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わが町自慢

最終更新日 2019年1月25日

豊田地区--歴史魅力スポット--

田谷の洞窟・横浜市登録文化財

ロウソクを持ち洞窟の中へ入る

十三塚
鎌倉時代に鎌倉北条氏を攻めた新田義貞兄弟によって、鎌倉幕府は滅亡しましたが、逃げた兵士がこのあたりで切腹し、その霊を供養した13人の武将の墓の伝説があります。いまは1基のみ残っています。
長尾砦跡
長尾砦は、鎌倉時代、鎌倉扇ケ谷の上杉氏の家臣であった長尾氏の館のあったところですが、「長尾台」という町名もそのなごり。戦国時代、永正9年(1512年)には玉縄城の出城として長尾砦が造成整備されています。現在でも空壕、塚などが残されています。
鷹匠橋
徳川家康は秀吉の小田原攻めに協力しましたが、三河から関東に移されました。そのころ玉縄城の支配下にあった栄区の領域に、家康はしばしば鷹狩りに訪れたといわれており、この橋もその名残と考えられています。

正安寺
現在は鎌倉円覚寺派の臨済宗ですが、かつては能満寺という天台宗の寺でした。天台から浄土真宗に改宗。鎌倉幕府は、政権の樹立を世に示すため、八幡宮に当代一流の学僧を集めて「一切経」の校合を行いましたが、親鸞上人も招かれて、この正安寺に止宿しました。そのときの住僧月応が親鸞の学徳にうたれて浄土真宗に改宗したとのことです。本尊の阿弥陀如来は、親鸞の作とされており、永禄4年(1561年)北条氏康の弾圧を受け円覚寺の末寺となりますが、臨済宗へ改宗以降も江戸時代に西本願寺の門主がたびたぴ献金しているなど親鸞縁りの寺として認められていたようです。長沼宗政の碑や樹齢700年のイヌマキの木があります。
鎌倉中の道
鎌倉時代に東国武士が幕府に集結するために使った古道。鎌倉小袋谷→大船松竹前→笠間青木神社→笠間十字路→新橋→飯島大道→貝殼坂→長沼の八幡社→正安寺の間→戸塚、下倉田と続いていました。
玉泉寺
臨済宗。円覚寺の住持、大用(だいゆう)国師誠拙ゆかりの寺。誠拙は文化10年(1813年)、京都天竜寺の住職として鎌倉を去りましたが、その際残した自分の歯と爪をまつった爪牙塔や愛用の風炉、書画などがあり関係資料が横浜市指定文化財となっています。また、金井村領主で旗本の佐橋治右衛門の墓があります。明治時代にはここに戸長役場が置かれました。

笠間地区--歴史的魅力スポット--

水神様(水神橋河畔)

水神橋のたもとにある

笠間神明社下の薬師石仏
笠間仲宿の裏手の小適の山腹にかつての神明社の跡が残っています。そこを少し上った左手の岩場には薬師の小石仏のほかに、石塔の残欠、さらに、舟形の光背に線刻の浮き彫りをした中世のものと思われる珍しい地蔵があります。

青木神社
笠間町民の氏神。建武2年(1335年)創建。笠間町神明社を合祠。祭神は開拓の神、手刀雄命。湯花神楽が奉納されています。天保10年(1839年)の銘のある石灯籠があります。

法安寺
浄土宗。笠間山智光院と号し、もと鎌倉光明寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来。文安2年(1445年)持阿智光了専によって創建されました。一時衰退し、永正5年(1508年)再建されたと伝えられます。本堂はもと鎌倉建長寺の客殿を明治11年移築したものということです。

鹿島神社
田立地区住民の鎮守。約270年前の田立地区11軒の連名による手洗鉢があります。

立竜舞の伝説
低い沼地の田立では、古来「水浸しでない田」が悲願でしたが、ある夏の日の夕方起きた竜巻によってみごとな美田と一変した「立竜舞」の話があり、古い神輿には「立竜」の文字が残されています。

小菅ケ谷地区--歴史的魅力スポット--

鎌倉中の道道標(新橋)

新橋のふもとにある

七石山横穴古墳群
昭和42年に発見され、その後発掘調査の結果、七石山(小菅ケ谷2018番地)中腹に100基を超える横穴古墳が確認され、人骨や土器、副葬品も発見されました。6世紀中頃から8世紀初頭にかけての豪族のものと推定され、玄室の奥に副室を持つ珍しい構造をもって「鍛冶ケ谷式」と呼ばれいたち川流域にある横穴古墳に共通の特徴です。根岸線工事とともに数個を残し、地域史跡となっています。

長光寺
東照山医王院と号しかつては天台宗の寺で伊豆の豪族、伊東祐親の孫、祐光の創建と伝えられています。その後、親鸞聖人の時代に現在の浄土真宗に改宗し、浄土真宗本願寺派に属しています。寺号は本願寺三世覚如上人から頂きました。本尊は阿弥陀如来ですが、祐光が伊豆からもってきたという「花立薬師」と呼ばれる約20センチメートルの木彫の薬師如来像も現存しています。ほかに古文書や伝親鸞作聖徳太子像、樹齢500年というくろがねもちの『なんじゃもんじゃ』の木があります。

