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最終更新日 2025年5月26日
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かつて遊園地「ドリームランド」があった場所は、誰もがいきいきと暮らせるまちになりました
島津 禮子さん(89) 2024年インタビュー当時
戸塚に住み始めたきっかけは何ですか。
結婚後、ご縁があって1974(昭和49)年頃ドリームハイツを購入しました。「ドリームハイツ」は、県と市の住宅供給公社が建てた分譲住宅で、戸塚にあった遊園地「ドリームランド」に接していました。引っ越した時はまだ、ドリームランドは営業していましたよ。
当時、子どもがまだ小さく、姑の介護も必要でした。昔は介護は嫁や娘がやるのが当然と思われていたので、私もそれを続けてきましたが、ドリームハイツに住み始めてからは「絶対にこれは地域ぐるみでやらないといけない」と強く思いました。子育てと介護をやっている方は他にもたくさんいらっしゃいま
4LDKの部屋がありましたので、これは家族だけではなく地域全体で支えることが重要だと思い、地域活動を始めました。
ドリームランドとドリームハイツ【とつかフォトコレクション】
ドリームランドがあった頃はにぎやかだったのでしょうね!
うるさいという人もいたけれど、私は先にドリームランドがあったんだから、後からできたハイツで文句を言うのはおかしいと思ってました。私自身は自分でドリームランドに行ったことはないけれど、子どもはドリームランドのプールによく行っていましたよ。プールから自宅が見えるので、窓に赤いハンカチを結ぶのが帰り時間の合図でした。
1964(昭和39)年から2002(平成14)年まで戸塚にあった遊園地「横浜ドリームランド」【提供:横浜市史資料室】
ドリームハイツができた1972(昭和47)年当時、もともと遊園地の一部だった土地なので、八百屋さんや魚屋さんなど生活に必要なお店は何もありませんでした。バスに乗って原宿に出て、商店街でお買い物をしていましたが、だんだん生活の場として馴染むようになってきました。今ではスーパーが2軒あるし、病院も何軒もあります。高齢者になってくると、近くで買い物をできることと通院が不便でないこと、そして介護をうけられることが大事になってくると感じています。
島津さんは「ドリームハイツ」の福祉に関わってきたと聞きました。
入居した50年前は日本中に子どもがたくさんいて、幼稚園の入園申込書をもらうために徹夜で並ぶような時代でした。地域の中でも幼稚園に入れない子もたくさんいて、1970年代、子育て真っ最中のお母さんたちが自主保育を始めました。それがドリームハイツの福祉の始まりです。
高齢者福祉に関しては、1990(平成2)年には「ドリーム地域給食の会」ができました。ドリームハイツには若夫婦と高齢者の同居という家庭がたくさんありましたが、若夫婦には転勤がありますよね。それで、高齢者だけ残るということがとても多くて、お弁当の配食が始まりました。残念ながら、この会はもうありません。今はスーパーやコンビニでたくさんお弁当を売っていますし、自分たちで材料を調達してお弁当を作ると、どうしてもコンビニ弁当より高くなってしまいますからね。高齢者しか残ってないところにお弁当を配達するのはとても良い活動だったと思います。
そんななかで、私は1994(平成6)年、「ドリームふれあいネットワーク」をつくりました。介護保険も何もない時代でしたから、私自身が苦労した子育てと高齢者の介護をどうにかしなければと思い、有償ボランティアをつくったのです。介護保険制度ができる直前の1999(平成11)年、特定非営利活動法人(NPO法人)の制度ができてすぐに「ふれあいドリーム」としてNPO法人になり、2000(平成12)年に介護保険制度ができると介護事業所として登録しました。当時市内にはたくさんの有償ボランティア団体がありましたが、1割負担で介護保険を使えるようになると赤字が続くようになって撤退してしまうところも多くありました。介護保険にサービスを持っていかれたように感じたものです。
それからも介護保険のサービスを提供しつつ、有償ボランティアも続けました。有償ボランティアでは、介護保険で対応できないこと、例えばお墓参りに行くための移動サービスや看取りなど、その時に必要なものをみんなで知恵を出し合ってサービスをつくってきました。
そして2005(平成17)年、「ふらっとステーション・ドリーム」という居場所をつくりました。戸塚区内11か所のケアプラザ各地域で必要なものを伺うと、「居場所がほしい」という人が多かったんです。話を聞いたときは、戸塚って別に田舎ではないし、喫茶店なんかもあるのに何で居場所なのかしらと思いました。でもやはり必要なんですよ。ひとりになると会話がなくなってしまいますよね。居場所に行って、そこでいろいろな会話をしたりお友達をつくったり、食事をしたり。そういう場所が一番なんですね。
子育て支援に始まり、次に配食サービスから介護保険まで、そして障がい者の支援やまちづくり。そんな風にしてできたのが、ドリームハイツの福祉です。
現在のドリームハイツ【提供:島津禮子さん】
「ふらっとステーション・ドリーム」はイベントや食事を通して多くの人が集う居場所になっている【提供:島津禮子さん】
思い出に残っている出来事はありますか。
私が大人に対する福祉の取組を始めたときは、本当に奇跡のようなことが起きたんですよ。まず、地域の皆さんに知ってもらうために説明会を開いたのですが、雨がしとしと降る寒い日に集会場の椅子が足りなくなるくらいの人が集まりました。今では考えられませんが、当時みんなが関心を持っていたのですね。そして、こういう助け合いの団体をつくりますと説明して、「お手伝いをしてくださる方はいますか?」と言ったら、「会計なら私がやります」「広報なら私がやります」と、みんなが手を上げてくれたんですよ。すごいでしょ。
今は、若いご夫婦でも、お父さんが保育園の送迎をするとか協力しながらやっていますよね。昔はそんなことなくて、自分ひとりで子育てもしないといけないし、介護もしないといけない。毎日泣いていた経験が、福祉の団体をつくる原動力になりました。
地域に対しての思いを教えてください。
家族が認知症になった時、他の人に知られたくない、言いたくないと悩む人がいて、相談を受けたことがあります。私は「それは、みんなに知ってもらいなさい」と答えました。ドリームハイツの道を病院の廊下だと思えばいいんです。そしたら、具合が悪かったら看護師さんが「どこか具合が悪いの?」と声をかけてくれますよね。道でちょっとつまずいたりしたら、周りの人が「大丈夫?」と声をかけてくれる、それができるのが地域で大切なことだと思います。決して特別なことではなくて、人が人を助けたい、役に立ちたいと思う気持ちがそうさせるのだと思います。
今、思うことは、「私はここで最期を迎えられる」。もともと買い物もできなかったところが、今はいろいろな福祉の事業所あって、居場所もあるし、有償ボランティアもある。安心して暮らし続けられる地域になりました。
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