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解説(都市再生)
最終更新日 2022年5月11日
昭和20(1945)年8月30日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、厚木飛行場に到着、以後2000日に及ぶ日本占領の第一歩をしるした。瓦礫(がれき)の街となった横浜には、占領部隊が続々と上陸し、横浜税関ビルには、連合国軍の主力である米第8軍の司令部が置かれた。
市内各所には占領部隊のカマボコ兵舎が立ち並び、被災を免れた建物は接収された。市の中心部は金網で囲まれて日本人立入禁止区域となり、占領下の街の風景が現出した。
戦後の生活は、深刻な物資不足で、戦争中にもまして苦しかったが、人々は焦土の中から力強く立ち上がった。駅には食糧を求める買い出しの市民があふれ、各所でヤミ市が賑わいをみせた。昭和21年、天皇が全国巡幸のスタートとして横浜を訪れ、大口商店街や日産自動車工場などを視察した出来事は、市民に明るい話題を提供した。
昭和24(1949)年、“復興は貿易から”をスローガンに、日本貿易博覧会が野毛と反町の二会場で開催され、横浜は着実に復興に向けて歩み始めた。
翌25年の朝鮮戦争の勃発により、横浜を本拠とする米第8軍が戦線に出動したことを機に、接収解除運動も活発となった。また、特需景気により経済界も活況を取り戻した。
昭和27(1952)年4月28日、対日講和条約が発効し、日本は独立を回復した。ようやく横浜市内の接収解除が本格化し、山下公園や大桟橋など主要施設が次々と返還された。
接収解除地の跡地利用・再開発等を含め、昭和30年代以降、都市再生への横浜市民の努力が続けられるのである。
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