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朝夷奈切通

最終更新日 2021年12月22日

国指定史跡「朝夷奈切通(あさいなきりどおし)」

朝夷奈1の写真
鎌倉市との境にある大切通(高さ約18m)

朝夷奈2の写真(画像:26KB)
横浜市側の小切通(高さ約16m)


【概要】

◇位 置: 横浜市金沢区朝比奈町字峠坂1番地、鎌倉市十二所

◇史跡指定の履歴
【1】昭和44年(1969)6月5日 面積:6,600平方メートル
名称: 朝夷奈切通
地域:(横浜市側)横浜市道六浦1号線のうち、鎌倉市との境界から330m地点までの道路敷、及びその両側20m範囲
(鎌倉市側)鎌倉市道101号線のうち、横浜市との境界から約1キロメートルまでの道路敷及びその両側5~20m範囲

【2】平成20年7月28日(横浜市域分追加指定) 40,792平方メートル
地域:既指定地の北側、やぐら群や石切場を含み切通道から視野に入る次の尾根まで、南側は熊野神社一帯を含む切通道沿いの谷線まで、東側は高速道路の手前まで史跡景観が保たれている範囲を追加(横浜市域分計 53,992平方メートル)

【説明】

文献上の記録としては、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』仁治元年(1240)11月30日の項に鎌倉と六浦(むつら)との中間に道路を開く議が定まり、時の執権第三代北条泰時が自ら足を運んだとある。開削工事は、翌年4月5日に着手された。六浦津(むつらのつ)は風浪を防ぐ天然の良港で、切通の開削により北条氏は鎌倉の外港としてこれを利用した。泰時は、この重要な地を弟の北条実泰(さねやす)に与えた。実泰の子実時(さねとき)はこの地に館を構え、以後、顕時(あきとき)・貞顕(さだあき)・貞将(さだゆき)と四代にわたり金沢氏(かねさわし)を称し、称名寺と金沢文庫を創建して発展させた。六浦津は、北条氏滅亡後も海上交通の要衝として栄え、近世期には入り江付近の景観は金沢八景と称賛され、多くの文人墨客がここを訪れた。
切通は、鎌倉と六浦の地を結ぶ重要な交通路であり、六浦や釜利谷で生産された塩なども切通を通って鎌倉に運ばれた。鎌倉・十二所(じゅうにそ)の光触寺(こうそくじ)に伝来する塩嘗地蔵は、もと金沢街道沿いにあったといい、商人たちの盛んな往来を物語っている。江戸時代、各種の鎌倉案内絵図に「金沢道きりとうし」「アサイナ切通シ」「峠坂切通シ・金沢道」などとある。明治前半期の古写真には頂上の大切通に茶店が写されており、佐藤善治郎著の『鎌倉大観』(明治35年)にも茶店の紹介がある。江戸期を通じて麓の村民たちにより道普請が繰り返し行われ、切通の入口付近に数基の供養塔が残っている。
切通は、昭和31年(1956)に切通を迂回する金沢鎌倉線の開通まで県道として利用されたが、その後の周囲の開発も切通し道を破壊するまで至らなかったため、往時の姿を比較的良くとどめている。
昭和44年(1969)、いわゆる「鎌倉七口」、七切通の一つとして、鎌倉の地勢と外部との連絡状況を示す貴重な史跡であるとの理由で国の史跡に指定され、その後鎌倉市域の追加指定と相前後して、平成20年(2008)に切通の周辺地域が追加指定された。

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電話:045-671-3284

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