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第1回:幕末の動乱期の外国人殺傷事件・生麦事件(その2)

最終更新日 2019年3月4日

参勤交代の大名・小名の行列を見慣れた生麦の人々は、1858年(安政5年)6月19日に日米通商条約が調印され、翌1859年6月2日に横浜が開港されてから、尊王攘夷論が飛び交う険悪な空気のなか、時折、外国人が遠出を許された六郷辺りまで馬で遠出する姿を遠くからふしぎそうに眺めていた……。
1853年(嘉永6年)の黒船来航により日本は鎖国から開国へと大きな転換期を迎えていた。大老井伊直弼が勅許を得ぬまま日米修好通称条約に調印すると、尊王攘夷運動が高まった。安政の大獄、桜田門外の変と幕末の物騒がしき世相が続くなか、旧東海道生麦村で、外国人殺傷事件が発生した。

幕府改革の勅命を幕府に伝える勅使大原重徳の護衛の任を終え、江戸から京都に帰る薩摩藩主の父、島津久光の一行4百余名の隊列が生麦村にさしかかったとき、神奈川方面から馬を走らせてきた外国人4人と遭遇した。
その日は日曜日だった。上海在住のイギリス商人リチャードソン、その友人で香港商人の妻ボラデール夫人、夫人の義弟で横浜在留商人マーシャル、横浜のハーバード商会のクラークは、川崎大師見物へ行くべく、のどかに語り合いながら馬を走らせていた。4人の外国人に対して、行列を警護する武士たちは行列に近づかないように、下馬をするようにと身振り手振りで要求した。しかし、イギリス人たちは、大名行列が通るとき土下座するという日本の国の習慣を知らなかった。言葉も分からずただ右往左往しているうちに行列に巻き込まれてしまった。リチャードソンは列から抜け出そうと馬の手綱を引いたところ、馬首を久光の乗っている籠に向けてしまい、籠を警護していた供頭の奈良原喜左衛門に斬りつけられた。警護の武士たちも深手を負ったリチャードソンに斬りかかった。驚いた馬は心臓を突き刺されたリチャードソンを乗せて、きびすを返して神奈川方面に走った。リチャードソンは600メートルほど離れた松原で落馬し、落命した。リチャードソンが落命した辺りに生麦事件碑は建っている。
クラークとマーシャルもかなりの傷を負ったが、命からがら行列を抜け出し、アメリカ領事館のある神奈川の本覚寺までに逃げ帰り助けを求めた。帽子と前髪の一部を斬られたボラデール夫人は外国人居留地に逃げ帰った。
この知らせを聞いた外国人居留地は一時騒然となったが、イギリスの代理公使ニールが事を構えるのは得策でないと判断し、外交交渉として直ちに幕府に抗議した。幕府に対して10万ポンドの賠償金を、薩摩藩に対しては賠償金2万5千ポンドと下手人の処刑を要求したが、両者ともこれを拒否。

生麦事件記念碑と黒川翁

事件の顛末はイギリス本土にも伝えられた。翌1863年(文久3年)にはイギリス艦隊12隻が横浜に来航した。幕府はあわてて賠償金を支払ったが、大藩薩摩藩に対しては弱体化している幕府には何ら対処する術がなかった。薩摩藩はあくまでもイギリス側からの要求を拒否し続けた。イギリスは艦隊を鹿児島に回し武力行使を開始、薩摩は応戦した。しかし、アームストロング砲という近代兵器を目の当たりにした薩摩藩は攘夷から開国論に転じ、イギリスと和平交渉に入った。賠償金2万5千ポンドは幕府から「海岸防御」の名目で100年年賦で借り受け、将来、イギリスは薩摩に対して軍艦購入を斡旋するという条件をつけて支払った。下手人については、期限を定めず、逮捕次第処刑するということで、うやむやのままに処理された。その後、薩摩藩は長州藩と同盟を結び尊王倒幕を進め、時代は明治維新へと大きく動いていった。


<上の写真は生麦事件記念碑と黒川翁>

記念碑の除幕式

国を揺り動かした大事件も、幕府や薩摩藩の厳しい緘口令で公に語られることはなかった。生麦の人たちと、わずかな関係者の胸に秘められたまま時代は大きく変わっていった。
人々は何事もなかったかのように日々の暮らしに戻ったが、この事件は生麦の人々の心の隅で生きて続けていた。


少年の日にこの事件を目撃し、事件の重大さを認識していた鶴見村の黒川荘三が、異国の地で非業の死を遂げたリチャードソンの死を悼み、そして事件の風化を防ぎ、後世に伝えるため私費を投じて1885年(明治16年)に事件碑建てた。碑文は、『西国立志編』の中村正直に依頼した。積年の心の重荷から解放された生麦の人々も協力して慰霊祭も行った。1911年(明治44年)8月21日の50年祭は黒川荘三が独力で行ったが、1922年(大正11)の60年祭は地域の人々と共同で盛大に行った。
現在は生麦の人々による生麦事件顕彰会によって毎年追悼祭が行われている。また、1994年(平成6年)には京浜急行生麦駅前で酒店を営んでいた浅海武夫さんが、20数年かけて集めた生麦事件に関する資料を公開展示する生麦事件参考館を開設した。浅海さんは山手の外国人墓地に眠るリチャードソンの墓が荒れ果てていたのを憂い、自費を投じて改修した。
2002年8月21日には、生麦事件140周年を迎える。

<上の写真は記念碑の除幕式>

文責「鶴見歴史の会」斉藤美枝

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