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金沢区の地名と由来
最終更新日 2020年11月6日
金沢区は、昭和23年磯子区の区域の一部より新設されました。
金沢・六浦・朝比奈等、金沢区の地名は鎌倉に近かったこともあり、豊富な歴史に満ちています。
また、開拓功労者の名を残す泥亀や、南関東に特有の地名に因む谷津町、鎌倉街道に関連した大道などの町名があります。また、一方で海の公園、幸浦、鳥浜町のように埋め立てによってできた新しい町名もあります。
(『横浜の町名』<横浜市市民局平成8年12月発行>より転載、一部修正)
朝比奈町 海の公園 大川 乙舳町 片吹 金沢町 釜利谷町 釜利谷西一丁目~六丁目 釜利谷東一丁目~八丁目 釜利谷南一丁目~四丁目 幸浦一丁目・二丁目 柴町 昭和町 白帆 洲崎町 瀬戸 大道一丁目・二丁目 高舟台一丁目・二丁目 泥亀一丁目、二丁目 寺前一丁目・二丁目 富岡西一丁目~七丁目 富岡東一丁目~六丁目 鳥浜町 長浜 並木一丁目 西柴一丁目~四丁目 能見台一丁目 能見台通 能見台森 野島町 八景島 東朝比奈一丁目~三丁目 平潟町 福浦一丁目~三丁目 堀口・能見台東 町屋町 みず木町 六浦一丁目~四丁目 六浦町 谷津町 柳町 六浦南 六浦東
昭和11年の横浜市編入の際、久良岐郡六浦荘村大字峠から新設した町。
昭和23年5月15日の金沢区新設に伴い、磯子区から編入。古くは鎌倉郡峠村といい、明治30年に久良岐郡六浦荘村に編入して大字峠となる。
町名は町区域にあり、北条泰時により仁治2年(1241年)に開設された朝比奈切通に因んで名づけた。国指定史跡の名称は「朝夷奈切通」である。
中央を横浜横須賀道路、環状4号が通り、朝比奈インターチェンジがある。
昭和61年の柴町等地先埋立に伴い、新設した町。
昭和54年に人工海浜「海の公園」として完成した埋立地で、町名は市民の間に地名として定着していた「海の公園」を採った。
人工砂浜は毎年7月第2土曜日~8月31日の間、横浜市内唯一の海水浴場となる。
西側をシーサイドラインが通り、八景島・海の公園柴口駅・海の公園南口駅がある。
昭和14年の町界町名地番整理事業の施行に伴い、金沢泥亀町の一部から新設した町。昭和23年5月15日の金沢区新設に伴い磯子区から編入。
古くは久良岐郡泥亀新田といい、明治22年の市町村制施行の際、町屋村、谷津村、洲崎村、寺前村、野島村、柴村、富岡村と合併して一部が金沢村大字泥亀となり、大正15年1月1日に町制を施行して金沢町大字泥亀となる。昭和11年10月1日の横浜市編入に際し、金沢町字泥亀から金沢泥亀町を新設。平成5年10月18日に住所表示を施行。
町名は北側を流れる宮川に由来すると思われる。
昭和14年の町界町名地番整理事業の施行に伴い、金沢洲崎町、金沢野島町から乙艫町を新設した。
昭和23年5月15日の金沢区新設に伴い、磯子区から編入。古くは久良岐郡洲崎町からの小名、野島浦といい、町屋村、谷津村、洲崎村、寺前村、柴村、泥亀新田、富岡村と合併して金沢村となり、大正15年1月1日に町制を施行して金沢町となった。昭和11年の横浜市編入に際し、金沢町から金沢洲崎町と金沢野島町を設けた。昭和50年7月28日の住居表示施行の際、町名を変更し、「乙艫町」を「乙舳町」にした。『新編武蔵風土記稿』には町屋村の小名「乙靹」として記録され、金沢八景の内で、乙鞆原、乙艫ともいったという。
地名研究で「オツ」は追浜のオツと同じく、「大」の意味か、あるいは海岸に迫ったところを意味し、「トモ」には「分村、堤」などの意味があり、野島を指すのではないかという。ここは金沢八景の一つで「乙艫帰帆」と呼ばれた。
昭和14年の町界町名地番整理事業の施行に伴い、金沢谷津町から新設した町。昭和23年5月15日の金沢区新設に伴い、磯子区から編入。
