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最終更新日 2025年4月22日
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「開かずの踏切」と呼ばれていた戸塚大踏切のそばで暮らしてきました
岡田 栄一さん(82) 2023年インタビュー当時
戸塚大踏切の近くにお住まいだったのですね。
私は1941(昭和16)年の5月、太平洋戦争が始まる少し前に吉田町で生まれ、戸塚大踏切の近くに住んでいました。小学校は戸塚小学校でしたが、4年生の10月に児童が増えて新しくできた東戸塚小学校に移りました。ちょうどその頃でしたね、うちの前で踏切待ちをしている吉田茂元首相の車を2回ほど見かけましたよ。うちの前に車が停まったので中を覗いてみたら元首相の顔が見えました。踏切待ちでイライラしている様子で、手を振るなんてできる状況ではありませんでしたね。その頃、線路はまだ単線でした。大踏切のそばに大きな運送会社があり、荷物を降ろすときなど大踏切の遮断機を下ろして貨物列車の入れ替え作業をしていました。戸塚駅は貨物線と、横須賀線が停まるホームひとつだけでしたが、複線になって東海道線が停まるようになると、ホームが2つになりました。
吉田元首相を踏切で見かけた4~5年後、私が戸塚中学校2年生か3年生くらいの頃、いわゆるワンマン道路(※1)ができました。ワンマン道路を作っている最中に全校マラソンがありましたが、今の戸塚警察署の前から、開通前の出来立てのワンマン道路を走るコースでした。戸塚中学校全校生徒で、まだ車が走る前の道路を走りましたので記憶に残っています。なかには歩いている生徒もいましたよ。
箱根駅伝は、ワンマン道路ができるまでうちの前を通っていました。当時踏切の遮断機は手動で、目視で確認して渡っていました。近くの松本酒店さんがバトンタッチの場所、今でいう「戸塚中継所」が大踏切のところ。箱根駅伝では「遮断機が下りて涙を呑んで」というアナウンスもありましたね。リードしていても踏切待ちをしているうちに後続のチームが追い付いてしまうなんてこともありました。
2015(平成27)年まで使用されていた戸塚大踏切は、ピーク時は1時間のうち57分遮断され「開かずの踏切」と呼ばれていた 【とつかフォトコレクション】
大踏切の混雑を解消するため、2015(平成27)年ついにアンダーパスが完成【とつかフォトコレクション】
終戦前後の思い出はありますか?
今の日立製作所があるところは、昔はPX(※2)に接収されていました。クリスマスには、見たこともないお菓子をPXでもらいました。チョコレートを食べたときは、こんな甘いものが世の中にあるのか!と、とても驚いたことを覚えています。終戦後の1950(昭和25)、1951(昭和26)年頃でしたから、いくらか景気も良くなっていました。終戦直後はどうしようもない状況でしたね。小学2年生の頃は食べるものがなくて、ご飯は麦ごはん、サツマイモは麦ごはんの中に入っていました。学校が終わって家に帰るときは水をたくさん飲んで帰りました。戸塚は空襲で焼けることはなかったけれど、終戦直後の正月は何もありませんでした。1948(昭和23)年くらいから人も多くなりましたが、1946(昭和21)年の正月は人通りもなく車も通らないので道路で羽根つきをして遊んだことを覚えています。
終戦は5歳だったのであまり記憶にありませんが、横浜の空襲は覚えています。昭和20年5月、最期になるかもしれないからと、海軍にいる父に合うために逗子に行きました。帰りに大船で電車が止まってしまい、母に手を引かれながら泣く泣く戸塚に帰りました。そのとき、向こう(横浜方面)の空が真っ赤で、線路をぞろぞろと歩いてくる人たちがいて、何だろうと思っていましたが、それが横浜空襲だったのだと知ったのは後のことでした。
終戦後の暮らしについて教えてください。
戦争が終わって、家族が吉田町に戻りましたが何もありませんでしたね。父は元々、吉田町で酒屋と米屋を営んでいましたが、戦後は酒・米の販売が許可制になったために乾物屋を始めました。干物や豆、海苔なんかを扱っていましたが戦後はあまり品物がありませんでした。父と一緒に築地まで買い出しに行ったことをよく覚えています。大きな荷物を持って新橋駅の長い階段を上るのがやっとでした。一度荷物を降ろしてしまうと、二度と持ち上がりません。私が小学校3年生の時に横浜の中央卸市場ができるまで築地に買い出しに行っていましたが、買い出しのたびに疲れ果てて、小学校には寝に行くようなものでした。週1回は朝の4時半に起きて、戸塚から築地に行って、帰ってきてから学校に行っていましたからとても体がもちませんでした。自分の体より重い荷物を運んでいましたからね。
学校卒業後はどのようなお仕事をされていたのですか。
私が20歳を越えた頃、家では氷屋もやっていました。戸塚駅西口一帯には飲み屋がたくさんありました。昔の飲食店には製氷機もなくて、氷屋はうちだけだったから大忙しでしたよ。自転車で氷を運ぶために、前の荷台を金枠で大きくして、麻袋を敷いて滑り止めにして。氷を載せて上からまた麻袋で覆っていました。
戸塚は日立製作所で働く人が多い街だったからね。戸塚駅西口は日立の給料日に、東口はブリヂストンの給料日の人出がすごかったんですよ。工場で働く人たちが給料日は街に繰り出していてとてもにぎやかでした。飲み屋もたくさんあって面白かったですね。仕事のあと、声をかけると誰かしらいつの間にか集まって、しょっちゅう飲みに行っていました。楽しかったなあ。
乾物屋・氷屋とは別に、公設市場にも店を出していました。終戦後すぐに、今の戸塚区役所がある場所に公設市場ができて、私が41歳になるころ公設市場が廃止になるまでテナントとして入っていました。公設市場には、肉屋が1軒、鶏肉屋が1軒、魚屋が1軒、漬物屋が1軒、乾物屋はうちを含めて2軒ありました。他にも八百屋や惣菜店、お菓子やお茶、お酒のお店もありましたよ。競合に負けないように値段を安くするなど頑張っていました。あの頃は、駅で電車を降りて公設市場で買い物をして、バスで帰る人が多かったですね。本当に毎日よくお客さんが来て大忙しでした。公設市場は庶民の台所と言われていました。
公設市場が1985(昭和60)年に廃止になったあと、戸塚駅近くの国道沿いで弁当屋を始めました。当時はコンビニでも弁当を売り始めていましたが、温かい弁当が好評でよく売れましたよ。戸塚駅西口の再開発が始まると飲食店も少なくなって、弁当を買いに来てくれる人もたくさんいました。本格的に区画整理が始まって西口に工事の囲いができてしまった頃、弁当屋も潮時かなと思って店をたたみました。いま思うと、あまり口をきかないような同級生でも、大人になると「おい!」と気軽に声をかけられるような関係になる、商店街の毎日は楽しかったですね。
戸塚駅西口周辺にあった公設市場(市設小売市場)は、スーパーができるまで市民の台所を支えていた【写真提供:岡田栄一さん】
「夢中で仕事をしていたから、一緒にがんばってくれた妻にはとても感謝しているよ。」【写真提供:岡田栄一さん】
※1 ワンマン道路・・・「ワンマン宰相」と呼ばれていた吉田茂元首相が、自宅がある大磯から東京に向かう際に障害となる戸塚大踏切に業を煮やしてつくった、不動坂から大坂上間の全長4.2㎞の道路。
※2 PX・・・Post Exchangeの略称で、アメリカ軍施設内の売店のこと。
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