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最終更新日 2025年5月15日
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昔は瀬谷区も泉区も栄区も「戸塚区」でした
有馬 純律さん(89) 2024年インタビュー当時
ご出身は鹿児島とのことですが、横浜に引っ越したきっかけは何ですか
尋常小学校在学中、戦争が始まって国民学校になりました。6年生の時に終戦を迎えましたが、小学校から中学校にかけて、子どもにとって一番大事な時期に教科書も靴もなく、裸足でつぎはぎだらけの洋服を着て学校に通いました。成長して大学に行きたいと父親に言ったら反対されましたよ。当時は高等学校の1割程度しか進学しない時代でしたからね。何とか説得して教職課程の大学に進学しました。戦争で勉強ができなかったから、勉強がしたいという思いが強くありました。
昭和30年代初め、私は鹿児島で教員として働いていましたが、25歳の頃にご縁があって横浜市中和田小学校北分校(※)に赴任しました。畑の中にポツンとあるような学校で、鹿児島から来た私をとても大事にしてくれました。小学校教員をやりながら夜は夜間学校に通い、中学校と高校の教員免許もとりました。
※横浜市中和田小学校北分校・・・現在の飯田北いちょう小学校(泉区)
郷土史との出会いを教えてください
勉強したいという強い気持ちで横浜に来ていましたから、色々な勉強をしました。当時、小学校3年生の副教材として使用する「私たちの戸塚」という冊子がありました。社会科の教科書は日本全国のことを取り上げますが、横浜の子どもに横浜のことを教えるために「区」のことを取り上げる教材です。今では副教材は教育委員会が作っていますが、当時は小中学校の先生を中心とする研究会が作っており、私も編集に携わりました。資料を集めるため地域の方を訪ねることも多く、冊子編集をきっかけに郷土史に出会ったことはとても良かったです。地域のことを知ると、そこに住む人たちは親しみを持って接してくれるのです。赴任した学校でも、まず地域のことをよく調べました。地域の人の中には私をよそ者とみる方もいましたが、私が地域の歴史を知っていると分かると親しみを持って大事にしてくれるようになったのです。
ほかにも、横浜の教育史などいろいろなものの編集に携わり、私は特に戸塚区や泉区の農村地帯のことを調べました。農村はとてもおもしろいのです。年貢さえ納めれば、あとは自分たちで自主的に運営するのです。名主を中心に自分たちで話し合い、協力して村を経営していました。だからその中で、青年団にはいろいろな仕事があるし、みんな目的を持っています。ひとつの共同体ではあるけれど、仲間でやっているから親分の命令で動くものではないのです。
「地名(じみょう)」という言葉を聞いたことがありますか。地域で10軒くらいの仲間を「地名の仲間」と呼ぶのですが、例えば地域で誰かが亡くなると地名の仲間が全て取り計らいます。今のように葬儀会社に頼むのではなくて、地名の仲間の中で墓の準備をする人、お坊さんを呼ぶ人、料理の準備をする人など役割分担していました。地域の揉め事なんかも、今ではすぐに裁判になりますが、当時は地名同士の親方が出てきてうまく収めていたのです。地域が団結していると、村の経営がうまくいきます。だから、飲食などを通して親睦を深めたり、助け合うことを大切にしてきたのでしょうね。
横浜で学校の先生をされていた頃の思い出を教えてください
昭和30年代後半、朝鮮戦争の影響で京浜工業地帯の人口が増えたため、戸塚は野菜供給基地になっていました。当時は今の瀬谷区、泉区、栄区も「戸塚区」で、横浜市内でいちばん大きな区でした。私が来た頃の農家は大変でしたよ。昼間に収穫した大根を夕方には取り入れて、夜中から明け方にかけてきれいにして箱詰めして、朝には市場に持っていくのです。
戸塚の柏尾川沿いは工業地帯ですが、大正地区や川上地区、中和田地区には農家も多かったのです。赤ん坊をおんぶして学校に来る子どももいましたよ。大人は一日中働いているので、小学4年生くらいの長男・長女は子守をする必要がありました。赤ん坊が泣くと教室の外に出るので、外からでも聞こえるように窓を開けていました。泣き止むと教室に戻って、泣き出すとまた、外に出て。クラスに何人もいたわけではなく、一部の子どもです。今では70歳くらいになっていますかね。当時は教師も友達も、それを受け入れるおおらかさがありました。
忙しくても、保護者は学校の行事に協力的でした。学校の授業参観は、忙しい農家のお母さんたちがお化粧して外に出られる貴重な機会でした。だから、私は授業参観で「子どものことは俺に任せておけ」と宣言して、勉強の話はせずにみんなで歌を歌った記憶があります。今よりずっと、教師と保護者の距離が近かったように思います。
横浜市中和田北分校(昭和39年頃)【提供:有馬純律さん】
学校での朝礼の様子【提供:有馬純律さん】
「郷土戸塚歴史の会」ができた経緯を教えてください。
昭和40年過ぎ、戸塚で人口が急増していた頃、引越してきた人が言ったのです。「戸塚区が第二のふるさとになる。でも、戸塚のことを知らない。だから戸塚のことを知りたい。ここで死ぬのだから、この土地のことを知らないといけない。」と。区役所の働きかけもあって歴史散歩を始めることになり、のちに「郷土戸塚歴史の会」をつくりました。郷土史やガイドブック、歴史の講座などいろいろなことをやりました。神奈川区、中区、戸塚区、泉区、瀬谷区の5つの郷土史編集にも携わりました。
戸塚駅の昔の駅舎には渡り廊下があったそうですが、人が多くて渡り廊下が沈みそうなほどだったそうですよ。分区の戸塚区は神奈川県でもトップクラスに人口が多かったと思います。小学校だけでも60以上あり、横須賀市と変わらない規模だと聞いた覚えがあります。
戦争前、戦時中、戦後、高度成長、バブル崩壊と激動の時代を生きてきましたが、大変だった感じはしません。「東京に行けば夢がある」と思っていました。私たちの世代は8時間労働どころではなくて、土日も、夜中まで働いていました。苦労しても、何かやればやっただけの形になります。希望や夢がありました。
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