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幻の茅ヶ崎八景

最終更新日 2023年12月28日

はじめに

茅ヶ崎八景は、都筑区にかつてあった8つの名勝です。大正時代まではその景色を望むことができましたが、今ではもう見られない幻の八景です。これらの画は、都筑区在住の宮崎雄二氏(故人)が「茅ヶ崎八景」の風景を思い起こし、昭和60年に描いたものです。平成26年11月、宮崎氏が描いた茅ヶ崎八景の画をお借りし、都筑図書館の郷土資料展で展示させていただきました。また「茅ヶ崎八景講話」として、『古里茅ケ崎村小史』の著者の吉野勇氏が、茅ヶ崎八景について解説を行いました。
今回宮崎氏のご家族の了承をいただき、都筑図書館のHPに掲載させていただくことになりました。画で見る幻の八景をごゆっくりお楽しみください。さらに都筑図書館では「茅ヶ崎八景」があったと推測される地点を写真撮影しました。「茅ヶ崎八景」があった場所が現在どのように変わったのかも是非ご覧ください。

「茅ヶ崎八景」とは

茅ヶ崎八景とは、江戸時代の終わりに、茅ヶ崎町の金子家から岸家に養子に入った岸宇作という人が、近江八景になぞらえて、
茅ヶ崎村の景色のうち勝すぐれた風物や地点を八ヶ所選んだものです。大正時代までは実際の風景を楽しむことができました。

茅ヶ崎八景は、以下8つの名勝からなります。
〇「谷の中の螢と堅田の落雁」 夏の夜は蛍、秋の稲刈後は落雁の名所。
〇「清水の夕照」 秋の紅葉で美しい景色。
〇「境田の暮雪」 しんしんと降る雪が真っ白で美しい景色。
〇「四五六峠の夜の雨」 雨によって一層寂しさを感じた。
〇「正庵の一本松」 樹齢数百年の黒松の老木。
〇「大塚の青嵐」 梅雨の晴れ間に吹く風が、緑を際立たせた。
〇「観音の晩鐘」 雨の日も風の日も時を知らせる鐘として村に響いた。
〇「城山の秋の月」 城山にかかる名月が見られた。

「茅ヶ崎八景」

谷の中の螢と堅田の落雁

現在は、住宅地が立ち並ぶ
現在の写真

下耕地一番地勝田町境から二八〇番地先までの荒磯川と早渕川に囲まれた水田約五町歩の場所が、夏の夜は螢、秋の稲刈後は落雁の名所であった。明治・大正年間は稲作に農薬の使用がなかったため、五月の中頃から八月の終りまで、数十万の螢が飛び交う様は現在の街路灯以上の明るさであり、螢見物の人とあいまって美しい眺めであった。稲の刈り取り後は、たにしやどじょうがたくさんいたためか、シベリア大陸や樺太などの北国から南下してきた雁が一冬をこの地方で過し、その飛ぶ姿は一幅の絵を見るようであった。
『港北百話』より

清水の夕照

茅ヶ崎の大原に農業用水池がある。その池に入る水とこれから流れ出る荒磯川(字名貝塚)にそって、標高十五米~二十米の丘が、大原にある大塚の峰に続く。落葉樹の多いこのあたり一帯は、秋になると紅葉の夕照が美しく、荒磯川を流れる清水とともに、絵となり歌となって残された風景の一つである。
『港北百話』より

境田の暮雪

境田橋から矢崎橋までの早渕川右岸に沿った字境田全域は、近年積雪のない年が多いが、底冷えのする日が四・五日続いたあとの大雪となると、当時は二尺から三尺もつもり、こうしたことが一年に二・三回あった。白一色になった田畑や山裾をぬって、細い二間幅の道が茅ヶ崎村から荏田村に通じていた。人が歩くにも、腰まで雪ではどうにもならない。川向の大棚村にある藁屋根からは、夕餉の煙が立ちのぼるのも降雪のため見えない。早渕川の土手は、左右両岸とも真竹が密生していたが、先端はみな雪の重みで地についている。時折ポーンという竹折れの音と風の音以外は聞こえない雪の暮、他の地区では見られなかった境田の暮雪であった。『港北百話』より

