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解説(戦時下の生活)
最終更新日 2022年5月11日
「満州事変」が勃発すると、前線兵士への慰問や飛行機・高射砲等の献納運動等が流行となった。この時期になると、しばしば大規模な防空演習が実施され「準戦時体制」が形成されていった。
日中戦争に突入すると、市民生活は物心両面から厳しい制約の下に置かれた。昭和15(1940)年6月からは生活必需品が次々と配給制となり、政府の指示を末端に伝達するために「隣組」などの組織が整備された。
戦局の悪化につれ、「臨時召集令状」いわゆる赤紙(あかがみ)によって、夫が、息子たちが、出征兵士となって戦場へと送られた。「英霊」の無言の帰還を出迎える葬列も日常の光景となった。
戦地に赴かない人々が銃後を守るため、様々な団体が組織され、「愛国婦人会」「国防婦人会」が出征兵士の見送りや慰問、献金運動に活躍した。さらに、男子の労働力不足を補うため、女性も軍需工場等に動員された。
小学校高学年以上の児童・生徒や学生たちが、「学徒動員」・「学徒出陣」により次々と生産の現場や戦場へと、駆り立てられたのである。
戦局が悪化すると、国民学校低学年の児童は空襲を避け、両親と離れて、見知らぬ土地での集団疎開生活を余儀なくされた。
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