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鶴見の産業

最終更新日 2020年6月1日

※掲載内容は平成11年3月に発行した冊子『つるみ このまち このひと』から一部を抜粋して紹介しています。この冊子は区民の方々による「つるみ このまち このひと」編集委員会が編集し、「いいまち鶴見運動推進委員会」が発行しました。
したがって、内容が現在と異なる場合がございますのでご了承ください。

鶴見といえば,京浜工業地帯の中核であり,工場からの煙と労働者のまちというイメージが今でも残っている。しかし,私たちの住むまち鶴見は,かつては農業や漁業で暮らしを営む静かな農漁村であった。海辺では,潮干狩や海水浴を楽しむことができた。

低地では米作り

古くから農業の中心は米作りである。鶴見でも,鶴見川流域が水田耕作の中心地で,碁盤目のように区画された水田が広がっていた。

しかし,鶴見川の水は満潮の時,海水が逆流してきて用水として利用できない。そのため,江戸時代には二ヶ領用水(矢向3丁目に用水路跡の石碑がある)がつくられた。また,谷戸にはため池があり,その代表的なものが現在の三ツ池や二ツ池である。

昭和32年頃の馬場町の水田地帯
<写真は昭和32年頃の馬場町の水田地帯>

三ツ池公園には「千町田に引ともつきじ君が代の惠みもふかき三池の水」という歌碑が建っている。二ツ池は獅子ケ谷と駒岡の境にある。元は一つのため池であったが,用水のことで二つの村の間で水争いが起こり,池の中央部に堤を築くことで決着し,現在の二ツ池となった。

谷戸でも,水田耕作が行われていた。特に北寺尾,馬場,東寺尾などの村には入江川が流れ,数十町歩の水田が開けていた。谷戸田は地形の関係で常時水がたまり,湿地となっていたため,地味が悪く収穫量は少なかった。

このように鶴見は,昭和30年代まで水田農業が行われていたが,都市化の波によって水田は年々減少し,現在では全く消滅してしまった。


立地条件を生かした畑作農業

西洋野菜は鶴見が先進地

上の写真と同地点の現在の景観
<商店や住宅立ち並ぶ、上の写真と同地点の現在の景観>

トマト・キャベツ・レタス・ニンジンなどの西洋野菜作りが行われるようになったのは,横浜開港後からで,鶴見は西洋野菜導入のはしりである。

トマト作りは,文久3年(1863),鶴見村の小松原兵左衛門が,神奈川の慶運寺にいたフランス領事の関係者から依頼を受け,苗を生育させ,付近の人たちに指導したのが始まりといわれている。

西洋野菜は居留地の外国人や外国船員たちの需要にこたえるためで,明治20年(1887)ごろには栽培農家は70~80戸に達し,西洋野菜の特産地として,全国的に有名になった。


鶴見の特産 寺尾大根とナシ・モモ

野菜のなかでも,寺尾の台地の水分の浸透がよい土質を利用して栽培された寺尾大根は,全国的にその名が知られるようになった。

ナシも鶴見を代表する果物であった。ナシ栽培は江戸時代から始まったが,しだいに多摩川流域に移り,最近では「多摩川ナシ」として有名になっている。

ナシに代わって,大正から昭和初期にかけ,モモが最も多く栽培された。鶴見川沿いの駒岡,上末吉,矢向が主産地で,モモの花が咲き誇るころになると,ピンクのじゅうたんを敷きつめたようになり,まさに桃源郷であったといわれる。

これらの果樹畑も都市化の波に押されて,しだいに減少し,水田と同じように全く姿を消す運命となってしまった。

地域に根ざした農業を

農業が衰退したとはいえ,鶴見の農家は,消費地のなかで野菜の生産ができるという有利な立地条件がある。そこで農家はさまざまな工夫をこらしてきた。その一つは生産者と消費者が,生産物の種類や数量・価格について話し合い,新鮮な野菜を直接消費者の手元に届け,消費者に喜ばれている。

また近年は,多くの家庭で花木を楽しむガーデニングが盛んになってきた。そのため,数軒の園芸農家(滝川園や永島園芸など)では,ビニルハウスで季節の花を栽培し,効率のよい農業を目ざしている。

