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解説(横浜大空襲)

最終更新日 2022年5月11日


戦局の進展にともなって、航空機による都市への空爆が行われ、精密な爆撃は目標とした施設や工場等に大きなダメージを与えた。戦争末期になると、一般市民も無差別攻撃にさらされ、多くの人々が空襲の犠牲となった。

昭和17(1942)年4月18日、ドゥリットル中佐率いるB25双発爆撃機16機が、東京・横浜・名古屋・大阪・神戸を次々と攻撃した。この空襲は、日本本土が直接戦場と化すという意味で、市民にとって初めての体験であった。

昭和19(1944)年7月までに、サイパンなどのマリアナ諸島を次々に陥落させると、米軍はマリアナ基地を築き、新しく開発した大型爆撃機を集結させた。新型機は、全長約30メートル、翼長約32メートル。高度1万メートルを飛行し、3,000キロ以上の行動半径を持ち、2トン以上の爆弾を搭載し、最新鋭の防衛火器も備えていた。これが「超空の要塞」と呼ばれたB29戦略爆撃機である。

昭和20(1945)年5月29日未明、米第21爆撃機集団所属のB29編隊517機がマリアナ基地を発進し、午前9時20分ころ横浜上空に達し、10時半ころまで、約1時間で、総数43万8,576個(2,569.6トン)の大量の焼夷弾を投下した。

密集した木造家屋を焼き払うのに適したM69と呼ばれる集束焼夷弾攻撃により、中区・南区・西区・神奈川区を中心に、横浜の市街地は猛火につつまれた。

この大空襲による被害は、直後の公式発表によれば、死者3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人、罹災者は311,218人とされる。

大正12(1923)年の関東大震災から20年余りが過ぎ、ようやく復興した横浜の街は、再び灰燼に帰したのである。

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