古くは久良岐郡谷津村と言い、明治22年の市町村制施行の際、町屋村、洲崎村、寺前村、柴村、野島村、泥亀新田、富岡村と合併して一部が金沢村字谷津となる。大正15年1月1日に町制を施行し金沢町字谷津となり、昭和11年1月1日に横浜市に編入して、金沢町字谷津の大部分と字柴、寺前、町屋、洲崎の各一部から金沢谷津町を設けた。昭和61年7月21日に住所表示を施行。『新編武蔵風土記稿』の「町屋村」に「小名カタブキ東北なり」の記録がある。南東側を京急本線、横須賀街道(国道16号)が通る。
昭和14年の町界町名地番整理事業の施行に伴い、金沢寺前町から新設した町。昭和23年5月15日の金沢区新設に伴い磯子区から編入。
古くは久良岐郡寺前村といい、明治22年の市町村制施行の際、町屋村、谷津村、洲崎村、柴村、野島村、泥亀新田、富岡村と合併して一部が金沢村字寺前となる。
大正15年1月1日に町制を施行し、金沢町字寺前となり、昭和11年の横浜市編入に際し、金沢町字寺前の大部分と柴、町屋の各一部から金沢寺前町を設ける。
柳田國男の『地名の研究』の「地名の話」に「たとえばここに有名なある一つの金沢がカナザワと唱えていると他の金沢ではカネザワ、コガネザワ、キンザワというべき所があっても、ことごとく皆これをカナザワと言ってしまって、そのために本来の意味のわからなくなることがずいぶんある」と述べている。
昭和期の歴史学者・金沢文庫長、関靖(1877-1958)は、『かねさわ物語』で、鎌倉に幕府が開かれて、この地に秩父の金沢村から鍛冶匠が移住してきて、その時に地名がついたという説を紹介している。「金沢」は古くは「かなざわ」ではなく「かねさわ」と呼ばれていた。
ここは金沢八景の一つで「称名晩鐘」と呼ばれた。町内に区内で最古の寺院である称名寺、史跡称名寺庭園、県立金沢文庫、称名寺市民の森がある。
昭和11年の横浜市編入の際、久良岐郡六浦荘村大字釜利谷から新設した町。昭和23年5月15日の金沢区新設に伴い、磯子区から編入。
古くは釜利谷郷宿村、坂本村、赤井村といい、後、三村を合わせて久良岐郡釜利谷村となる。明治22年の市町村制施行の際、三分村、泥亀新田飛地と合併して六浦荘村大字釜利谷となり、明治30年に鎌倉郡峠村を編入する。
西側を横浜横須賀道路が通り、金沢市民の森、釜利谷市民の森がある。
平成5年の住居表示施行に伴い、釜利谷町の一部から新設した町。町名は従前の町名「釜利谷町」から採った。
平成4年の住居表示施行に伴い、大川、釜利谷町、能見台六丁目の各一部から新設した町。町名は従前の「釜利谷町」から採った。
小泉住宅付近は金沢八景の一つで、「小泉夜雨」と呼ばれた。ここに祀られていた弁財天は手子神社(釜利谷南)に移されている。
二・四・五丁目を笹下釜利谷道路が通る。五丁目に世界の稀少草食動物を集めた動物園と植物区からなる横浜市金沢自然公園がある。
平成5年の住居表示施行に伴い、釜利谷町、高舟台二丁目の各一部から新設した町。町名は従前の町名「釜利谷町」から採った。一丁目に釜利谷の総鎮守の手子神社、三丁目に関東学院大学釜利谷校舎がある。
昭和52年の富岡町地先の埋立に伴い、新設した町。町名は「福浦」と対にして、将来の発展の地域の連帯を願って名付けた。一・二丁目の西側を金沢シーサイドライン、湾岸道路(国道357号)が通り、一丁目に鳥浜駅、並木北駅、二丁目に並木中央駅、幸浦駅がある。この地域一帯に工場が多数ある。
昭和14年の町界町名地番整理事業の施行にともない金沢柴町、金沢寺前町の各一部から新設した町。
昭和23年5月15日の金沢区新設に伴い磯子区から編入。
古くは久良岐郡柴町といい、明治22年の市町村制施行の際、町屋村、谷津村、洲崎村、寺前村、野島村、泥亀新田、富岡村と合併して金沢村大字柴となり、大正15年1月1日に町制を施行して金沢町大字柴となる。昭和11年10月1日の横浜市編入に際し、金沢町字柴の大部分と谷津、寺前、町屋、洲崎の各一部から金沢柴町を新設した。町名は字名の「柴」を採った。