誇り高い生麦の漁業

魚河岸通りの朝市のにぎわい
<写真は生麦の魚河岸通りの朝市のにぎわい>

生麦は魚河岸通りで開かれる朝市が有名である。ここには,すしダネを求めて各地のすし屋が集まるほどである。なぜ今は,漁港もない生麦に魚河岸通りが生まれたのだろうか。

東京湾に面している鶴見では,昔から生麦の浜が漁場として栄えてきた。それは江戸に幕府が開かれてから,江戸城に生麦の鮮魚を献上し,東京湾の漁業権を認められたからである。

明治時代になると,ノリやアサリの養殖が盛んになり,明治24年(1891)には,ノリの採藻戸数が生麦で329戸,潮田で460戸もあった。当時潮田のノリは,京浜市場で本場産の優等品と評価されたといわれる。

ところが,大正から昭和にかけて,次々と埋立地が造成され,多くの大工場が進出してきたため,昭和46年には生麦の漁業も終止符が打たれ,昔の漁村の光景は失せてしまった。


商業の発達

レアールつくので、WBAスーパーフェザー級チャンピオンになった畑山選手のパレードがおこなわれた
<レアールつくので、WBAスーパーフェザー級チャンピオンになった畑山選手のパレードがおこなわれた>

商店街としては,鶴見中央通りが,鶴見駅の開設(明治5年)とともに発展したのがはじめといえる。大正9年(1920)には鶴見駅西口が開かれ,花月園・総持寺を控えて,豊岡・佃野などの商店街が生まれてきた。潮田では工場へ通じる沿道に,食堂・バー・日用品市場・衣料品店など多くの商店が立ち並び,横浜市内でも屈指の商店街であった。

ところが,昭和20年4月の大空襲で,鶴見の市街地は焼け野原となってしまった。戦後は,駅前を中心に闇市と呼ばれる青空マーケットが生まれ,人々の需要を満たした。鶴見の商店街はこのころから形成され,現在に至っている。


浅野総一郎
鶴見の工業地帯は,広大な埋立地に立地している。大規模な埋立地をはじめて造成したのが,浅野総一郎である。そのため,総一郎は京浜工業地帯の生みの親といわれている。

生い立ちと成功するまで

浅野総一郎は嘉永元年(1848),富山県で生まれた。6才で父を亡くし,養子に出されて苦労しながら成長した。

明治4年(1871)24才の時,所持金37円で上京し,手はじめに元手もかからない水売りを始めた。後に横浜へ移り,みそ・しょうゆ屋へ奉公した。そのころ,もち菓子やすしを竹の皮に包んで売ることに目をつけ,竹皮屋を開業した。

明治6年,総一郎は薪炭・石炭の販売へ転じ,神奈川県庁や今の王子製紙などの大口の得意先を得て成功する。このおり,渋沢栄一に認められたことが,大事業家として成功する大きな転機であった。

その後,横浜ガス局が処分に困っていたコークスの利用法を考えて販売したり,横浜で最初の公衆便所を設置して,その人糞処理の権利を得,肥料として売りさばいて大きな利益を上げた。

浅野セメントの創設

魚建設中の浅野造船所
<写真は建設中の浅野造船所>

事業家として名を上げた総一郎は,渋沢栄一の紹介で,休業同様の官営セメント工場を払い下げてもらった。この工場の経営改善と資本投入により,販売実績を大きく伸ばすことに成功した。この会社が後の浅野セメントで,浅野財閥の基幹産業となった。

このころから,炭鉱,石油の輸入,肥料製造,造船などへ投資して,さまざまな事業にたずさわるようになった。


臨海工業地帯に着目

総一郎は明治29年に海運業に進出し,航路の選定と汽船発注のため,欧米の港湾都市を視察して回った。彼が目にしたのは,海に面した地域には大工場が立ち並び,岸壁には船が横づけされて,原料や製品の積み下ろしが能率よく行われている光景であった。これを見て総一郎は,臨海工業都市が今後の日本経済の発展に必ず必要になると確信した。

