8 広報よこはま 2021(令和3)年 3月号 / 戸塚区版  広報よこはま 2021(令和3)年 3月号 / 戸塚区版 9 特集 旧東海道とつかの歴史 江戸時代、東海道の宿場町として栄えた戸塚 東海道五十三次のうち、戸塚宿は1604(慶長9)年に設置され、江戸から10里半(約42km)の距離に位置したことから、 江戸を出発して最初の宿泊地としてにぎわいました。昔の戸塚に思いをはせてみませんか。 初代広重「東海道五捨三次之内 戸塚 元町別道」 (所蔵:横浜市中央図書館) 初代広重「東海道五捨三次之内 戸塚 元町別道(再刻版)」 (所蔵:横浜市中央図書館) 二つの浮世絵の違い、見つけられますか? 「東海道五捨三次之内 戸塚 元町別道」  初代広重「東海道五捨三次之内 戸塚 元町別道」は、好評のため何度も増刷され、版木がすり減ってしまったため、新たな版木が作られました。右の浮世絵が再刻版です。再刻版では、構図変更が行われていますが、違いをいくつ見つけられますか。  右奥の橋は現在の大橋(通称:吉田大橋(地図?))です。橋の左には「左り かまくら道」と書かれた道標※があり、東海道と鎌倉道の分岐点であることが分かります。現在、妙秀寺(地図?)の境内に保管されている道標は、この浮世絵にも描かれているものが移設されたものと言われています。江戸からの旅人は、戸塚で東海道から鎌倉道に分かれ、鎌倉に向かいました。また、左側の茶屋「こめや」には、たくさんの札(まねき看板)が掲げられており、大山に参詣する旅人なども往来していたことがうかがえます。 【二つの浮世絵の違い】 @「こめや」の前で馬から下りようとしていた旅人が、再刻版では馬に乗ろうとしています。もしかすると道の「上り」「下り」にかけて、図柄を変更したのかもしれません。 A「こめや」の軒先から背景が見えなくなっています。 B右側の家々の屋根の傾斜が少し緩やかになっています。  このほかにも、違いがあるかもしれません。探してみてください。 ※道標とは、道路標識の役目を果たし、街道から主要な道路へ分岐するところや、大きな寺や神社の近くに目印として建てられており、旅人はこれを頼りに目的地を目指しました。 鎌倉道の道標(妙秀寺) 現在の吉田大橋 JR戸塚駅の2階橋上改札横と地下コンコースにはどっちの浮世絵がある? 【案内サイン設置位置図】 ?品濃一里塚 ?提灯立場跡 ?江戸方見付跡 ?街山八幡社 ?矢部町問屋場跡 ?清源院 ?内田本陣跡 ?脇本陣跡 ?澤邊本陣跡 ?八坂神社 ?冨塚八幡宮 ?原宿立場跡 ?吉田一里塚跡 ?妙秀寺 ?吉田町問屋場跡 ?大橋 ?戸塚町問屋場跡 ?上方見付跡 ?原宿一里塚跡 ?影取立場跡 国道1号 旧東海道 環状2号線 東海道線 横須賀線 横浜新道(国道1号)戸塚駅 東戸塚駅 横浜市営地下鉄 舞岡駅 「旧東海道戸塚宿の歴史を歩く散策マップ」を区役所9階93番窓口で配布しています。 看板を探してみてね! 旧東海道沿いに案内看板を設置しています。まちを歩く際には、看板を見つけてみてください。 原宿付近の松並木(1976年) ★ 総合案内板 ▲ 誘導サイン ● 道案内板 ◆ 歴史案内角柱 宿場ってなんだろう  街道の拠点のことです。旅人を泊めたり、休ませたりする役割を担っていましたが、宿場の最も大切な役目は、幕府の仕事で出張する人たちに人馬を提供し、前の宿場から運んできた荷物を次の宿場へと運ぶことでした。 見付とは?  宿場の出入口のことをいいます。大名などが通る時は、宿場の役人がここで出迎えました。江戸に近い方を「江戸方見付」(地図?)、京都に近い方を「上方見付」(地図?)と呼びました。見付から見付までを「宿場」といい、戸塚宿は2つの見付跡に挟まれた約2.3qの範囲とされています。 上方見付跡 江戸方見付跡 江戸方見付跡 1984(昭和59)年 本陣と脇本陣とは?  参勤交代の大名や公家、天皇の使いである「勅使」などが公用の旅で宿泊する宿舎のこと。戸塚宿には本陣は2つあり、戸塚消防署付近に「澤邊本陣(地図?)」が、戸塚郵便局付近に「内田本陣(地図?)」がありました。本陣だけでは足りなくなると「脇本陣(地図?)」が使われました。 問屋場とは?  公用旅行者や大名などの荷物の運搬、馬や人足の手配、江戸と全国各地の間で取り交わされる幕府の書状を運ぶなどの業務を行っていました。戸塚宿では矢部(地図?)、吉田(地図?)、戸塚(地図?)の3か所の問屋場が交代で業務を行っていました。 立場とは?  宿場間が遠い場合、また峠などの難所に、休憩施設として茶屋などが設けられた場所です。立場が繁栄すると宿場と混同され、集落を形成し宿屋などが設けられ、間の宿と呼ばれました。(地図???) 高札場とは?  幕府や領主が決めた掟などを書いた木の札(高札)を掲示した施設です。多くの人々が見ることができるように、人通りの多い場所に設置されていました。戸塚宿では、高札場は鎌倉道への分岐がある八坂神社の隣(地図?)に設けられていました。 一里塚とは?  江戸日本橋を起点として、街道の一里(約4q)ごとに設けられていました。道の両側に土で小山をつくり、目印として頂上に木が植えられました。旅人は、距離の目安や、木陰を休憩所としていました。区内には、品濃(地図?)、吉田(地図?)、原宿(地図?)の3か所にありました。品濃の一里塚は県内では唯一ほぼ原形で残っており、県の指定文化財になっています。 現在の品濃一里塚 こんもりしているところが一里塚 芭蕉の句碑  松尾芭蕉が旅した東海道沿いには芭蕉ゆかりの人たちが建てた句碑がたくさんあります。戸塚宿内には3か所に、俳人などが建立した句碑があります。  「世の人の見つけぬ花や軒のくり」(地図?)の句は「おくのほそ道」の旅の途中、世間を避けて庵に住む僧を訪れた際に贈ったもので、ひっそりと軒先の栗に花が咲いている様子を詠んだ句です。  「鎌倉をいきて出けむ はつ松魚」(地図?)の句は、当時江戸っ子に珍重されていた初鰹が、鎌倉で水揚げされて江戸へ運ばれた様子を詠んだものと言われています。  「草色々おのおの華の 手柄かな」(地図?)の句は、弟子たちとの別れの際に贈ったもので、いろいろな草がそれぞれの花を咲かせている姿をたたえています。 清源院の句碑(地図?) 冨塚八幡宮の句碑(地図?) 街山八幡社の句碑 (地図?) 問合せ 区役所企画調整係(電話番号866-8326 ファクス番号862-3054)