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よこはま地価案内 情報編1 戦後の都市開発と地価

最終更新日 2019年2月20日

日本の人口は、2005年に減少の局面を迎えるまで、第二次世界大戦前後の一時期を除いて、一貫して増加してきました。増え続けた人口は、働く場所や住む場所を求めて都市部に集中し、人口の急増とともに都市化が進展したのです。

1955年以降、地価は35年間にわたってほぼ上昇を続け、この間に急激な地価上昇が三回にわたって起きました。地価の上昇が起きてから次の上昇が訪れるまで、その周期は概ね12年から14年と言われています。
これらの上昇は、金融を始めとする経済や景気変動、都市化の進展による開発需要などと、それに対する期待が加熱した結果引き起こされたものでした。

特に、1980年代後半から始まった第三回目の地価高騰では、東京を中心とする都市部だけでなく、その影響が郊外部へも一気に拡大し、全国的に地価が高騰したのです。
急激な地価上昇とその後に起こったバブルの崩壊は、その後の街づくりにも、影響を与えました。

第一回地価高騰(1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年))ごろ

高度経済成長期を迎えて

戦後の好景気「神武景気」「岩戸景気」を背景に、「所得倍増計画」が発表され、高度経済成長期を迎えました。
全国的に工業地の需要が増大し、この需要が、第一回地価高騰を引き起こしました。
六大都市市街地価格指数では、1961年に工業地の一年間の変動率が88.3パーセントを示し、最高の上昇率を示しました。

横浜市の動き

大規模な工場誘致が行われ、工場建設用地のために鶴見沖や根岸湾が埋め立てられ、横浜港の工業港化が進みました。工業地が広がったことで、働く場所の近くに住宅を求める人たちが増え、市内を走る各私鉄の延伸も進み、住宅地も拡大していきました。
1954年過ぎから市の南部では、根岸湾沿いの京急沿線での大規模な住宅開発が始まっていました。1960年から1967年に掛けて、公社、社宅などが一団となって開発された約4,000戸の磯子汐見台住宅が出来上がりました。
北部でも、市営住宅団地十日市場団地(緑区)など大規模な団地開発が開始されました。1960年ごろからは、東急田園都市線の敷設に合わせて、区画整理による住宅地の開発も進められました。
横浜に住む場所を求めてやって来る人たちは増え続け、1962年には人口は150万人を突破しました。
この時期、市政100周年を記念したマリンタワーが1961年にオープンし、港の見える丘公園が完成するなど、街もにぎわいを見せていました。また、1964年の東京オリンピック開催に合わせて、首都圏を中心とする高速道路や鉄道が一挙に整備され、東海道新幹線新横浜駅が開業しました。

第二回地価高騰に向かって

第一回の地価高騰の後、「オリンピック景気」から「いざなぎ景気」と好景気が続く中、街づくりに関係した法律として、都市計画法や都市再開発法などが制定されました。また、合理的な地価を形成する必要性から、70年に第一回目の地価公示が公表されました。
横浜市の平均地価公示価格(注釈1)は、1平方メートル当たり住宅地32,700円、商業地393,300円でした。また、調査地点数も住宅地45地点、商業地10地点と、現在の15分の1程度の数しか置かれていませんでした。

横浜の街も急激に変わっていきました。
横浜市は、急変する街で暮らす人々に向けて、1966年「横浜国際港都建設総合計画1965-1975」を発表し、「港湾都市・工業都市・住宅都市から国際文化管理都市へ」という横浜の将来の都市の姿を示しました。前年に発表された「横浜の都市づくりの将来計画の構想」六大事業(注釈2)が盛り込まれたもので、横浜の都市の骨格を創り上げる内容でした。
この構想に基づき、港北ニュータウン建設事業、大黒ふ頭・金沢地先埋立事業が次々と着手されました。

1968年には200万人を超えた人口を背景に、加速する無秩序な住宅開発を防止し、必要とされる公共施設用地を確保するための「宅地開発要綱」が制定されました。

  • 注釈1:平均地価公示価格は、調査地点の土地価格の平均です。
  • 注釈2:「都心部強化」「港北ニュータウン建設」「金沢地先埋立」「高速鉄道(地下鉄)建設」「高速道路網建設」「横浜港ベイブリッジ建設」

第二回地価高騰(1972年(昭和47年)から1973年(昭和48年))ごろ

列島改造ブームの中で

1968年に完成した霞ケ関ビルを皮切りに、東京では高層ビルが建ち始め、アークヒルズのような巨大な都市開発の構想も発表されました。
1970年には大阪万博が開催され、ニクソンショックの影響や列島改造ブーム、沖縄の復帰、札幌オリンピックの開催など、日本全国が活性化し、狂乱物価が生み出されました。
1970年に始まった地価公示制度によると、横浜市の地価は、1971年から1974年にかけて、住宅地では平均で1平方メートル当たり3万円台後半から6万円台後半へと2倍近く上昇し、商業地では場所により30パーセント近くの上昇を記録しています。また東京でも地価が2倍になりましたが、全国的には住宅や商業地などの市街地の上昇よりも、山林の価格が急上昇していることが特徴でした。この地価高騰はオイルショックがあったことで沈静化しました。

