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鎖国から開国への日々
最終更新日 2024年4月17日
『フレガット蒸気船ポウハタン』(絵図)
嘉永7(安政元)年正月16日(1854年2月13日)、アメリカ海軍の東インド艦隊司令長官M=C=ペリーは、前年6月(1853年7月)に、相州久里浜村海岸で幕府代表に渡した大統領からの国書への回答を得るため再度来日し、武州金沢の小柴(金沢区)沖に錨を下ろしました。
ペリーは、捕鯨船の避難・補給港と遭難海員救助、太平洋横断航路に必要な寄航地・貯炭所の設置について日本と交渉するため、派遣されてきました。
正月17日(2月14日)から会見場所を決める話し合いが始まりました。幕府側は浦賀や鎌倉などを提案しますが、アメリカ側は江戸に近い場所を要求します。十日ほど折衝が続きましたが、アメリカ側の強硬姿勢に押され、正月28日(2月25日)、神奈川近くの横浜に決定しました。
『〔使節ペリー横浜応接の図〕』(絵図)
応接所の建設は、浦賀の仮館をとりこわして資材を海上輸送し、2月7日完成、第一回日米会談は2月10日(3月8日)に行われました。この日、ペリーは初めて横浜村に上陸し、幕府側正使の林大学頭(復斎)らと交渉に入りました。
2月11日(3月9日)にはミシシッピー号の水兵ウイリアムズの葬儀が行なわれ、2月15日(3月13日)にアメリカからの贈呈品が陸揚げされました。2月26日(3月24日)には日本からの贈答品が贈られ、力士たちの力自慢が披露されました。2月29日(3月27日)、ポウハタン号に幕府の応接掛などが招待され、饗宴とともに余興を楽しんでいます。
『北亜墨利加合衆国帝王ヨリ献上貢物品々 蒸気車之図 十分一』(瓦版)
こうして交渉の合間に友好的な催しをしつつ、日米和親条約(神奈川条約)は3月3日(3月31日)調印されました。この12か条の条約により下田・函館の開港も決まり、これまで幕府が長い間とってきた鎖国政策はついに破綻し、日本が開国に向かうことが決定しました。
3月9日(4月6日)にはペリー一行は横浜村の名主、石川家を訪問し、横浜村の人々の生活や日本の風習を見聞しています。ペリーの艦隊がすべて江戸内海(東京湾)を出航したのは3月21日(4月18日)でした。翌日から海岸警衛の諸大名が引き払いを始めています。
その4年5か月後、日米修好通商条約が調印されます。この条約で日米和親条約の応接地だった横浜が開港地に選ばれ(条約上は神奈川の地名ですが、横浜はその一部とみなされました)、翌年の安政6年6月2日(1859年7月1日)、開港を迎えました。しかし日本開国と横浜開港のきっかけをつくったペリーは前年の1月19日(1858年3月4日)、63歳で死去しています。
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