大誓寺
浄土宗。承応2年(1653年)、旧小菅ケ谷村の名主、梅沢与治右衛門(うめざわよじえもん)勝国の創建で本堂内外の建築物は天保9年(1838年)の再建当時のものです。本尊の阿弥陀如来座像は、鎌倉郡六阿弥陀の一つです。また、親鸞上人がこの地を訪れた時に、小菅ケ谷のやぐらにこもって、7体の太子像をつくったといわれており、「太子矢倉」と古くから呼ばれていました。そのときの鎌倉七太子は、小菅ケ谷の大誓寺、長光寺、上郷の光明寺、中野の長慶寺、戸塚区下倉田の永勝寺、鎌倉の成福寺、三浦の最宝寺のものとされています。大誓寺の聖徳太子十六歳像は、香炉ではなく経典をもっている珍しいもので、横浜市指定文化財となっています。ほかに樹齢400年といわれる名木指定のさるすべり、ザクロなどの古木があります。「お十夜念仏」という双盤念仏講は、昭和56年に横浜市の無形民俗文化財に認定されていました。

春日神社
平安時代に山内首藤(やまのうちすどう)氏が創建し、古くは本郷六ケ村の総鎮守であった、と伝えられています。社殿が本来の春日造りでなく、権現造りであることが特徴。覆屋(ふくおく)ののぞき窓から、江戸時代末といわれる見事な彫刻が四面を飾っている「中宮」と呼ぱれる本殿を見ることができます。初詣や小正月、節分など季節の行事でにぎわいをみせます。春日神社そばには、市内最古という通称「いぼとり地蔵」という石地蔵があります。

広地薬師
栄区内には、各所に薬師堂や木彫、石彫の薬師如来像が残っています。小菅ケ谷の鎌倉道の脇に稲荷の小祠があり、そのわき道の民家の裏に丸彫りで石遣の薬師如来があります。薬師堂にちなんだ「堂の前」という地名がのこっています。

本郷中央地区--歴史的魅力スポット--

桂台式土器

出土した人面把手

桂台からは縄文時代晩期、紀元前300年頃の遺跡が発掘されており、一時、桂台式土器と名付けられ話題となりましたが、現在は規準土器からは、はずされています。中期の公田町遺跡から「人面把手(じんめんとって)」(神奈川県立歴史博物館蔵)といわれている土器が見つかっています。蛇をかたどったもので、縄文人の信仰との深い関係があるとのことです。

永林寺
桂谷山と号し、曹洞宗の寺で鎌倉郡観音三十三ケ所観音霊場16番。釈迦如来を本尊としています。由緒は不詳ですが、境内、墓地には石仏が多く、特に薬師石仏、延享4年(1747年)公田・桂村念仏講中の銘のある六地蔵、一石百庚申塔、青面金剛庚申塔、馬頭観音文字塔など民俗資料として貴重なものが保存されています。

アラハバキ神
東北地方の津軽や出羽などで見られる民俗神ですが、なぜ本郷に存在するのか諸説あります。平安期、山内荘本郷と呼ばれた頃、東北から移住した鍛冶集団の神、あるいは鎌倉下の道を通して伝わった旅や足腰の神などが考えられています。

上藹塚
周辺から縄文・弥生・古墳時代の土器や土師器が多数出土し、垣武天皇の皇子葛原親王の妃、照玉姫を埋葬したところで、その前に王之御前神社を建てたという伝説が残っています。建武2年(1335年)の証菩提寺文書にも公田交差点付近に豪族の田地経営のための「田荘」(たどころ)の存在を示すものが残されています。
神明社
公田・桂町の氏神。祭神は天照皇大神ほか4体。境内に山嶽信仰の碑などがあります。

本郷第三地区--歴史的魅力スポット--

正翁寺
現在は、曹洞宗ですが、かつては源頼朝の創建になる証菩提寺の一堂であったと伝えられています。本尊は鬼門危難除けのための虚空蔵菩薩で、永禄年間に大谷加右衛門が再興したといわれています。
長慶寺
もとは天台、真言二宗をかねる密教道場で、大船の玉縄にあったといわれています。鎌倉時代に浄土真宗に変わり、戦国時代には石山本願寺の合戦で織田信長と戦った実好普古(じっそうふこ)が住職のとき、現在の中野町に移り草庵を設けたと伝えられています。その後、徳川家康が鷹狩の帰りその草庵に立ち寄って水を所望したところ、普古は家康とは気づかずに粗末な茶碗に、通称水ノ口山(ふじやま)の良水を差し出すと、家康が感謝し本堂再建の費用を寄付したと伝えられています。家康からの拝領と伝わる茶碗が残されています。