人口急増都市・横浜

この時期、郊外の街での大規模な住宅開発は止まることなく行われ、横浜は全国一の人口急増都市と言われました。
南部方面では、世帯数2,000戸を超えるドリームハイツ(戸塚区)がしゅん工、国鉄(現:JR)根岸線が1973年に全線開業し、沿線には住宅・都市整備公団(現:都市再生機構)が開発した洋光台、港南台などのマンモス団地や住宅地が次々と完成しました。また、市域中央から西部でも、相鉄線二俣川駅周辺などにニュータウンが開発され、いずみ野線(1976年開業)の住宅都市(緑園都市など)の計画が明らかになりました。
1973年に人口は250万人を突破し、わずか5年間で25パーセントも急増しました。一年間で、平均して10万人ずつ増えたことになります。
人口が急増し、都市開発が激化する中、ごみ、道路交通、環境破壊、水資源、学校など公共用地の確保など、街づくりを進めるため解決しなければならない課題が浮かび上がってきました。
この課題を「五大戦争」と称し、これらに対応して環境を維持し、住みやすい街づくりを進めました。
1973年には「横浜市基本構想及び横浜市総合計画1985」が策定され、その後の横浜の都市づくりが明確なものとなりました。

国土利用計画法の制定

第二回の地価高騰の後、1974年に、国土利用計画法が制定され、土地取引に関しての許可や届出制度が施行されるようになりました。

第三回地価高騰(1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月)ごろ

バブル到来

プラザ合意をきっかけとする全国的な金余り現象を背景に、1983年ごろから都心三区を中心に地価が上昇し始めました。
東京では、午前に買った土地が午後には2倍になると言われるほど地価が高騰し、西新宿のある土地では、1983年7月から土地の転売が繰り返され、2年8か月後の1986年3月には、28倍の価格に当たる坪当たり3,150万円で取引されたことが、当時の新聞に掲載されています(注釈1)。
都心での土地の供給が少なくなった結果、価格競争が過熱し、購入需要は冷めることなく、都心部周辺へと広がり、みるみるうちに土地の買い占めが、周辺地域へ波及し、ついには地価の上昇が、日本全国へ広がりを見せました。
同じ時期には、本州四国連絡橋(瀬戸大橋)や青函トンネルが次々に完成し、日本列島の四島が結ばれ、国土全域にわたる巨大な交通網が目に見えるものとなりました。このことが、一層開発意欲と土地購買意欲の両方をかき立てることにもなり、また、総合保養地域整備法(リゾート法)による大規模な開発プロジェクトも、地方での土地需要を後押し、地価の更なる高騰をもたらす一因になったということが言われています。

横浜での状況

高額な土地取引は、横浜でも多発しました。当時の状況を、住宅地の平均地価公示価格で追ってみると、1987年から急激な上昇傾向が現れ、翌年には変動率が93.1パーセントという過去最高の数値になっています。これは、一年間で地価がほぼ2倍になったことを示すものです。
バブルの絶頂だった1991年には、住宅地での地点最高価格は1平方メートル当たり142万円(中区山手町)となり、商業地での地点最高価格は2,140万円(横浜駅西口)を記録しました。
2009年地価公示では、それぞれ1平方メートル当たり49万円(住宅地)と610万円(商業地)ですので、単純に比較しますと、3倍から4倍以上も高かったことになります(注釈2)。

横浜では、1985年に人口が300万人を突破しました。1989年には横浜ベイブリッジが開通し、工場団地として計画された金沢区の埋立地では、新交通金沢シーサイドラインが開業するなど、ダイナミックに街づくりが進んでいました。
みなとみらい21事業が着工していたみなとみらい地区では、都市を活性化させるイベントとして、市政100周年開港130周年を記念する横浜博覧会(YES`89)が、1989年に開催され、1,300万人の来場者でにぎわいました。

バブル崩壊とその後

急上昇した地価は、不動産関係の融資に対する総量規制を始めとする国の施策の影響から、一気に下落しました。
地価を担保にしていた株価や証券なども急落しました。これがバブルの崩壊と言われるものです。このバブルの崩壊は、わたしたちの生活にも、大きく影響を与えました。
わたしたちは「土地神話」が崩れたことで、意識と暮らし方の両方について、転換させられることになりました。
バブルより前の価格を基に計算された財産の価値は否定され、資産運用の見直しを迫られました。期待価値を当てにしたことで生じた膨大な負債の処理などが優先された結果、経済活動はブレーキを掛けられた状態になりました。
バブルの崩壊によって、経済的な活動が冷え込んだ時期は「失われた10年」などといわれています(注釈3)。
本市においても、施設整備の遅れを始めとして、様々な影響がありました。

  • 注釈1:「朝日新聞」1989年12月14日
    なお、参考として、2009年地価公示の最高価格は、中央区銀座の1平方メートル当たり3,820万円です。
  • 注釈2:住宅地は近接地点、商業地は同一地点です。
  • 注釈3:バブル崩壊後の、長期の景気低迷期を指し、1990年代初め頃から2003年前後ぐらいまでの期間を言うとされています。

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都市整備局企画部企画課

電話:045-671-3953

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ファクス:045-664-4539

メールアドレス:tb-kokudo@city.yokohama.jp

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