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最終更新日 2025年6月5日
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八坂神社の「お札まき」と地域のつながり
神崎 征美さん(69) 2025年インタビュー当時
八坂神社のすぐそばで生まれ育ったのですね。
私は1955(昭和30)年生まれ、八坂神社の近くにある「神崎畳店」の二代目です。先代は1936(昭和11)年に今の場所で畳店を始めました。八坂神社の辺りは戸塚宿の中でも中心地でしたから、商売をするにはいい場所だったのでしょうね。自宅の畳店の隣には八百屋さん、反対側の隣には乾物屋さんがありました。近所にお店がとても多くて、肉屋さんに魚屋さん、農機具屋さん、ラーメン店、銭湯などいろいろあって町内で衣食住そろうようなところでしたよ。駅の近くの商店街は戦後発展していったんじゃないかな。東海道沿いはそれより前からにぎわっていたんでしょうね。
柏尾川が氾濫することも度々ありましたが、東海道まで水が上がることはありませんでした。戸塚小学校の辺りは水浸しになってしまったのを覚えています。小学校低学年の頃、台風で川の水が増えたときに、豊田小学校そばの豊田堰の近くにあった金魚の養殖場から川に溢れた金魚を捕まえに行ったこともあります。
中外製薬の近く、今はマンションになっているところには昔、日立のグラウンドがありました。プールや体育館もあり、小学生の頃は仲間で集まってよく野球をやりました。家の向かいの洋品店でおそろいのユニフォームを作って、いつも7、8人で草野球をしていたものです。
子どもの頃のお祭を覚えていますか?
私が子どもの頃は八坂神社から戸塚郵便局までずらっと露店が並び、にぎわっていました。東海道の道路の両側ではなく八坂神社側です。車も少なかったので、夜の19時を過ぎて人出が多くなると道路の真ん中くらいまで人が歩いていましたよ。私の家の前には毎年おもちゃの屋台が出ていて、お祭が終わるとお礼におもちゃをくれるのです。嬉しかったですね。当時はお祭といえば露店が楽しみだったので、お札まきのことはほとんど知りませんでした。父が踊り手として参加していたのは戦前、引越してすぐの3~4年だったようですが、その後もずっと、地域の一員としてお祭に関わっていました。
今では踊り手はお揃いの着物を着ていますが、戦前のお札まきの写真を見ると、みんな違う着物を着ています。それぞれ自分の家の着物を着て参加したのでしょうね。
戦前のお札まき【提供:神崎征美さん】
1955(昭和30)年頃のお札まき【提供:神崎征美さん】
「お札まき」のことを教えてください。
八坂神社の「お札まき」は毎年7月14日に行われます。元禄時代から300年以上続く祭礼で、女装した男性たちが歌いながら町内を練り歩き、音頭に合わせて7色のお札をまきます。
音頭取りが「サァこい子ども!」と歌い始めると、他の踊り手が復唱します。音頭に合わせてひと踊りしたあとで、音頭取りが7色のお札をぱっとまき、踊り手たちが渋うちわで宙に散らすのです。
2015(平成27)年のお札まき【とつかフォトコレクション】
◀「お札まき」は横浜市指定無形民俗文化財で、一説によると、子どもが病気にかからないように母親が自らの着物を踊り手に託したことが由来といわれている。
音頭の歌詞は時代に合わせて少しずつ変わっているのでしょうが、口伝でずっと引き継がれてきたものです。「ありがたいお札 授かったものは 病もにげる コロリもよける」という歌詞があるのですが、実は1回だけ、さらに「コロナもよける」と加えたことがあります。
私は30歳頃からこの「お札まき連中」に加わり、前任の方からのご指名を受けて「音頭取り」の大役を40年ほど務めました。2024年、無事次の方に引き継ぐことができ、ほっとしています。2023年、音頭取りとして最後のお札まきは家族みんなが見にきてくれましたよ。
音頭取りを務める神崎さん【提供:神崎征美さん】
横浜博覧会でのお札まき披露(1989)【提供:神崎征美さん】
今では多くのお客さんが集まってくれますが、40年前はお祭りといえばお客さんの目的は露店で、お札まきはあまり認知されていませんでした。今は年1回だけですが、以前は市内外のイベントに呼ばれて八坂神社の祭礼の他に年数回お札まきを披露したこともありましたし、1989(平成元)年の横浜博覧会ではみなとみらいで踊ったこともありました。
お祭の後継者不足が問題になる地域もあると聞きますが、お札まきに関しては、やりたいと言ってくれる人が多く、昨年から高校生も加わってくれました。子どものころから見ていて、郷土愛を感じてくれているのかもしれませんね。
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