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インタビュー2
最終更新日 2019年3月13日
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→vol.2
(このインタビューは2005~2007年に実施したものです。)
吉野ハマさん
大正15年11月生まれ
神奈川県都筑郡中川村立尋常高等小学校
(現横浜市立中川小学校)
中川村立青年学校
(現横浜市立中川中学校)
子供たちに伝えたい
都筑の、そして農の魅力
リレーインタビュー2回めは、中川の地に古くからお住まいの吉野ハマさんにお話を伺いました。少女の頃から見続けて来た都筑の風土、様々な出来事。ニュータウンへと変貌をとげるまちにあって、未来をになう子供たちへ伝えていきたいこと。まもなく傘寿とはとても思えない若々しさと熱っぽさで語っていただきました。
まぶたに浮かぶのは、川面に映る藤の花のむらさき
─広い敷地に素敵な大屋根のお宅ですね
その昔は、八反歩の敷地が目の前に広がってました。ある時、通りがかった絵描きさんがぜひ描きたいといって描いてくださったのがこの絵です。茅葺きの大きな家でした。前に道路を作るっていうんで今のような家にしましたね。
─小さいときから早渕川を見てこられたんですね
庭と畑を抜けると、早渕川でした。ずーっとつづきで。昭和の中頃までは早渕川はうねうねした流れの川で、自然のマダケやメダケが川沿いに茂ってましたね。
春になると、その竹にからんだフジの木が花を咲かせていっせいに川にしだれるさま、竹の緑に枝垂れて咲く花と水に映った花との藤色がそれはきれいだったのをまっ先に思い出しますね。
小学校までの長い道のりは、エノキをたどる川の道
─小学校はここ(現中川4丁目)から中川小までですか?
この辺では小学校は中川小だけですものね。私が小さい時は、中川小学校は今の中学(中川中学校)のグランドのところ、清林寺のふもとにあって毎日歩いていきました。
─けっこう距離はありますね。やはり川沿いで通ってらした?
そうです。川に沿ってずうっと行く。小学校にあがったばかりの頃は大変でした。昔は早渕川の1里おきにひとッ抱えもあるような大きな榎(エノキ)が植わってたんです。家の前あたりにもエノキがあったんでそれが目印になってました。川の改修の時に伐ることになりましたが早渕川の風景のひとつですね。
─寄り道するようなとこってないですね
いやいや、よく吾妻山あたりで横道それて、木蔭で一息ついて木イチゴ食べたりね。
いきものたちの譜。キツネとの対面
─子供たちのふだんはどんなふうでした。川で泳いだりもしたんですか?
皆手伝いはよくしてましたよ。水瓶の水や風呂水を汲んでくるのがまず日課。私はひとりっ娘だったこともあるけれど、なんでもやりました。
山に入って草摘んでた時にキツネとでっくわしまして、目が合ったらお互いすくんで動けなくなったってことも。でも夜、渋沢(「やさきのみち」付近)の方にあらわれる「狐火」じゃないホンモノの狐を見たのはその時(約65年前)だけでしたが。他にはノウサギやイタチ、テン、タヌキをよくみました。タヌキは今でも時々見かけます。
男の子たちみたいに川で泳ぐってことはなかったですよ。ある夏に大棚堰から飛び込みだか突き落とされたかっていう事件があったりしてこわかった覚えがありますが。
水の恵みを皆でわけあう、知恵とくふう
─大棚堰は大きかったようですね
深かったですよ。4,5メートルはあったでしょうか。大棚堰で溜めてそれぞれの用水路で各田んぼに引く。柚の木の向こうの原根(字の名前)に観音様をまつった真福寺には、かいせん(開堰)様が居らして毎年田んぼに水を引く時になると、水をいつ、どうとるか御指示があったんですね。
大堰の近くには「堰山(せきやま)」っていって松の木の山があって、そこの松から板を伐りだして堰を止めるのに使ったんです。小堰で分けてそっから東善寺の前を流れて中村耕地(現中川6.7丁目付近)ヘという水路をつくったり。
─頻繁に車が通る道になった部分もありますが、今でも少し水路のなごりのようなものがありますね
そうです。昔用水路だったところは埋めて道になってるところがほとんどで、田んぼへ引く水は今ではポンプ小屋で一括管理してます
少女から娘時代は戦争、そしてニュータウン開発
─のどかな印象のこのあたりですが
昭和20年終戦の年、東京と同じように神奈川、横浜地域が空襲にあってます。そのころ、今の都筑小学校(センター北)付近には照空隊(しょうくうたい)基地があったんですがものすごい数の焼夷弾が落とされました。南山田の大善寺のそばにあった安藤校長先生の大きなお宅が焼けてしまうといったこともありましたよ。東京から焼け出されてきた人たちや食糧を求めにくる人たちも多くて、わずかななかから野菜等をお分けする日々がありましたね。娘時代は自転車で奔走するようなそんな忙しい思い出ばかりみたいです。
そんなこのまちがやはり大きく変わったのはニュータウン開発が始まって。道も出来ましたけれど例えばお墓。それまでは内墓って敷地の中に先祖代々土葬でしたけれど、土地を造成するので掘り起こして新しくお寺に納めることになったりね。その時一番深いとこからひとがたの埴輪が出てきました。
ご近所のお宅の山には大きな樫の木があったんですけど、移設するような場所もなかったんでバッサリと伐ったし、家の前にも大きな柿の木が8本あったがそれも一本残ってるだけですね。風景は見通しよくなったが人のつながりが見えにくくなった、昔はこのあたりには5つの「講」があってそれぞれ日の決まったまつりがあったんですが、担う人がバラバラになったこともあって、今年は中止になったりとかね。
昔は子供にとってはまつりでいろんなお菓子やおもちゃがふるまわれるのが楽しみでしたが
子供たちとのコラボレーションに未来を託す
─ニュータウンに越されて来た人たちとは?
5年ほど前から都筑小学校のなかに田んぼをつくってイネの育て方、米になるまでの観察のお手伝いをしています。籾から苗を育てたり、泥んこになるようなことを今の子供たちは体験したことがないのなら、一緒になってやってみようよと。
都筑の土地の成り立ちも知ってほしいと思って始めました。みな、めをキラキラさせて取り組みますよ。これからもつづけていくつもりです。
まだまだ語り尽くせないくらいの思いがつまっていそうな、吉野さん。また、いろいろな機会でお話をお聞きしたいと思いました。有り難うございました。
区画整理前の、茅葺屋根の頃のお宅。
広々とした敷地に閑静なたたずまい。
「わが町の昔と今」第4巻都筑区・城郷編のなかでは、
(『とうよこ沿線』創刊20周年記念写真集2001年)
小学生時代の「狐火」体験を語っている吉野さん。
自然や生き物達がごく身近な存在だった事を感じる。
2004年に創立130周年を迎えた中川小学校
その創立80周年を記念して今から50年前
昭和30年に制定された中川小学校校歌では
(校歌としては珍しいワルツのリズムです)
と歌っています。昭和42年から開始された
早渕川改修事業・昭和49年から工事着手した
港北ニュータウン区画整理事業以前の早渕川
周辺が自然豊かだったことがうかがわれますね
作詞:創立80周年事業実行委員会・補訂:中島利信
(参考文献)
横浜市立中川小学校創立百周年記念誌
横浜市立中川小学校創立百二十周年記念誌
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