八幡神社
鍛冶ケ谷の鎮守。祭神は応神天皇、速玉之男命、すさのおのみことの3柱。由緒や創建の年代は不祥ですが、天正8年(1580年)修理の棟札があります。昭和41年に大修理を施しています。境内には庚申塔などの多数の石仏、石碑類があります。
子の神日枝神社
中之村の鎮守。文明年間(1469~1486年)上杉管領家が農業守護のため、守護神として子之神を鎮守したことがはじめとされています。証菩提寺文書によると鎌倉以来の古社と考えられています。弘化3年(1846年)奉納の手水鉢が残されています。

上郷西地区--歴史的魅力スポット--

はたおり地蔵

杼と毛玉を持ったはたおり地蔵

桂山公園のなかに、やぐらのように掘り窪めた穴があり、そのなかに、珍しい形の地蔵石仏がまつられています。普通の地蔵は錫杖と宝珠をもっていますが、そのわりに、機を織るときの「杼(ひ)」と糸玉を持っています。貞享3年(1686年)の銘があります。もとは、鳥の舞公園北側付近にありました。
坂中山観音堂跡と「耕堂学舎」
かつては鎌倉郡三十三観音の十七番札所として信仰を集めましたが、明治初年廃寺となって、観音像は光明寺に移されています。天保12年(1841年)ころ、諸国を遊学していた国学者の平尾桃岩斎が「耕堂学舎」という寺子屋を開いていました。桃岩斎は、剣術や弓術、漢方の施術などを通じて近隣の人々から「桃岩さん」と親しまれていましたが、勤皇の志士の一人となって筑波山で尊王壌夷の挙兵に加わった末捕らえられ、文久元年(1864年)江戸で処刑されました。身辺の世話をしていた高橋家が供養塔をたてたと伝えられています。
證菩提寺
治承4年、石橋山で戦死した佐那田与一の霊を弔うために、源頼朝が創建したと伝えられる古寺です。かつては広大な敷地をもっていたこの寺の建立理由は、鎌倉の一大穀倉地帯であり、しかも鬼門にあたる「山内本郷」を守るためといわれています。鎌倉三道の交通の要衝を固めつつ一大軍事基地として、武器の生産のための職人や工人を集めたことは、公田町の「番地」、元大橋の「番匠面」、鍛冶ケ谷などの地名から推測されるところです。源氏の衰退とともに荒廃しましたが、その後は北条泰時の娘、小菅ケ谷殿によって嘉禎元年(1235年)に今のフローラ桂台あたりに再建された新阿弥陀堂が中心となっています。平安期の定朝流による阿弥陀三尊像は、国の重要文化財に指定されており、初期の本尊と伝えられる阿弥陀如来像も鎌倉期運慶流の作で県の重要文化財となっています。また、成巻文書11通が横浜市指定文化財となっています(位置としては上郷東地区にあります)。

上郷東地区--歴史的魅力スポット--

昇龍橋

白山橋から見下ろしたいたち川にかかる昇龍橋

上郷猿田遺跡・深田遺跡
昭和58年、現在の上郷高校一帯から、縄文時代から古墳、奈良時代までの住居跡が発掘されました。奈良時代のものは13戸。当時の集落の規模と生活を知るうえで、貴重な資料となりました。また、山手学院南側あたりから、砂鉄から鉄を取り出すときに出る不純物の「金くそ」や、古代の溶鉱炉のあとである「たたら」跡が発見され「深田製鉄遺跡」とされています。現在はほとんどが舞岡上郷線道路の下になっています。

白山神社
旧上野村の村社。かつての本郷の総鎮守。創建は不明だが、舒明天皇のころ(629~641年)の逸話も伝承されており、当初は上野と中野と鍛冶ケ谷口の入会の六反町(現・本郷バス停付近)にあったと考えられています。源頼朝が鎌倉幕府の鬼門にあたる北東を守る神としたと伝えられ、嘉禄年間(1225~1226年)北条泰時が神領を寄進しています。一説では奥州から移住した鍛冶がまつったともいわれている古社ですが、たびたびその位置を変えています。その後、正中元年(1324年)または至徳元年(1384年)に八軒八戸の奥で字を神戸という光明ケ谷にされ、昭和51年に現在の東上郷町に移されました。当初の鍛冶ケ谷口跡には、現実の討幕軍に対する勝利の祈願のためか「ぢんがん堂」(陳願か鎮願か)を建てたといわれ、20年ほど前まで「ぢんがんぼっか(ぢんがんやぶ)」と呼ばれていました。

深田やぐら
上郷フィールドアスレチックの敷地内に、鎌倉時代の墓所であるやぐらがあり、そのうちの一つには五輪塔が浮き彫りにされています。

光明寺
梅沢山と号し京都西本願寺派の末寺で、本尊阿弥陀如来を安置しています。その昔聖徳太子がちょう愛した泰川勝が、かつては今の城山橋北側にあった「白山」あたりで、梅林中に夜光をみ、これが聖徳太子16歳の像であったため、これを奇として、梅沢山仙福寺(天台宗)と号しました。鎌倉時代にこの地を訪れた親鸞上人の学徳にうたれて浄土真宗に改宗しました。また、執権北条時頼の母、松下禅尼が隠居したとも伝えられ、幕府滅亡の際火災にあって現在の地に移りました。戦国時代にはしばしば小田原北条氏の弾圧を受けました。

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