ここから本文です。
江戸名所図会から見る金沢の寺社・仏閣
最終更新日 2022年5月2日
江戸名所図会は、江戸時代後期の江戸とその近郊の風景や人々の生活模様を記述した地誌です。横浜地域は60点、金沢地区は17点の挿絵が掲載されています。この中から、金沢にちなむものの一部について、当時の姿と今の姿を比較します。
※江戸名所図会 神奈川県立金沢文庫所蔵
瀬戸神社
海上交通の要所であった平潟湾の中心、瀬戸の内海の出入口は潮の干潮時には急流渦巻く交通の難所でした。ここに海神を祭ったのが瀬戸神社の起源です。源頼朝が、この地に伊豆三島明神の御分霊を遷すと、神社は発展しました。数々の神像や、源実朝が使用し北条政子が奉納したと伝わる「舞楽面二面」など、今も鎌倉時代の美術史上重要な作品が残されています。
瀬戸明神社
瀬戸弁財天(琵琶島神社)
治承4年(1180)源頼朝が伊豆三島明神から瀬戸神社を要請した時に、夫人の北条政子が竹生島弁財天を勧請したもので、古来琵琶島弁財天と呼ばれています。
瀬戸「九覧亭より瀬戸橋方面」楠山永雄コレクション
(神奈川県立金沢文庫保管)
瀬戸弁財天
金龍院
能見堂と並んで金沢八景の眺望地として有名だったのが、金龍院の敷地内にある九覧亭です。
金沢八景のほぼ中心にあり、能見堂とは異なる金沢八景の景観を堪能する事ができました。
内川暮雪の「内川」を能見堂から見たのものとは異なり、瀬ケ崎の海岸から九覧亭付近の平潟湾にしたのは、その眺望の良さを考慮したものと考えられています。
金龍院飛石
金龍院九覧亭
上行寺
鎌倉時代のはじめの頃の創建と考えられ、元は真言宗の金勝寺と呼ばれていました。建長6年(1254)に日蓮が六浦の浜に到着した縁から日蓮宗に改宗され、上行寺になったと言われています。
境内には、日荷上人が植えたという樹齢600年ものカヤの木や日荷上人の墓、船つぎの松等があります。
六浦上行寺
上行寺とカヤの木
光伝寺
六浦の住人長野六右衛門は、旅先で誤って切り落とした阿弥陀如来の御首を持ち帰り、草庵を建てておまつりしました。夢のお告げで鎌倉の二階堂にあった胴体だけの仏像をいただき、御首を添えて一体の御本尊としました。裏山にある並木天満宮は、かつて鎌倉から六浦を訪ねてきた人々にとって、素晴らしい眺望を望む憩いの場所でした。
侍従川光傳寺
鼻欠地蔵
昔、この地蔵の東わずか2mのところが、武蔵と相模の国の境界線でした。
金沢と鎌倉を結ぶ街道の要所であり、いつのころか祀られていましたが、現在はその姿の見極めも難しい状態です。
鼻缺地蔵
料亭東屋(跡)
今から200年くらい前に、瀬戸橋際に開業した茶店です。安政5年(1858)、東屋は瀬戸大火で類焼し、瀬戸橋の東詰に移転しました。明治に入ってから、伊藤博文らの明治憲法草案審議の場所となったことは有名です。
瀬戸橋
瀬戸と洲崎の間は狭い海峡となっていて、容易に渡れない難所でした。この不便をなくすため、北条氏が瀬戸橋を造営したのは1305年のことです。当時の瀬戸橋は海峡の真ん中に島を築いて、そこへ両側から二つの橋をかけ渡したものです。八景のひとつ「瀬戸秋月」の中心地でもあります。
瀬戸橋・料亭車屋
平潟湾の遠景(横浜開港資料館所蔵)
現在の瀬戸橋と料亭東屋跡
龍華寺
文治5年(1189)、源頼朝が文覚上人に六浦山中に六浦庄鎮守のため弥勒菩薩を安置した浄願時を創建したのが龍華寺の起源です。
その後、中世の戦乱で荒廃しましたが、明応8年(1499)に現在の地にあった光徳寺と浄願寺の両寺を併合し、龍華寺として再建しました。
境内には、泥亀新田の開拓者、永島泥亀一族の墓があります。永島家は龍華寺の檀家となり、文政9年(1826)、龍華寺が全山焼失の際、再興に尽力しています。
町屋村龍華寺
金沢顕時・貞顕墓
称名寺境内、県立金沢文庫の裏手から山頂の八角堂への登り口となる山裾に、北条顕時・貞顕の墓が静かな木立に囲まれています。元亨3年(1323)の古地図(重要文化財)に描かれている位置そのままの場所です。
能見堂
金沢道を500メートルばかり上った先に能見堂跡があります。金沢八景を眺めることのできる展望台があったため有名になり、戦前には巨勢金岡が筆を捨てた伝説とともに「筆捨松」という巨松が茂っていましたが、戦時中に切り倒されてしまいました。
能見堂擲筆松
このページへのお問合せ
ページID:679-161-678