ってくるからそこで待ってろって言うと半日でも動かない(笑)。二股の「はさん棒」で押えると田んぼのドロに挟まって自由が利かなくなるのを捕まえて吊るしておく。どこの田んぼにもよく干してあったもんです。

商売用にマムシを捕まえにくる人もいましたね。すごいのはキセル一本と南京袋しかもっていないんだ。キセルでマムシの頭を叩くと30センチか40センチ飛び上がるそこを片手でサッとつかむんだって(笑)。神業ですね。

約束守る良い子は水泳ベタ

──川で泳いだり、遊んだりって…

小っさいころは灌漑用にあちこち川を堰き止めてできるいわば天然のプールで泳ぎましたね。この先の「待橋」、当時は「まつはし」ってみんな呼んでたあたりの堰は4、5メートルはあるくらい深かったんだ。橋の欄干から飛び込むんですよ。バーンと潜って5,6メートル先で浮かんでくるっ。

子どもながらに記憶してるのが、潜るのが得意な一人がいてね、飛び込んですごいねよく息が続くねなかなか浮かんでこないねって言ってたら底の杭に頭ぶつけて死んじゃったって。それから水泳禁止になっちゃった。禁止になったんだけれど勝田には昔は(ニュータウンの造成でなくなった)谷戸池とか、権田池とか丸沢の池とかって大きい池が3つあったんでみんな今度はそっちで泳ぐようになった。みんなスッポンポンでね。

水泳禁止なんで先生が見張りにくる。その目を盗んで泳いでた私よりちょっと上の年代はみんな泳ぎがうまかったね。先生の言うことを良く聞いてた私なんかは(笑)まるで泳げない。今でも孫にジィジは1メートルか2メートルくらいしか泳げないって言ってる。

──釣りとかもしましたか

とにかく泳げる、飲めるくらいきれいな水でしたし、ウナギやハヤはごちゃごちゃいた。私もよく釣りに行きました。なかには悪い人がいて薬流したり電気で感電させて浮いたウナギを獲るのもいた。子どもの頃橋から見た記憶があるけれどこーんな長いウナギがのびてるのを見た覚えがあるなぁ。

幻の戦車と子どもたちの戦後

──小学校一年生で終戦を迎えたことになりますか

そうですね。1学期までは戦争中だったから。兄貴たちと学校へ行く途中、勝田橋あたりで空襲警報が鳴るとこれ幸いと急いで家へ帰ってくるようなことだった。夏休みで終戦でしょ、2学期から何年かはもう食糧難。

──疎開してくる子達もいましたか?

いましたね。この辺にも東京から40人位お寺に疎開してた。そんな子達は空襲警報がなると防空壕に逃げてくる。うちの前の山にも板で囲ったった防空壕があった、それは何かっていうと戦車(!!)を入れるためね。小学校だって何だって軍隊でいっぱいでしたから。うちだけじゃなくあちこちに戦車を入れるでかい穴を掘ってあったんだけれど、戦車なんてないんだから子供たちが避難する場所になってた。みんなが騒いでいると親父が敵に聞こえると脅したりしてました。よくけんかしたね疎開の子と地元の子とは。石ぶつけ合って戦争だね。

──戦後の物資が不足してた頃には、ここまで買出しに来る人もいたと聞いたことがあります

どこの家にも決まったお客さんが買出しに来てました。うちには、田園調布から筍とか野菜を買いに来るお宅がありました。そのお宅はなんでも南極の越冬隊員とかでちょっと変わってたのかなぁ、野菜のお礼に肉を持ってきたことがあった。その肉(多分牛肉だろうね)100グラム!を家族8人で分けた覚えがありますよ。肉なんか食べたことなかったから覚えてるのかな。

「沢山の銅か、少しの金か」ニュータウン開発の意義

──勝田町は市街化調整区域ですが、やはり農業を続けていくことを選んだ方が多かったのでしょうか

ニュータウンの計画が始まったのは親父が町内会長だったころです、いわば開発のまとめ役。そのころ趣味にしてた菊を出展して区長賞をもらった時の鉢には「ニュータウン思い切ったよその姿」って句を詠んだ短冊をつけてたくらいですから、意気込みは相当あったと思います。

最初はこのあたりも全部ニュータウン地区にしようということで始まった。しかし、4割を公団が買い上げ、3割5分を道路や公園に減歩ということで2割5分の土地しか手元に残らないことになるというので迷われた人も多かったのでしょう。土地を代々残していきたいという意識は強かったと思います。それには調整区域にしておくほうがいい訳で。親父はそんな時よくいってた「これからは銅(調整区域の土地)をいっぱい持つか、金(市街化区域)を少し持つかどちらがいいのかを考えるべきだ」ってね