地名研究で「シバ」は「ツバ、崖」を意味するという。
昭和46年の富岡町地先の埋め立てに伴い新設した町。埋立地と富岡町から設けたもので、町名は字名を採った。
中央をシーサイドラインが通っている。町内は工業地帯となっている。
平成7年に「横浜ベイサイドマリーナ」の整備に伴う、鳥浜町地先の公有水面埋立の編入により新設した町。
町名は横浜市港湾局が、地元関係団体や金沢区出身の市会議員の意見を聞き、純白なヨットの帆をイメージして「白帆」を採った。
町内に横浜ベイサイドマリーナ、クラブハウスがあり、ヨットハーバーが設けられている。
昭和14年の町界町名地番整理施行に伴い金沢洲崎町の一部から新設した町。
昭和23年の5月15日の金沢区新設に伴い、磯子区から編入した。
古くは久良岐郡洲崎村といい、明治22年の市町村制施行の際、町屋村、谷津村、寺前村、野島村、泥亀新田、柴村、富岡村と合併して一部が金沢村字洲崎となり、大正15年1月1日に町制を施行して金沢町字洲崎となる。昭和11年10月1日の横浜市編入に際し、金沢町字洲崎の大部分と泥亀、町屋、寺前、野島の各一部から金沢洲崎町を新設した。
昭和51年7月26日に住居表示を施行。町名は字名の「洲崎」を採った。
地名研究で「スサキ」は「砂浜の突きだしたところ」を意味する。
ここは金沢八景の一つで「洲崎晴嵐」と呼ばれた。
町に憲法草創の碑がある。これは、明治20年、伊藤博文が瀬戸橋近くにあった東屋旅館に泊まって、明治憲法の草案を作成した事を記念したものである。
昭和53年の住居表示施行に伴い、釜利谷町、六浦町の各一部から新設した町。町名は字名を採った。
地名研究で「セト」は「陸地の狭まっている所」を意味するという。
ここは金沢八景の一つで、「瀬戸秋月」と呼ばれた。中央を京急本線、金沢シーサイドライン、横須賀街道(国道16号)が通り、金沢八景駅がある。
町内に横浜市立大学、鎌倉時代に海神を祀ったという瀬戸神社がある。
昭和55年の住居表示に伴い、朝比奈町、六浦町の各一部から新設した町。町名は字名を採った。
『新編武蔵風土記稿』の「社家分村、寺分村、平分村」に「小名 大道 西の方寺分にあり、寺前村称名寺所蔵應永永享等の文書に、六浦荘大道關事云々とあり、此當所に關を居て、其關銭を以て彼寺に寄附せしなるべし」の記録がある。
鎌倉時代の仁治2年(1241年)に朝比奈峠が改修され、六浦から鎌倉へ通じる道として、当時としては道幅の広い大きな道だったので「大道」と呼ばれるようになったという。
一丁目と二丁目の境を環状4号が通る。
昭和55年の住居表示施行に伴い釜利谷町、六浦町の各一部から新設した街。町名は学校名などに使われていた「高舟台」を採った。
瀬戸神社の御神領を定めた文書に「高むね」の記載があり、古くは「高舟」と呼ばれていたようだ。
昭和50年の住居表示施行に伴い、大川、泥亀町、六浦町の各一部から新設した町。
昭和23年の5月15日の金沢区新設にともない、磯子区から編入した。
古くは久良岐郡泥亀新田といい、江戸中期の湯島聖堂儒官、永島祐伯(泥亀 生没年未詳)がその子、春重と共に、寛文8年(1668年)に開拓したもので、新田はその号をとって、泥亀新田と名付けた。
寛政後に荒廃したが、泥亀の九世、永島段右衛門(忠篤、亀巣・1808-1891)は荒廃した泥亀新田を嘉永2年(1849年)に再興し、泥亀新田と入江新田、七十町余りを完成させた。
明治22年の市町村制施行の際、町屋村、谷津村、洲崎村、寺前村、野島村、柴村、富岡村と合併して金沢村大字泥亀となり、大正15年1月1日に町制を施行して金沢町大字泥亀となる。
昭和11年10月1日の横浜市編入に際し、金沢町字泥亀から金沢泥亀町を新設した。
昭和37年10月から昭和41年3月にかけ蓮田が埋め立てられた。
町名は字名の泥亀から採った。