帰国後,東京と横浜の間の海岸を何度も調査した結果,交通の便がよく,遠浅で埋め立てやすい鶴見の海岸を最適地として選んだ。

明治41年,神奈川県に鶴見・川崎の地先約140万坪(457万m2)の埋立計画の認可を求めた。大工事のため県は難色を示したが,安田財閥の安田善次郎の協力を得て大正2年(1913)にようやく着工,昭和になって当初予定の埋立地が完成した。

総一郎は教育にも関心を寄せ,大正9年に子安台に浅野学園を創設した。この台地には総一郎の銅像が立っている。昭和5年82才で亡くなった。広大な墓所が総持寺にある。


まずは浅野総一郎から始まった

鶴見区の埋め立ては,江戸時代の末期から小規模ながら行われてきた。小野新田,添田新田などである。大正時代になると,浅野総一郎などによって,大規模な埋立工事が始まり,平成2年には大黒ふ頭の埋立地が完成した。70数年間にわたって造成された埋立地は,区の面積の約3分の1を占めている。

ここでは,埋立地造成の概略の歴史を,下の図を参考にしながらたどってみよう。

浅野総一郎は,東京と横浜の間で遠浅である潮田の地先を選んだ。浅野の理解者の一人である,安田善次郎たちの出資を得て,明治45年(1912)に鶴見埋立組合を設立した。しかし,漁業権の問題や地元との調整,工事用機械の準備などにより,大正2年(1913)にようやく認可が下りて,約140万坪の埋め立てが開始された。<図1>

埋め立ての移り変わりの様子
<埋め立て地の拡がり・・・明治時代から現在に至る埋め立ての移り変わりの様子>


日本ではじめて導入された電動式サンドポンプが威力を発揮し,同11年に埋立地が造成されると,次々と企業が進出し始めた。旭硝子,浅野セメント,日本鋼管製鉄所,浅野造船製鉄所,スタンダード石油,ライジングサン石油,三井物産などの工場がつくられ,京浜工業地帯の基礎となっていくのである。

末広地区の埋立拡大

第一次世界大戦後の不況と関東大震災により,産業界の打撃は大きく,失業者が続出した。その救済対策の一つとして,末広地先がさらに埋め立てられることになる。潮田地先の鶴見川左岸筋の約12万7千坪(42万m2)を神奈川県の事業として昭和4年(1929)より着工し,同7年に完成した。〈図1の1の部分〉

やがて,この地には日本鋼管製鉄所,芝浦製作所,旭硝子,鶴見曹達などが進出した。

扇島と京浜運河

工業地帯の造成と並行して考えられていたのが,船舶の安全航行をはかるための京浜運河の開発である。

しかし,この事業は資金面や利権の調整などで手間取り,ようやく昭和12年,神奈川県によって着工されたが,第二次世界大戦のため工事は中止になってしまった。

戦後,工業の発展に伴って,運河の浚渫と扇島の埋立工事が並行して進められ,第1期工事として約41万坪(134万m2)が昭和28年に完成し,引き続き行われた第2期工事は昭和43年に完成した。〈図2の3の部分〉

昭和44年,日本鋼管は,製鉄・製鋼部門を移転するため,扇島の前面海域の約550万m2の埋め立てを申請した。昭和46年に着工し,鋼管独自の力で約1兆円をかけて埋め立てを完成し,現在の扇島ができた。

大黒地区の埋め立てと役割

大黒地区の埋め立ては,横浜の発展振興の促進をはかるためと,工業地帯を拡大する目的から,神奈川県によって昭和3年に着工され,大黒町分として約37万坪(122万m2)が埋め立てられ,昭和11年に完成した。〈図1の2の部分〉

その後,戦後の高度成長に伴い,京浜工業地帯の重要性はさらに高まった。そこで新たな埋立地として,すでに完成している埋立地の大黒地区の先が選ばれ,昭和30年に着工して34年に完成した。ここには,東京電力,日東化学,新アジア石油が進出した。

第2期工事(昭和36年完成)の造成部分は,大洋漁業の各種母船基地として使用され,水産業の総合基地として,横浜港に新しい側面を開いた。〈図2の4の部分〉

大黒埠頭のコンテナ基地


横浜港は,年々貨物の取扱い量が増大し,港の機能がそれに対応できなくなった。出入りする船舶も大型化してきて,大量・迅速な荷さばきを実現できるような輸送体系が要求された。こうして大黒ふ頭の埋立造成事業が具体化したのである。

