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西区歴史さんぽみち 概要
最終更新日 2019年1月17日
※こちらの冊子は配布を終了しております。ご了承ください。
旧東海道
昔、現在の横浜駅の一帯から、久保町方面にかけては、袖ヶ浦とよばれた内湾であった。旧東海道は、神奈川宿から海に沿って(現在の楠町から浅間町)保土ケ谷宿へ通じていた。あたりは静かな入り江に白帆が浮かぶなど、大変景色のよい所として有名であった。
江戸時代、街道沿いの宿と宿の間には、人足や馬の休憩場所としての立場(たてば)があった。神奈川宿と保土ケ谷宿の間の芝生村(しぼうむら・現浅間町)は、この立場として発展した村で、農場のほかに飯屋や酒、わらじの販売など商業も営まれていた。
横浜道
安政5年(1858)6月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めた。
しかし、ミナト横浜の街づくりは開港3ヶ月前の3月になって、やっと工事が始まるという状況であった。当時は、東海道筋から横浜への交通は非常に不便であったため、幕府は東海道筋の芝生村(しぼうむら・現浅間町交差点付近)から横浜(関内)にいたる「横浜道」と呼ばれる道路を開いた。(当時、東海道と連絡するには、保土ケ谷から井土ケ谷、蒔田を通るか、神奈川からの舟運しかなかった。)
この道は、芝生村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路を築くとともに、新田間(あらたま)、平沼、石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切り通しを開き、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けたものだ。
記録によると、当時の橋の幅は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同等の幅員であったと考えられる。工期3ヶ月の突貫工事で、橋材は欄干には杉を、杭には松を使用した。
新開地横浜への主要道路として大いににぎわい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、今では住時の面影をわずかにとどめるのみである。
保土ケ谷道
戸部村と保土ケ谷宿との往来に使われたのが保土ケ谷道である。この道は、戸部町の稲荷神社の庚申塔からくらやみ坂を通り、西前町交差点で左折して願成寺門前へ出たあと藤棚地区商店街を通り過ぎて、JR東海道線を越え、保土ケ谷区岩間町大門通りで東海道に合流する。
また、戸部町の稲荷神社から東へは、野毛切り通しを通って野毛坂を下り野毛浦に達していた。
案内サインの整備
上記三つの古道沿いに、区民の皆さんからも意見をもとに整備を進めました。
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