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金沢北条氏と鎌倉時代の繁栄

最終更新日 2020年11月6日

栄華を極めた金沢北条氏

鎌倉幕府の執権を代々受け継いだ北条氏は、始祖・時政から高時に終わる嫡流(本家)が、義時の法名を取って、「得宗家」と呼ばれました。時政・義時の子孫はそれぞれ分流して栄え、鎌倉の要所を押さえて名越・赤橋・大仏・極楽寺などを通称としました。金沢氏もその一つです。
金沢北条氏は、北条義時の五男・実泰を始祖とする北条氏の一流です。

金沢北条氏


北条実時 ー金沢文庫・称名寺の設立ー

北条実時
北条実時像(国宝 称名寺所蔵 金沢県立金沢文庫保管)

金沢文庫・称名寺の創立者として、北条実時は金沢の歴史の上でも特筆されるべき人物です。
実時は実泰の子として生まれ、父が若くして幕政から引退した後を受け、わずか11歳で小侍所別当の要職を継ぎます。
幼少のころから利発であったと言われ、伯父の北条泰時は実時に目をかけ、執権となる孫の経時の相談相手になるよう指導したといいます。
実時は通常は鎌倉の源頼朝墓所、法華堂前の邸宅に住んでいたものと見られますが、金沢にも居館を設けます。
元寇による蒙古襲来の中、鎌倉幕府の重要なブレーンとして期待されており、執権時宗の補佐としてサポートしました。
実時は死期を悟った建治元年(1275)、公職を退いて出家します。実時が金沢に住んでいたのは最晩年のわずか1年半弱です。


北条顕時 ー称名寺の梵鐘改鋳ー

北条顕時
称名寺鐘楼

北条顕時は実時の息子です。顕時の上には実村・篤時という兄がいたことが知られていますが、顕時が金沢氏の家督を継承したのは、母が執権北条政村の娘であったことが大きな理由であると考えられています。
父の存命中には引付衆、父の死後は評定衆・引付四番頭人の要職を歴任し、金沢家の当主として重視されていたことがうかがえます。
幕府の重鎮であった安達一門を殲滅した霜月騒動においては、安達家の娘を正妻としていたことから、顕時も幕府から追放され、下総に籠居させられます。
その後復権しますが、すぐに公職から離れ、仏道修行の余生を過ごします。
正安3年(1301)2月に父実時が作った称名寺の梵鐘を改鋳し、翌月に死去します。
*当該項目の標記に誤りがありました。修正(2014年4月21日)してお詫び申し上げます。


北条貞顕 ー金沢北条氏の最盛期ー

北条貞顕
瀬戸橋

顕時の子・貞顕は、金沢北条氏の最盛期を築いた人物です。
25歳には六波羅探題に選任され、32歳で1年余り鎌倉に戻っただけで、37歳まで長く京都に滞在しました。
京都で公家社会と交流し、さらに大陸からもたらされる宋版の漢籍などを収集しました。この間所領である六浦庄の支配は金沢氏の被官に委ねられ、貞顕は京都から指示するだけでした。
それでも難工事の末に瀬戸橋の架橋に成功し、鎌倉の延長としての六浦庄の都市基盤の整備が図られたようです。また、称名寺の伽藍の整備が進められ、「称名寺絵図」にみられるような大寺院に成長しつつありました。
正和3年(1314)久しぶりに鎌倉に帰った貞顕は、嘉暦元年(1326)に鎌倉幕府の最高権力者である執権の座に就きましたが、幕府内の抗争によって、わずか10日程で退任しました。
貞顕の読書は、基本的には祖父の実時を継承したものです。貞顕は順調に出世し、書物を集めやすい環境に身を置くことで、また称名寺に有力なブレーンが多く集まっていたことによって、鎌倉時代を代表する蔵書を築くことができました。常設の金沢文庫が建てられたのも、貞顕の時代と推定されています。

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電話:045-788-7804

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