一丁目の西側を京浜急行本線が通り、一丁目と二丁目の境を横須賀街道(国道16号)が通る。二丁目に金沢区役所、金沢公会堂、金沢警察署、横浜金沢図書館等の官公庁、公共施設が集中する。
昭和51年の住居表示施行に伴い、寺前町、町屋町の各一部から新設した町。
古くは久良岐郡寺前村といい、明治22年の市町村制施行の際、町屋村、谷津村、洲崎村、野島村、泥亀新田、柴村、富岡村と合併して金沢町大字寺前となり、大正15年1月1日に町制を施行し金沢町大字寺前となる。
昭和11年10月1日に横浜市に編入し、金沢町字寺前の大部分と柴、町屋の各一部から金沢寺前町を新設した。
昭和14年に町界町名地番整理事業の施行に伴い、金沢寺前町、金沢泥亀町の各一部から寺前町を設ける。町名は字名の「寺前」を採った。
「寺前」は称名寺の門前集落を意味する
昭和59年の住所表示施行に伴い、富岡町、釜利谷町の一部から新設した町。
古くは久良岐郡富岡村といい、明治22年の市町村制施行の際、町屋村、洲崎村、寺前村、谷津村、柴村、野島村、泥亀新田と合併して金沢村大字富岡となる。
大正15年1月1日に町制を施行し金沢村字富岡となり、昭和11年に横浜市に編入して富岡町となる。
この地域には、多くの丘が集まっていることから、「十三岡」が「富岡」になったという説がある。
また、むかし、この地に住む長者が狩りで、白い雉を得たので、これを帝に献じた。そして白雉の例を慰めるために塚をつくった。そこを「鳥見ケ丘」と呼び、これが「富岡」あるいは「留岡」となったともいう。
町名は富岡町の西側の地区にあたるため、「富岡西」と名付けた。
一丁目の北側から二・七丁目の東側を京急本線が通り、七丁目に京急富岡駅がある。
昭和58年の住所表示施行に伴い、富岡町の一部から新設した町。
町名は富岡町の東側の地区にあたるため、「富岡東」と名付けた。
一丁目~六丁目を横須賀街道(国道16号)が通る。二丁目に富岡総合公園、四丁目に富岡八幡宮、富岡八幡公園(こどもログハウス・なかよしカモメ)がある。
昭和46年の富岡町地先の埋立に伴い新設した町。
町名は付近に鳥見塚という地名があり、その先の浜で鳥が飛んでくる土地であることから「鳥浜町」と名付けた。
南側を金沢シーサイドライン、湾岸道路(国道357号)が通り、南部市場駅がある。
町内に中央卸売市場南部市場がある。
昭和14年の町界町名地番整理施行に伴い、金沢柴町、金沢洲崎町の各一部から新設した町。
昭和23年5月15日の金沢区新設に伴い、磯子区から編入。
町名は柴から富岡にかけて北側に延びる浜に因んで「長浜」と名付けたが、現在は地先が埋め立てられて浜はない。
町内に歴史的建造物の横浜検疫所長浜措置場、旧細菌検査室及び旧事務棟(長浜ホール)、野鳥観察ができる長浜公園がある。
長浜一丁目・二丁目(昭和61年7月21日設置)
昭和61年の柴町等地先の埋立に伴い、長浜、西柴、堀口の各一部から新設した町。
昭和52年の富岡町・長浜地先の埋立に伴い新設した町。
一丁目は昭和53年、二丁目は昭和55年、三丁目は昭和57年にそれぞれ住居表示を施行。
町名は、漁師が漁場の位置測定のため富岡八幡宮付近の松並木を利用していたことと、住宅内の大通りに緑豊かな並木を計画していたことから、「並木」と名付けた。
むかしは、富岡八幡の地先に砂嘴が突き出て、二キロほども松並木が続いていた。
応長(1311~1312)の頃、大津波があって、長浜千軒と言われた漁村が海没し、この松並木も海没してしまったという。
この時、海に流された観音は、その後に海中から出現し、「長浜観音」として金沢町の称名寺に安置されている。
この海没した松の根株が、根岸湾埋立工事の地質調査で発見されている。
二丁目と三丁目の境に横浜横須賀道路(金沢支線)並木インターチェンジがある。
東側に金沢シーサイドラインに沿った金沢緑地がある。
町内は金沢シーサイドタウン等の団地により占められている。
金沢シーサイドタウン団地サインは、「まちなみ景観賞」を受賞している。