この事業は,横浜市により昭和46年に第1期工事が始まり,59年に完成した。

このふ頭は,工業用地としてではなく,ライナーバースといわれる外航定期船のふ頭がつくられ,大規模な輸送に対応できるようになっている。また,自動車やコンテナ専用のバースも整備され,多様化する積荷処理に備えている。

港湾施設のほかに,働く人々と住民のレクリエーションの場が考慮され,公園・テニスコートなどが整備されている。加えて,廃油処理施設も設置され,公害防止にも留意されている。

横浜流通センター


第2期工事は昭和55年に始まり,平成2年に完了した。そして平成4年には日本最大級のコンテナターミナル(横浜流通センター)が完成した。また,海上をまたぐベイブリッジや鶴見つばさ橋を通る道路は,本牧ふ頭や産業用地を結び,交通渋滞の解消と物流の迅速化に役立っている。

この造成工事には,絶えず洪水を起こす危険をはらんだ鶴見川の改修工事によって生じる浚渫の土砂と,都市から出るさまざまな廃棄物が利用されている。また,この造成地の先端には,親水緑地の公園や海づり施設などがつくられ,区民の憩いの場となっている。〈図3〉

<上の写真は大黒埠頭のコンテナ基地>

<下の写真は横浜流通センター>

魅力いっぱいの臨海部

ふれーゆのプールと展示温室
<写真はふれーゆのプールと展示温室>

さまざまな目的をもち,その役割を果たしている臨海部(ウォーターフロント)であるが,単に経済的効果を目的とするだけでなく,市民のための施設づくりも進められている。また,企業の市民開放施設も次々とできている。

鶴見が京浜工業都市の中心であったころは,公害都市のイメージが強かったが,工場へのさまざまな規制や緑化運動も進められ,公害の心配もぬぐいさられつつある。

このようにして,鶴見の臨海部は鶴見川河口という環境を生かして,水と緑の魅力あるまちづくりを考慮しながら,景観の美しい,文化的で楽しい憩いや発見の地として,新しい鶴見の顔がつくられつつある。

末広地区・・・小野町からふれーゆへ通じる広い道路の両側には,ベルト状に樹木が生い茂り,工業地帯とは思えない景観である。

中間点をやや過ぎた右側に船の形をした建物が見えてくる。これが身近な生活環境から地球規模の環境まで,楽しく学べる東京ガスの「環境エネルギー館」である。

先端部には温水プールや,つばさ橋が一望できる大浴場で知られる「ふれーゆ」がある。

最近では,最先端の生物化学を研究する「ゲノム科学総合研究センター」の建設が決まり,さらに,「産学共同研究センター」「ファクトリーパーク」などの誘致も決まっている。


生麦地区・・・この地区の目玉は,「キリン横浜ビアビレッジ」である。ビールの歴史を紹介する展示室や,ビールの製造工程が見学できる。

大黒海づり公園
<写真は大黒海づり公園>

大黒地区・・・手前の大黒町は工業地帯である。ここには,さとうの歴史がわかる「横浜・さとうのふるさと」と,ツインタワーから名づけられた電気の展示館「トゥイニー・ヨコハマ」があり,市民に開放されている。

大黒大橋で結ばれている大黒ふ頭は,鶴見では最も新しい埋立地である。ここには大型船が接岸できるふ頭があり,キリンを想像するようなガントリー・クレーンが林立し,貿易・流通関係の施設が立ち並んでいる。

大黒大橋を渡ると右側に「スカイウォーク」がある。ここからは眼下の横浜港を行き交う船,遠くは富士山や丹沢山塊,房総の山並みの景観を楽しむことができる。

先端部には海づりが楽しめる「大黒海づり公園」があり,休日は多くのつり客でにぎわっている。彫刻の置かれた海浜公園が隣接しており,目の前に停泊している数十隻の船を一望できる。

このページへのお問合せ

鶴見区総務部区政推進課

電話:045-510-1680

電話:045-510-1680

ファクス:045-510-1891

メールアドレス:tr-kusei@city.yokohama.jp

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