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大倉山公園梅林の歴史
最終更新日 2021年2月15日
平成元年(1989)から始まった「大倉山観梅会」もすっかり春を迎える港北区の恒例行事となりました。
横浜市民はもちろんですが、県内外でも観梅の名所として有名になっている大倉山公園梅林の歴史について、大倉精神文化研究所研究部長の平井誠二氏の著書「わがまち港北」の「大倉山梅林」の章から引用させていただき、東京急行電鉄株式会社提供の写真とともに、ご紹介します。
梅は、冬の寒さに耐えて、桃や桜に先がけて美しい花を開き、良い香りで楽しませてくれます。
観梅の歴史は古く、すでに奈良時代から行われており、「万葉集」には118首の歌が載せられており、これは桜を詠んだ歌の3倍以上で、それほどに人気がありました。
【大倉山観梅会での野点】
大倉山駅の改札を出て、すぐ右の線路際の坂道「記念館坂」を上り、横浜市の指定有形文化財「大倉山記念館」の脇を抜けて少し下ると、龍松院の手前に梅林が見えてきます。
梅林の入口
梅林の由来の説明
この梅林は、東京急行電鉄が龍松院から土地を購入し、昭和6年(1931)に開園したもので、小森嘉一さん(大倉精神文化研究所元研究員)の話によると、東急東横線の学芸大学駅のあたりにあった金持ちの別荘の梅を移植したのが始まりだそうです。
梅林入口にある大倉山公園梅林の由来の説明文には、「最盛期の昭和12年(1937)ごろには、白梅を中心に14種1,000本を超える一大梅林があったとされますが、第二次大戦中は燃料用のたき木を取るため伐採されたり食糧不足のためイモ畑化するなど荒廃しました。」とあります。
昭和18年(1943)ごろに大倉精神文化研究所の創設者である大倉邦彦氏が旧制の高等学校を大倉山に開校しようとした時に、校地として譲り受ける計画もありましたが、実現しないままに戦後を迎えました。
戦後も梅林には数百本の梅が咲き誇り、東横線沿線の観光地として賑わいました。かつては、観梅の時期に臨時急行「観梅号」が大倉山駅に停まったこともあったそうです。
昭和26年(1951)梅林の様子
昭和26年(1951)和服の方も
昭和26年(1951)梅林の様子
昭和27年(1952)梅林の様子
昭和28年(1953)大倉山公園の桜と大倉山
記念館
昭和35年(1960)年梅林の様子(今も昔も花見にはお酒ですね)
昭和44年(1969)梅林での写真撮影会の様子
【昭和26年(1951)から昭和44年(1969)の写真は、すべて東京急行電鉄株式会社広報部ご提供】
梅林は、昭和58年(1983)から昭和61年(1986)にかけて東急電鉄から横浜市に売却され、再整備のうえ平成元年(1989)に大倉山公園の一部として開園しました。
現在は、32種類、約200本の梅が植えられています。一番本数が多いのは大きな実を付ける「白加賀」ですが、中国伝来で萼が緑色の「緑萼梅(りょくがくばい)」、一本の木に淡紅色・紅色・白色の花を一緒につける「思いのまま」などの珍しい品種もあります。毎年どの枝にどのような色の花が咲くのかわからず、人間の手では決して制御できないことからその名前が付けられました。
萼が緑の”緑萼梅”
人の思い通りにならない”思いのまま”
梅園が開園した平成元年(1989)には、地元商店街や自治会町内会などで「大倉山観梅会実行委員会」が設立され、毎年2月~3月の週末2日間で「大倉山観梅会」が開催されています。
平成3年(1991)には港北観光協会が梅林開園60周年記念事業として、大倉山梅林の「白加賀」実を手もぎで収穫して漬け込んだ「大倉山梅酒 梅の薫(外部サイト)」の製造販売を開始。開港以来続く”先進の息吹”と”個性あるものづくりの意欲”を大切にし、個性ある横浜発のオンリーワン商品を目指す地域ブランドであるヨコハマ・グッズ「横濱001」に平成7年(1995)の認定から現在まで連続して認定され続けています。
アルコール度数は13度(ワインとほぼ同じ)で、やや甘めで濃厚です。オンザロックで。ソーダ割りもおすすめです。
毎年大倉山観梅会の会場で、前年の梅を使って製造した新酒が先行販売されます。
大倉山梅酒梅の薫
大倉山梅林の白加賀の実を使って作ります
梅林と大倉山観梅会の様子
家族団らん
樹、春を喜ぶ
朧月の枝垂梅
野点
熱演獅子舞
花舞台
早春の調べ
小雨の梅散策
春や梅
お帽子も満開
夕映えの梅
ワンコだってオシャレして観梅会
【こうほく梅の写真コンテスト入賞作品より】
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