昭和61年の住居表示施行に伴い、片吹、金沢町、長浜、西柴、堀口、谷津町の各一部から新設した町。
古くは久良岐郡柴村といい、また小柴村とも言った。
明治22年の市町村制施行の際、町屋村、谷津村、洲崎村、寺前村、野島村、泥亀新田、富岡村と合併して金沢村になり、大正15年1月1日に町制を施行して金沢町と改め、昭和11年10月1日に横浜市に編入して、金沢町字柴と谷津、寺前、町屋、洲崎の各一部から金沢柴町を設けた。
昭和14年に町界町名地番整理施行に伴って、金沢柴町から西柴を設けた。町名は柴町の西側に位置する事から「西柴」と名付けた。
昭和56年、昭和57年、昭和60年の町界町名地番整理事業の施行にともない、片吹、釜利谷町、富岡町、堀口、谷津町、磯子区上中里町、氷取沢町の各一部から新設した町。
町名は金沢八景を見晴らした能見堂(能見台森に遺跡が保存されている)に因んで名づけた。
四丁目から五丁目を横浜横須賀道路(金沢支線)が通る。
昭和59年の住居表示施行に伴い、富岡町、堀口の各一部から新設した町。
町名は、昭和56年に新設した隣接する能見台に対する町であることから、地元の要望により名付けた。
町の東側を京浜急行本線が通り、能見台駅がある。
昭和60年の町界町名地番整理施行にともない、片吹、釜利谷町、谷津町から新設した町。
昭和14年の町界町名地番整理事業の施行に伴い、金沢野島町の一部から新設した町。
昭和23年5月15日の金沢区新設に伴い、磯子区から編入。
古くは洲崎町の小名で、野島浦といったが浜名主を定めて村の扱いをしていた。
明治22年の市町村制施行の際、町屋村、寺前村、谷津村、洲崎村、泥亀新田、柴村、富岡村と合併して一部が金沢村大字野島となり、大正15年に町制を施行して金沢町字野島となる。
昭和11年10月1日に横浜市に編入し、金沢町字野島の大部分と寺前、泥亀、町屋、洲崎の各一部から金沢野島町を新設した。
町名は字名の「野島」を採った。
ここは金沢八景の一つで「野島夕照」と呼ばれた。
町内に野島公園があり、展望台からは富士山が眺望できる。
昭和61年の柴町等地先の埋立に伴い、新設した町。
町名は江戸時代から景勝の地として有名な「金沢八景」の一角に位置すること、近くに架かる金沢八景大橋に因み「八景島」と名付けた。
町内には「八景島シーパラダイス」があり、水族館の「アクアミュージアム」や海の上を走る「サーフコースター」「八景島マリーナ」などがある。
昭和55年の住居表示施行に伴い、朝比奈町、六浦町の各一部から新設した町。
町名は朝比奈町の東側に位置する事から名付けた。
一・三丁目と二丁目の境を横浜横須賀道路が通る。
昭和14年の町界町名地番整理事業の施行に伴い、金沢洲崎町の一部から新設した町。
古くは久良岐郡洲崎村といい、明治22年の市町村制施行の際、町屋村、谷津村、寺前村、野島村、泥亀新田、柴村、富岡村と合併して金沢村大字洲崎となり、大正15年1月1日に町制を施行して金沢町大字洲崎となる。
昭和11年10月1日の横浜市編入に際し、金沢町字洲崎の大部分と泥亀、町屋、寺前、野島の各一部から金沢洲崎町を設けた。
昭和50年7月28日に住居表示を施行。
ここは金沢八景の一つで「平潟落雁」と呼ばれた。
北側を金沢シーサイドラインが通り、野島公園駅がある。
昭和55年の柴町等地先埋め立てに伴い新設した町。
町名は「幸浦」と対にして、幸福になるよう願って名付けた。
一丁目から三丁目を金沢シーサイドラインが通り、一丁目に産業振興センター駅、二丁目に福浦駅、三丁目に市大医学部駅がある。
三丁目に横浜市立大学医学部、横浜市立大学医学部付属病院があるほか、一・二丁目は金沢産業振興センターのほか、企業が集積する工業地帯になっている、
また、一丁目に区内最高層のオフィスビルの横浜金沢ハイテクセンターがある。
昭和14年の町界町名地番整理事業施行に伴って金沢谷津町から新設した町。
昭和23年5月15日の金沢区新設に伴い、磯子区から編入。
