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第十三話:妙光寺(みょうこうじ)梵鐘(ぼんしょう)の由来

最終更新日 2024年3月15日

「妙光寺梵鐘」の民話のイラスト

 上瀬谷の妙光寺はそのむかし(弘安五年九月十七日)日蓮上人が池上に行かれる途中、一宿された霊場として知られています。この寺の梵鐘(ぼんしょう)は鎌倉時代(正中二年)の作で、今は神奈川県の重要文化財になっていますが、この鐘についてこんな話が残っています。
 五百年以上もむかしのことですが、瀬谷の郷を治めていた山田伊賀守(やまだいがのかみ)入道藤原朝臣経光(にゅうどうふじわらあそんつねみつ)という人がいました。当時は山之内の庄、世野の郷といって、今の大和市と瀬谷とが一つの郷になっていたのです。この山田伊賀守入道はたいへんな力持ちで知られた人でしたが、また碁が好きで、隣りの恩田村の万年禅寺の通周和尚とは碁敵で、よく碁を打って楽しんでいました。万年禅寺は禅宗のお寺ですが、山田伊賀守入道は法華宗(日蓮宗)の熱心な信者でありました。だから、時には法論に花が咲きます。
 ある日、万年禅寺で碁を楽しんでいた二人は途中から宗教論議を始めました。碁の方がおろそかになってきたので
「今日はもう碁は止めにして、法論で決着をつけようではないか。」
ということになり、その勝敗に何かを賭(か)けることにしました。
「それでは私は鎧兜(よろいかぶと)と腰の大小を賭けよう。」
と伊賀守入道が言いますと、通周和尚は
「私は寺の梵鐘と半鐘(はんしょう)にしよう。」
と話が決まり、火の出るような熱論となりました。しかし、なかなか甲乙がつきません。ながい問答のすえ、山田伊賀守入道の問いに通周和尚が答えにつまり、とうとう入道の勝ちとなりました。
 そこで、約束どおり、梵鐘と半鐘を取りはずした山田伊賀守入道は半鐘を冠り、梵鐘に綱をつけてずるずると引いて瀬谷に帰ってきました。そして、その鐘を日頃信仰している妙光寺に寄進したのです。
 いよいよ鐘楼もできあがり、鐘を掛けて撞(つ)いてみましたが、万年禅寺にあった時のような良い音が出ません。ものさびしげな涙声で泣くような音色なのです。そこで、
「無理にはずして持ってきたのできっと恩田の寺へ帰りたいのだろう。ひとつこの鐘の供養をしようではないか。」
ということになり、山田伊賀守入道たちは恩田から万年禅寺の通周和尚もまねいてねんごろな供養をしました。しかし、音色は再び元のようにはなりません。
 今でもこの鐘を撞くと、ゴーンダ、ゴオンダと聞こえるそうです。山田伊賀守入道が恩田から引きずってきた時、鐘のいぼがすり減って、その音色が変ったのでしょう。今でも山田伊賀守入道がいたという城跡が大和市一之関に残っていますし、長堀とか馬場屋敷、山田橋、牢場坂(ろうばさか)等の地名もあります。
 万年禅寺の通周和尚はその後、妙光寺第十二世日達の弟子となり、名を日栄と改め、妙光寺十三世を継がれ、二山一寺を守ったということです。



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メールアドレス:se-kyoudou@city.yokohama.jp

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