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早淵川 インタビュー1

最終更新日 2019年3月13日

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(このインタビューは2007年に実施したものです。)

リレーインタビュー01人物写真

大久保 太市さん


大正10年10月生まれ
昭和9年神奈川県都筑郡中川小学校高等科入学
昭和11年東京杉並区立商工業学校入学のち都筑郡中川村立青年学校
昭和21年横浜市港北区中川振興青年同盟会結成(会長)
平成3年横浜市立中川西中学校校歌作詞
著書に「自分史---私の少年時代」「お不動さまといっしょ」ほか

ヤマユリの復活をねがう元ガキ大将

都筑郡と呼ばれていた頃からこの地で育ち、学び、生活し、現在も中川3丁目の「老馬鍛冶山不動尊(ろうばかじやまふどうそん)」の世話人代表でもある大久保さんにインタビューしました。昔の早渕川をはじめ、たくさんのお話をうかがうことができました。

ウナギ、ハヤ、ゲバチ、カジカ…とにかく魚はとり放題

─子供時代の早渕川はどんな川でした?

少し上流に元石川とか新石川という地名があるように、早渕川の底は岩なんで裸足で歩くととっても感じがいいんです。子供の頃川岸は草や木・真竹・篠竹で被われていたし水もきれいで、もっぱら魚をとってました。

─どんな魚がいたんでしょうか?

まずウナギ、ナマズ、ゲバチ、ハヤ、カジカ、フナ…捕まえに川入ったらもう面白くって一日中帰ってこないっていうんでオフクロにへその下にお灸をすえられたこともありました。ウナギは夜、流し針を取り付けた竿を川にさしておくと翌朝ひかっかってる、何本もさしておけばそのぶんとれるというくらいでした。週に一回くらいしか魚を売りに来ない頃でしたからウナギが食卓に並ぶっていう日もよくあった、今思うと贅沢ですかね。

ガキ大将の一日は大忙し

─子供たちはどんな遊びをしていたんでしょうか?

自分でいうのもなんだがガキ大将っていうか、率先して遊んでましたね。ガキ大将っていうのもなかなか大変で、シノ竹とってラッパにしたり、ドンドロコマを直してやったり。

─ドンドロコマ???

軸がぶれてたり長さがあわなくてよくまわらないのをドンドロコマ。直してスムーズに回るようにしてあげたり、揚がらない凧の糸目をみてやったり、チャンバラには木をノコギリで切ってしごいて木の皮をうかす。サクラとかクワの木の皮が丁度鞘になって中身が刀になるんです。サクラの鞘なんかきれいでしたよ。腰に差しても立派だし。夏には男のこも女のこもみな素っ裸で早渕川で泳いだもんです。

─布川との合流点でも泳げたと聞きますが

昭和の10年代頃か、大棚堰が今の水神様辺りにあった頃、大きい堰でせき止めると水は4メートル位と深かったんです。私もいちど溺れかけたこともあったくらいで。大堰から鍛冶橋の庚申様、布川との合流点あたりまでずーっと水が1メートルの深さまであったんでそこから大堰まで泳ぐつわものもいましたね。
私たちが小さかった時分みたいに、水と遊べるってことは危険なことさえなきゃ最高にいいんですよ。そういった意味で今、茅ヶ崎辺につくってる公園(親水広場)なんかとってもいいと思うけどね。

水車小屋と暴れ川

─昔の早渕川沿いに水車小屋もあったそうですが

私の物心ついたときには、大正14,5年でしょうかもうその頃にはなかったんだが、ヘアピンカーブで早渕川が曲る辺に、今の国道246号線に架かる市営地下鉄のガードの少し上から木製の箱樋で早渕川から引いてきた水と谷戸から流れ出る水と合わせて落としこんだ、ちょっとした滝があった。その水を利用して水車を廻して米や麦を精白にする工場と家があり、総ガラス戸で12本もの杵を備えた結構な水車があったそうです。とにかく写真を見れば判るが急に進路が変わってるところですね。

─昭和44年頃から護岸工事が始まっていますが、これまでに洪水にあった経験をお持ちですか?

そりゃもう頻繁に水は出てましたね。昭和50だか51年に私はセトモノの店をやっていたが大雨で3階建ての1階1.2メートルほどまで来て、商品みんな泥をかぶったことがありました。このときにはお不動さん(老婆鍛冶山不動尊)の階段が53段あったその3段目まで水が出ました。このころ結局たまプラーザ方面が開発されて昔は木や森が水を溜めてたけど、家ができて雨水が全部ダーッと早渕川に流れてくることになったんで水が出るようになったといわれてました。

村中総出で川ざらい

─コンクリート護岸になってからはいかがですか

みんな役所にまかせるみたいになっちゃったね。昔は5年にいっぺんぐらい川の周りの竹や木を村じゅう総出で取るのが常だったし、鋪装する前は道に敷いた砂利が川のなかに落ちて溜まるとモッコ下げて天秤にして運び出し、みんな自分達できれいにしたもんです。全体でひとつの目的持ってやるってことがコミュニケーションをつくり出す。そういう意味じゃ最近は川についてみんな考えなくなった。

新しく越してきた人も「都筑のひと」気軽に声を掛け合いたい

─大久保さんの本のなかでニュータウン建設で字(アザ)による区分が見えなくなって、人のまとまりもなくなったと述べられてますが、最近はいかがですか?

昔みたいに一斉にっていうことはないが公園の愛護会みたいなものも出来てきてるし、多少動きもみられるけど、引っ越してきた人の方がどこか我々はヨソモノみたいな意識があるように思う、私だってヨソモノだったわけで、ただすこおし早く先代が来たってこと。いつでもオープンマインドで気軽に挨拶できるようになりたいもんです。

校歌にもうたったヤマユリをもう一度

─これからの夢は?

少し前中川西中の校歌を作詞しまして、その2番で女子学生をイメージしてヤマユリにたとえたんだが、昔この辺は夏ともなると一面ヤマユリが自生していて、子供の頃山から掘ってきて家の廻りに植えたもんです。土地の造成でまったくカゲもなくなったが、あの風景をもう一度と思い、ヤマユリについて研究してます。放りっぱなしでも消えちゃうし、手をかけ過ぎてもよくない難しいところもあります。いつか蘇らせたいですね。

大久保さん貴重なお時間をさいていただき、たくさんのお話有り難うございました。

大棚堰での水遊び

大棚堰での水遊びのようす。大久保さん直筆。
とってもいきいきしていて水の表現が美しい。


堰の上から

大棚堰


昭和48年頃の早渕川

右中央のこんもりとした森が老婆鍛冶山不動尊
その下の方で曲がりくねっているのが旧早渕川
手前アール型の部分に水車小屋があったという
現在の流れはもっと下の方にあたる昭和48年頃


くねくね早渕川の地図

地図で見ると早渕川の蛇行具合がよくわかる


中川西中校歌の歌詞

中川西中学校校歌大久保さん作詞の2番に注目。
ヤマユリに寄せるおもいが伝わってくるようだ。
これも大久保さんの直筆。多才な大久保さんは、
日本コロンビア作詞作曲セミナー会員でもあった


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