古くは久良岐郡谷津村といい、明治22年の市町村制施行の際、町屋村、洲崎村、寺前村、柴村、野島村、泥亀新田、富岡村と合併して金沢村字谷津となる、
平成12年10月23日堀口の全域と隣接する長浜の一部で住居表示を施行。
これに伴い、町区域を見直し、「堀口」の一部が「能見台東」となった。
町内で横浜横須賀道路(金沢支線)と京急本線、横須賀道路(国道16号)が交差する。
昭和14年の町界町名地番整理事業の施行に伴い金沢町屋町の全部、金沢寺前町の一部から新設した町。
昭和23年5月15日の金沢区新設に伴い、磯子区から編入。
古くは久良岐郡町屋村といい、明治22年の市町村制施行の際、寺前村、谷津村、洲崎村、野島村、泥亀新田、柴村、富岡村と合併して一部が金沢村大字町屋となり、大正15年に町制を施行して金沢町大字町屋となる、
昭和11年10月1日に横浜市に編入し、金沢町字町屋と寺前、洲崎の各一部から金沢町屋町を新設した。
昭和50年7月20日に住居表示を施行。町名は字名の「町屋」を採った。
平成3年に釜利谷町の一部から新設した町。
町名は斎場地域及び周辺に自生する「水木」を参考にするとともに、緑豊かなまちづくりを目的として命名した。
町内に南部斎場がある。
昭和53年の住所表示施行に伴い、六浦町、釜利谷町の一部から新設した町。
一・二丁目を京急本線・横須賀街道(国道16号線)が通り、一丁目と四丁目の境を金沢八景から本線と分かれた京急逗子線が通る。
昭和11年の横浜市編入の際、久良岐郡六浦荘村大字三分から新設した町。
昭和23年5月15日の金沢区新設に伴い、磯子区から編入。
古くは久良岐郡三分村といい、六浦庄ともいった。
「三分」は所領を区分し、寺分村(大道の常福寺領)、社家分村(瀬戸明神社領)、平分村と三分に分けたものであり、「六浦」は金沢郷と釜利谷郷の総称である。
『倭名類聚鈔』に「鮎浦」(布久良)とある。「鮎」は「?」の誤字で、「河豚」のことで、口が小さく、腹が大きい形が平潟湾のかたちに似ていることからこう呼ばれるようになったのであろう。
この?浦は次第に「六連」「六面」「六浦」と表記されるようになった。最近になって「むつら」は「むつうら」と呼ばれるようになった。
明治22年の市町村制施行の際、釜利谷町、泥亀新田飛地と合併して六浦荘村大字三分となる。
東側を京急本線、横須賀街道(国道16号)、西側を横浜横須賀道路、北西側を京急逗子線が通り、六浦駅がある。
町内に関東学院大学があり、平潟湾を隔てた野島町と結ぶ夕照橋と橋詰公園は「まちなみ景観賞」を受賞している。
昭和14年の町界町名地番整理事業の施行に伴い、金沢谷津町の一部から新設した町。
昭和23年5月15日の金沢区新設に伴い、磯子区から編入。
古くは久良岐郡谷津村といい、明治22年の市町村制施行の際、町屋村、洲崎村、寺前村、柴村、野島村、泥亀新田、富岡村と合併して金沢村字谷津となる。
大正15年1月1日に町制を施行し、金沢町字谷津となり、昭和11年1月1日に横浜市に編入して金沢町字谷津の大部分と字柴、寺前、町屋、洲崎の各一部から金沢谷津町を設けた。
町名は字名を取った。
「ヤツ」は「ヤト」と同義で、谷戸の意味をいう。
中央京急本線、横須賀街道(国道16号)が通り、金沢文庫駅がある。
昭和41年の六浦町地先の埋立に伴い新設した町。
町名は造成地に植えた柳の木に因んで名づけた。
キンモクセイが街路樹となっている街区中央のロータリーに、日本芸術院会員の清水多嘉志氏の「母子像」が建っている。これは京浜急行電鉄株式会社と京急興業株式会社が昭和41年6月に建立したもので、「母子像」は常に平和を表し、喜びと温かさに満ち、金沢八景の新しい理想的住宅建設にあたり、平和な家庭の象徴として、特に清水氏に委嘱して作ったものである。
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