四五六峠の夜の雨

字中丸一、七八四番地に人工の茅ヶ崎富士がある。標高七四・二一米で、現在、国土地理院の水準点が置かれている。緑区荏田町・東方町にも接している。ここには二十六夜塔(文政五壬午年七月吉日)茅ヶ崎村と刻まれた塔と並んで富士浅間大神の塔がある。台石正面には本一講社とあり、台の左右横に明治十八酉年七月吉日、講中世話人として鈴木藤右ヱ門・小山勝五郎・田中千代松・金子甚兵衛・北村龍蔵・小泉源左ヱ門・北村角蔵・飯塚辰五郎・深川兵吉・田中紋十郎・池田慶次郎・岸順蔵・米山徳次郎・吉野金次郎・佐藤米吉・市川勘右ヱ門と先人十六名が刻まれている。字中村にある明王山自性院の谷戸から中丸を経て富士に登山するまでを四五六峠という。道の両側は広葉樹林や松林に囲まれたり、あるいは切り通しになっていて、夜ともなれば犬さえ通らない寂しい野道である。この野道に五月雨とか六月の長雨とか、どの季節の雨をとっても、四五六峠は夜の雨が周囲の風景とあいまって一層寂しさを増した。『港北百話』より

正庵の一本松

字中村一八一五番地にあり、現在飯塚家の墓地のある所である。中丸にある茅ヶ崎富士に至る四五六峠を上り切った右側の小高い場所にあった樹令数百年の黒松で、目通り二丈六尺、枝下が短く枝張が良かった。以前この老木を切ろうとして鋸を入れたところ、数条の血が流れ出して一時切ることをやめたというが、ようやくにして倒して見たら空洞になっていて、多くの蛇が冬眠していたという。その後二代目松を植えたが、昭和の中頃松食虫の被害にかかり、切り倒されて現在は昔日の面影はない。『港北百話』より

大塚の青嵐

字大原一四九〇~一五〇〇番地位の地域。現在は緑区東方町に隣りして、東は勝田町に接してバス停大塚原がある。大塚は、茅ヶ崎ばかりでなく各地に散在する塚である。村の境界と万位を兼ねて作られた人工塚だといわれるが、確実にこれを裏付けてくれる資料がないのでわからない。この大塚より北西に十三菩提塚などもある。現在、丸子中山茅ヶ崎線付近の大塚原は、工場や一般住宅が立ち並び当時の様を知るべくもないが、少し奥へ入って人里遠くはなれた大塚原は、雑木林が続く山街道である。山の青葉が梅雨に入ってから一層緑を増した頃、梅雨の晴間に吹く風を大塚原の青嵐とはよく名付けたものである。『港北百話』より

観音の晩鐘

字中耕地五九一番地、茅ヶ崎のほぼ中央に西国三十三番小机領札所第十九番の正観世音菩薩を安置した観音堂がある。この観音堂には小さな庫裡があり、ここに寺守りの僧が住んでおり月に一回ずつ村中を托鉢してまわって生活していた。ちゃんとした名前があるのだが、人々はこの僧を観音坊と呼び、村人からかわいがられ親しまれていた。堂の軒には鐘が釣り下っており、雨の日も風の日も一日としてつくのを欠かした日とてなく、夕日の沈む頃ともなれば三十位、鐘をついたものだ。その鐘の音を聴いた田畑の農夫たちは、妻を家に帰して夕食の準備にかからせた。その鐘も、大東亜戦争の初期、国策に沿って拠出されて今はない。『港北百話』より

城山の秋の月

城山(茅ヶ崎城)は、字東前六二○番地~六三九番地に至る地域である。城山の松の上や雑木林に名月がかかったところは、中耕地から見る月、中村から見る月、東前からの月、どこから見ても名所の一つに数えられただけあって、美しいものである。『港北百話』より

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メールアドレス:ky-libkocho14@city.yokohama.jp

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