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第4回:さまざまな文化の先取りをしたまち鶴見

最終更新日 2019年3月5日

鶴見にあった飛行場

外国の飛行家に刺激されて大空へ飛び立つ夢を抱く人々が,自分で飛行機をつくったりしていた大正時代,鶴見には飛行場が3つもあった。大正10年(1921)12月,玉井照高が自作の飛行機で,後輩たちを指導していた玉井飛行場が生麦にあった。大正12年4月に潮田町が誕生した時には「祝町制施行」のビラをまいた記録もある。関東大震災後に閉鎖され,その跡地にキリンビールの工場が建設された。
大正12年5月,宗里悦太郎が末広町に第一航空学校を開設,宗里飛行場と呼ばれた。飛行機は7機,訓練生は15名。訓練のほか一般の人も料金15円で横浜上空一周遊覧を楽しめた。宗里飛行場には,日本で2番目の女流飛行家として注目を浴びた19才の木部シゲノもいた。木部は「男装の麗人」と呼ばれ,海軍機で高等飛行も行い,航空界の女性ではただ一人,宝冠章を贈られた。スマートな姿でプロペラの音も勇ましく,大空に銀翼をひる返して飛ぶ勇姿に男性飛行士は見ほれ,プロマイドも売り出されるほどの人気者であった。
大正13年に末広町の埋立地(現日本鋼管正門から入舟橋にかけて)に,片岡飛行場が開設された。練習機のほかに偵察機や戦闘機など8機で飛行士の養成をしていた。宗里飛行場・片岡飛行場のいずれも,浅野総一郎が埋め立てた土地を無償で提供していたが,工場の進出により,宗里飛行場は千葉県船橋に移転し,片岡飛行場は閉校した。

西洋草花の民衆花壇

四国生まれの建築家西条軍之助が大正7年ごろ鶴見に移り住み,諏訪坂の丘の上にガラス張りの温室3棟(およそ100坪)を建てた。西洋草花の球根や苗を育て,無料で町の人に開放し,「民衆花壇」と呼ばれた。チューリップ,パンジー,カーネーション,フリージアなどの西洋草花を中心に四季折々の花が咲き乱れ,「突然天国のようなパラダイスが出現した」といわれた。しかし,当時はまだ西洋草花に対する関心がうすく,訪れる人も少なく,昭和のはじめに閉園してしまった。

花菖蒲の三笠園

花月園の繁栄に刺激され,埼玉県の山崎積蔵が大正9年,岸谷の房野の池のまわりに松並木と桜並木をつくり,池には蒲田の菖蒲園から2万5千株の苗を移して菖蒲園を開いた。自然美をキャッチフレーズにした“花菖蒲の三笠園”として有名になった。花火を打ち上げたり,大きな藤棚をつくったり,アメリカからカウボーイを連れてきてロデオなども披露したが,思いのほか訪れる人が少なく,昭和2年に経営難におちいり,閉園した。房野の池では大正9年,日本がはじめて参加した第7回アントワープオリンピックの水泳の予選が行われた。朝香宮も臨席し,記念にスポーツの木の月桂樹が植えられた。昭和11年,房野の池は正式に横浜市のプールとして開設され,ベルリンオリンピックの前畑秀子などがプール開きに来ている。




花菖蒲の三笠園の写真
花菖蒲の三笠園(昭和初年ごろ)

民衆花壇
諏訪坂にあった民衆花壇

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