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泥亀新田と沿岸部埋立
最終更新日 2020年11月6日
江戸時代には多くの新田開発が行われます。
横浜では、近世前期に内海を埋め立てた吉田新田(現在の中区及び南区)の開発が有名ですが、同時期に金沢でも平潟湾の埋立が行われています。
近世初頭まで、金沢方面は釜利谷の宿まで、六浦方面は光伝寺近くまで海が入り組んでおり、現在の区役所や警察署、関東学院大学は海の中でした。
六浦方面の埋立は史料の裏付けが難しい状態ですが、金沢方面については、江戸湯島聖堂の儒官であった永島祐伯によって進められたことがわかっています。
永島家によって約200年に渡って埋め立てられた走川・平潟・入江新田の3つは、永島祐伯の号泥亀から採って泥亀新田と名付けられ、一村となります。
泥亀新田開発の歴史
西暦 | 年号 | 主な出来事 |
---|---|---|
1668 | 寛文8 | 走川(現在の寺前一丁目の一部)と平潟(現在の平潟町の一部)の2か所を埋め立てる。 |
1680 | 延宝8 | 祐伯の開いた走川・平潟新田の潮除堤が台風のため破損 |
1703 | 元禄16 | 大震災により、走川・平潟新田が被災。 祐伯の孫4代正仁、5代義兄元義と共に再興を尽くす。 |
1764~1780 | 明和~安永 | 新田の復興が計画される。走川・平潟2か所に加えて、金沢入江の新田埋立拡張を計画する。 |
1785 | 天明5 | 「金沢入江新田」の開発に成功 |
1789 | 寛政元 | 「金沢入江新田」は7月に関東全域を襲った大洪水で冠水。 |
1791 | 寛政3 | 江戸湾を直撃した台風による高潮のため、入江水門破損。新田囲いの潮除堤が流出し、昔日の入海になる。 |
1843 | 天保14 | 9代段右衛門亀巣は泥亀新田の起返しを調整するが、周辺の村から反対を受け、訴訟に発展 |
1846 | 弘化3 | 訴訟が決着、翌年から工事に着工 |
1849 | 嘉永2 | 泥亀新田復興 |
1851 | 嘉永4 | 平潟新田を整備し、塩田を復活 |
1884 | 明治17 | 永島亀巣之碑が野島に建てられる。 |
永島家と区の花牡丹
金沢区では、平成5年(1993)10月18日に、区民の皆さんからのハガキ投票によって、区の花として「牡丹(ボタン)」を選定しました。
金沢区では、江戸時代から野島にあった旧永島邸の庭園の牡丹が、特に有名でした。
また、永島家の土地を買収した大橋新太郎も野島の永島邸から牡丹園を引き継ぎ、更に若木千株を植え込んで、区民に開放しました。
昭和初期まで老木百種、大輪の花が美しく咲き誇っていたそうです。
永島家の牡丹園
(楠山永雄コレクション 神奈川県金沢文庫所管)
大橋家の牡丹園(酒井宣子氏提供)
永島家と龍華寺
龍華寺(洲崎町)の境内には、泥亀新田の開拓者、永島泥亀一族の墓があります。永島家は龍華寺の檀家となり、歴代龍華寺に深くかかわるようになります。特に泥亀新田を塩田として整備することに成功した永島亀巣は、その財力を基に龍華寺本堂の再興に尽力しています。
沿岸部の埋立と開発
金沢区沿岸は、昭和41年に発表された横浜市6大事業の1つとして、40年代~50年代に埋め立てが行われました。
埋立前と比較すると、海岸線や住宅地の状況が大きく変貌していることがわかります。
1950年代の金沢(横浜市史資料室所蔵)
今の金沢
金沢地先埋立事業
並木地区の住宅建設(横浜市史資料室所蔵)
金沢地先埋立事業は、都市の過密化による急激な人口増に対処し、計画的に秩序と調和のとれた都市づくりを進めて市民の誰もが喜んで生活のできる優れた環境を目指し, 実施されたものです。
当時の横浜は、人口増加によって都心部が商店・住宅・工場が無秩序に存在してしまい、都市機能弱体化の傾向をたどっていました。
そこで都心部を業務・商業・住宅地域として理想的な形に配置換え、中心地にある工場を金沢に移転して住工混在を解消、住みよい・繁盛する都市を目指して進められました。
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