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最終更新日 2025年4月22日

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「谷戸から都市へ」東戸塚の変わる風景と思い出

常盤様写真
常盤 欣二さん(83歳) 2024年インタビュー当時

戦後の東戸塚のお話をお聞かせください。

 私は1941(昭和16)年、品濃町に生まれました。現在東戸塚駅がある辺りは、旧東海道から、谷戸をつなぐ道が伸びているようなところでした。私は川上小学校出身ですが、昔の川上小学校は現在の秋葉町ではなく柏尾町にありました。現在山崎製パン横浜第一工場のある辺りです。小学一年生の時、平戸町にある、戦時中に使っていた会館が旧川上小学校の「北部分校」になりました。舞岡の、現在神奈川中央交通の車庫がある近くの丘には、「南部分校」がありました。北部分校に通うのは、品濃と平戸の子どもです。私たちの時は小学校1年生の一年間だけ北部分校に通い、2年生から本校に通いました。今、シーアイマンションがあるところはもともと山だったので、その山を越えて旧川上小学校に通っていました。

 私が子どもの頃、川上川にはフナやウナギがいました。現在、東戸塚駅前の川上川は暗渠になってるところが多いのですが、ちょうど品濃町交差点のあたりで川上川は支流と合流しています。子どもの頃の遊び場はちょうどそのあたりでした。当時川沿いに植えられていたエゴノキには、春に白い花が咲きます。エゴノキの小さな実をすりつぶして、川に流して魚捕りをしました。魚が目を回して浮いてくるのです。岸に寄ってくるウナギも捕れたので、家で大きな樽に入れて、2~3日かけて毒を吐かせてから食べました。今でもよく覚えているのですが、上流からエゴノキの毒が流れてきたときに、見たこともないくらい太いうなぎが浮いていたことがありました。これを取り逃したのが本当に悔しかった。逃がした魚は大きいと言いますが、悔しくて、悔しくて、3時間か4時間、あちこち探し回ったほどです。夏には、せせらぎの中に川魚が泳いでいるのが見えるので、当時「ヤマベ」と呼んでいた川魚にそっと近づき、素手で捕まえていました。私は仲間の中でも魚を捕るのが上手かったんですよ。

昭和30年代の東戸塚周辺の図
昭和30年代の東戸塚地域【横浜市地形図複製承認番号 令6建都計第9117号】

 川上町も平戸も当時よく遊んでいたエリアでしたが、平戸は国道の辺りまでで、国道の向こう側にあまり行きませんでした。うちは、お正月やお盆は、谷宿の親戚の家と行き来していました。東戸塚から境木にあがる旧東海道沿いの辺りが谷宿です。地名に谷宿は残っていませんが、町内会では今でも「谷宿1組」「谷宿2組」と、呼んでいます。

区画整理で印象に残っていることはありますか?

 東戸塚駅ができることと周辺の区画整理は切り離せないものでした。区画整理をしてからやっと、地域の悲願だった駅をつくることができるのです。私の家は開発の推進派でしたが、区画整理に反対している人も多くいました。 農家も多かったので、駅ができることには賛成だけど、開発のために土地が2割減歩になるのを嫌がる家が多かったのです。当時、地域の農家は、リヤカーを引いて井土ヶ谷や保土ヶ谷まで野菜を売りに行っていました。うちでも、母が畑でつくった野菜を井土ヶ谷で売るために兄が送り迎えをしていました。引越坂(南区)を徒歩であがるのは大変でしたから、私も自転車で迎えに行ったものです。懐かしいですね。

東戸塚駅の誘致は住民の悲願だったと聞きました。

「武蔵」の駅名案は、親父の代、大正時代からの構想でした。東戸塚の区画整理前から駅をつくることを目指していたそうです。つい最近になって、境木本町に駅をつくる案があったことを知りました。再開発当時、私たちは境木に駅をつくる話は聞いておらず、今の場所に東戸塚駅をつくるのが当たり前だと思っていました。

 1980(昭和55)年、私が39歳の時に東戸塚駅ができて、本当に便利になりました。親の代からの悲願でもあった駅の開業は嬉しかったですね。東戸塚駅ができるまで、駅へ行くには国道1号まで出てからバスに乗っていました。私が東京方面に通勤していたときは、バスで南区の弘明寺まで行き、そこから電車に乗っていたものです。バスの便数は多かったのですが、道路の渋滞がないので時刻表通りに来ていましたよ。今より車の交通量が少なかったのでしょうね。この辺りはホタルが多くて、夜、国道1号から現在の東戸塚駅方面への帰り道はホタルをかき分けて歩くほどだったのを覚えています。

 駅ができてからしばらく、駅前は空き地のままになっていて、芸能人を呼んでイベントをやったこともありました。今のように大きな商業施設はまだなく、日用品の買物は駅西口にあった新一ストアを使っていました。平戸の商店街や川上町の団地の北にある川上商店街なども地域の人によく利用されていましたね。新一ストアは、駅前開発をするにはスーパーが必要だと、新一グループ(※)がつくってくれたものです。

 最近解体されてしまいましたが、東戸塚駅西口の第一生命ビル(2024年に解体)で集まることもよくありました。あのビルは西口で一番早くできたのではないでしょうか。2000年頃にできた第一生命のビルには一般の人でも利用できる宴会場もあって、町内会の集まりで使わせてもらうこともありました。

 昔の風景が時々浮かびますが、今は、便利でいいまちになったと感じています。買い物をできるところが近く、駅もあります。今日はオリンピックに買い物に行こうとか、西武行こうかとか、行くところがいっぱいあります。東戸塚駅で全ての用事が済むので戸塚駅に行かなくなりましたね。

※新一グループ・・・昭和40年代の東戸塚駅周辺の区画整理事業から現在のまちづくりに至るまで、地域を主導してきた地域密着型の不動産開発グループ

このページへのお問合せ

戸塚区総務部区政推進課

電話:045-866-8321

電話:045-866-8321

ファクス:045-862-3054

メールアドレス:to-kusei@city.yokohama.lg.jp

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