みんな必ずしも農業を続けるとは思っていなかったかもしれない。現に今、川沿いも他もいろんな建物が建ってるしね。税金や土地利用や相続といったいろんなことが絡んでくるから、最初の思惑とは違ってきてることもあるでしょうし。これからも、どうして行くのがベストなのかを模索していくことになるのかもしれませんね。

─鈴木さんのお宅では割と先駆者的なところを切り開いてらしたんですね

親父は昭和37,8年頃だったか、家の向かいが山だったんですが農家ですから庭に稲を干すのに日陰になるってんで一般住宅にしてもらおうと─実際には会社が建ったんだけれど─山を切り崩して売ったんですよ。その時、初めてブルドーザーが来たって中川じゅうから黒山の人だかりになるくらい見物に来たことがありました。農協の有線放送でもお知らせされたりしてね。

勝田の川近くに持ってたアパートも浸水を防ぐんでアパート丸ごとジャッキアップ(!!)して土台を1メートル近く補強したり。今やはり沈んできて周りと変わりなくなってきてるが。

昭和59年かニュータウンの造成が始まってくると、私は造園業もやってたのがやることがなくなっちゃった。どうしようかって時に先輩から郵便局を開局しないかとすすめられてはじめたのが横浜荏田東郵便局です。まだセンター南も何もなくて「えだきん」ができたばかりの頃で、給料日になると造成に出稼ぎに来てる人たちが家に送金の手続をしに押し寄せる、ちょっと前までは農業やってたこちらは、なまりを何とか聞き分けて(笑)電信で送る相手の集配局を調べるといった大変な時代でした。結局16,7年局長やってまた農業に戻ったわけです。

この土地の記憶を伝え、風景を残したい

──タケノコ栽培でしょうか

タケっていうのは勝田のメインですから。伯父たちの小僧の頃だって言うから昭和のはじめ頃かな、目黒から竹を分けてもらってきて植えたのがうちのタケノコだそうで。昔から神奈川県のタケノコといえば有名だった。すんごかったですよ盛りの時は築地から豊島から新宿から全部の市場が譲ってくれ譲ってくれって毎日押しかけてきた。

勝田小の校章もタケノコなんです。あの竹の根元のぼつぼつの数は確か開校した時の学級の数にしたんですよ。開校前から付き合ってたので、できた時に竹を何本か記念に植えたのが今、竹やぶみたいになってる。時々呼ばれていってタケノコの話をするんだが、今の子供たちにタケノコはいつ出るのかな、春かな、夏かな、それとも秋かなっと問うと秋にみんな手を上げるんだな。タケノコ堀の実習もあるのにね。ちゃんと教えておいて欲しいね。

──今でも出荷していらっしゃるのですか

うちは竹林の面積が広くって時期になると2日おきに300キロ出荷してます。あまり儲からないが、掘らないといいタケノコは出なくなるのでやはり採ってる。

──山の斜面で手入れしないで雑木林に侵食しているようなところも見受けられますね。貴重な緑でもあるので何とか手入れしながらの維持を呼びかけたいと思うのですが

例えばボランティアのグループみたいな人が伐採して出た木や竹を片付けてもって行ってくれるようなシステムがあったらほったらかしにしてあるお宅も重宝するかもしれませんね。

山もそうだが、早渕川沿いの1メートルか2メートルを堤にして桜を植えて綱島までずーっと連なったらいいのになぁとよく思うんですよ。公園じゃなくて国ですか県ですかが管理しているんで難しいって言われちゃったけどね。風景を作っていくってのも大事だと思うんですよ。

町内会はもちろん郵便局のOB会、はたまた町内の老人会を招待してのうどんの会、お寺の世話人、大山様の講元……。八面六臂の活躍と忙しいスケジュールのなか、ありがとうございました。

勝田町方面を望む
早渕川対岸から鈴木さんのお宅付近、勝田町の山を望む。
ニュータウン隣接地にあってこの緑も貴重なものになりつつある。


勝田の杉山神社
その緑の中に静かにたたずむ杉山神社
昔はこの前の通りがメインの「銀座通り」だったとか


勝田町防災マップ
勝田町をくまなく歩いて作り上げた防災マップ。鈴木さんの労作だ。


勝田小学校校章
勝田小学校の校章はタケノコをモチーフにしている。
タケノコの根元のボツボツが開校当時の学級数という。


竹細工の鈴虫
今にも鳴き出しそうな鈴虫は、鈴木さんお手製の竹細工。
煤(すす)竹の羽根や節を関節に見立てての繊細さに感動。


手打ちうどんの会
毎年町内の方々を招待しての「手打ちうどんの会」を開催している。




コシが勝負?!



早渕川沿いが桜の並木になるのを夢見ているという


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