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称名寺

最終更新日 2018年8月22日

国指定史跡「称名寺境内」

称名寺の写真

【概要】

◇位 置:横浜市金沢区金沢町212番地1ほか

◇史跡指定の履歴
【1】大正11年(1922)10月12日 面積 63,956平方メートル
名称:「称名寺内界附、金沢氏墓及開山審海上人以下世代塔」
理由:当時の建造物は総て頽廃に帰したが、土壇・土塁・溝渠・苑池等は残存し、我が国における律宗寺院結界の跡が最も良く保存されたものの 一つである。また、結界外の寺域にある実時以下の金沢氏一族、及び開山審海上人以下世代の五輪塔又は宝筺印塔は当時の墓 制を見るに足るものである。

【2】昭和47年(1972)1月31日 面積 91,289平方メートル
名称:「称名寺境内」(変更)
理由:大正11年時の指定は、元亨3年(1323)「称名寺絵図並結界記」 (称名寺蔵、重要文化財)による清浄域の範囲を指定したもの。 元々の境内地はこれより広く、周囲の山域及び総門から仁王門に至る塔頭地域を追加指定し、併せて名称を称名寺境内に変更した。

◇管理団体指定
大正12年(1923)12月23日 神奈川県久良岐郡金沢村
昭和11年(1936)10月 1日 横浜市(金沢村が横浜市に編入)
昭和25年(1950) 8月29日 横浜市(新法による継続指定)

【説明】

称名寺は、金沢山(きんたくさん)称名寺。真言律宗、別格本山。金沢(かねさわ)北条氏の菩提寺である。称名寺の創建年は明らかでないが、北条実時(ほうじょう さねとき)(1224~1276)が六浦荘の居館内に阿弥陀三尊を祀った持仏堂から発展したものという。実時は、正嘉2年(1258)に持仏堂で潅頂の儀式を受け、また翌正元元年(1259)頃に称名寺を建立したとの記録がある。実時は、鎌倉幕府二代執権北条義時の孫で、引付衆や評定衆など幕府の重職を歴任して北条得宗家を政治的に支えるとともに、学問に造詣が深く、収集した和漢の書籍を鎌倉から六浦に移し金沢文庫の基礎を作った。実時は、奈良西大寺の叡尊(えいそん)に帰依し、称名寺をそれまでの念仏宗から真言律宗に改め、下野国薬師寺の審海上人(しんかいしょうにん)(1232-1304)を迎えた。実時の子顕時(あきとき)(1248~ 1301)は、寺内外の土地を寄進し、本尊弥勒菩薩立像(重要文化財)を建立、顕時の子貞顕(さだあき)(1278~1333)は伽藍の再造営を行って寺の拡充・発展に尽くした。元亨3年(1323)の「称名寺絵図」は、中央の苑池を囲み、金堂や講堂、鐘楼、仁王門など七堂伽藍を備え、当時の壮麗な寺観を伝えている。特に、南の仁王門から池を東西に分けて反橋、中島、平橋を渡り金堂に至る形式は、平安中期以降盛んに築造された浄土式庭園の最後の遺例として貴重とされる。
元弘3年(1333)北条氏滅亡後は、後醍醐天皇や鎌倉公方、豊臣秀吉、徳川家康ら時の権力者の庇護を受けたが、寺運は回復せず、江戸期には大きく衰退した。
昭和53年(1978)度から10カ年にわたって称名寺庭園・苑池の発掘調査と保存整備事業が行われ、「称名寺絵図」に基づいて昭和60年度に平橋、61年度に反橋が復元され、翌年にかけて庭園の復元的整備が行われた。しかし、その後の風雨等の影響で橋が劣化・腐朽したため、平成19年度に平橋、20年度に反橋の架け替えが実施された。

【アクセス】 ※称名寺には駐車場がありませんので、下記公共交通機関をご利用ください。

・京急「金沢文庫」駅東口より徒歩約15分、または「柴町」行バスで「称名寺」下車
・金沢シーサイドライン「海の公園柴口」駅より徒歩約15分

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教育委員会事務局総務部生涯学習文化財課

電話:045-671-3282

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ファクス:045-224-5863

メールアドレス:ky-syobun@city.yokohama.jp

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