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瀬谷区の町名とその由来

最終更新日 2019年3月7日

瀬谷区の区名とそのあゆみ

(以下、『横浜の町名』平成8年市民局(当時)作成より)

瀬谷区は、昭和44年10月1日の行政区再編成にともない、戸塚区から分割して新設した。区名は、公募により、瀬谷区、西浜区から選定し、古くからの地域名である瀬谷を採った。横浜市の最西部に位置し、南北に細長い地形で、農業地帯として発展し、明治30年代以降は養蚕業が盛んだった。大正15年に神中鉄道(現、相鉄本線)が開通し、住宅地になった。昭和30年代に公営住宅が建設されはじめ、田園・農村都市的な性格に東京や横浜などの都心部のベッドタウン的性格が加わった。「豊かな水と緑に育まれる、ふれあいと活力の街」を目指し、快適で活力にあふれる街づくり、水と緑にふれあい育む街づくり、充実した毎日を送るための街づくり、人と人の心が通い合う街づくり、安心して暮らせる街づくりを進めている。
瀬谷区の町名は、瀬谷、二ツ橋など古くからよく知られた地名、そして本郷、中屋敷、五貫目など集落や田制に因む古い地名がみられる。字名には谷戸の名称も多く、古くから川沿いの低地や谷戸を中心にして開発が行われたことをうかがわせる。また、昭和49年から瀬谷町の町界町名地番整理事業で40か町を新設し、平成5年度から平成8年度にかけて、阿久和町で町界町名地番整理事業を行っている(※)。瀬谷区内の町の面積が一番広いのは瀬谷町(2.558平方キロメートル)で、面積が一番狭いのは本郷四丁目(0.085平方キロメートル)である。

※(補注)阿久和町ではこの後も引き続き平成10年度にかけて町界町名地番整理事業を行っており、また、さらに平成11年から12年にかけて宮沢町で町界町名地番整理事業を行っている。また、これにともない、阿久和町及び宮沢町については廃町となった。

(瀬谷区の町名一覧)

昭和60年、61年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町の一部から新設した町。町名は地元の要望により字名を採った。『新編相模國(さがみのくに)風土記稿』の「鎌倉郡瀬谷村」の小名(こな)に「相邊澤(あいべのさわ)」の記録がある。中央を相沢川が流れ、一丁目の南側を相鉄本線が通り、一丁目と二・三丁目の境を瀬谷柏尾道路が通る。

昭和14年の横浜市編入の際、鎌倉郡中川村大字阿久和の字鎌取、東原、運上野、宮沢台、向原、狢久保、吉原、小金、宮腰、細川、宮下、西村、蟹沢、雨池、猪窪、馬場畑、赤松戸、隼人、榊山、藤ヶ谷、中村、土橋、善光寺谷、大久保原、山王塚、岡本、慶林谷、日向山の区域から新設した町。昭和44年10月1日の行政区再編成にともない、(旧)戸塚区から編入。古くは鎌倉郡阿久和村といい、明治22年の市町村制施行の際、尾勝村、上矢部村、秋葉村、名瀬村と合併して中川村大字阿久和となる。町名は旧村名を採った。地名研究で、新羅の古語で水を意味する「アカ」にちなむともいい、また、「アクワ」は「川の流れの曲がった様」を意味するという。
(平成10年の阿久和南三丁目・四丁目の設置により廃町となる。)

平成7、8年の町界町名地番整理事業の施行にともない、阿久和町の一部から新設した町。町名は、「阿久和」という由緒ある町名を残したいという地元の要望が強かったことと、阿久和町の西部に位置することから「阿久和西」を採った。中央をかまくら道が通り、四丁目の南側を鴨居上飯田線が通る。

平成5、6年の町界町名地番整理事業の施行にともない、阿久和町の一部から新設した町。町名は、「阿久和」という由緒ある町名を残したいという地元の要望が強かったことと、阿久和町の東部に位置することから「阿久和東」を採った。一~三丁目の西側を阿久和川が流れ、瀬谷柏尾道路が通り、南側を鴨居上飯田線が通る。一丁目に阿久和大岡邸長屋門、長屋門公園がある。公園内の歴史的建物を生きた施設として有効に活用するように、周辺の市民により様々な催し物が行われ、これらの風物詩は平成5年に「まちなみ景観賞」を受賞している。

平成9、10年の町界町名地番整理事業の施行にともない、阿久和町の一部から新設した町。阿久和町の南部に位置することから「阿久和南」を採った。中央(二丁目・三丁目の東側)を阿久和川が流れ、一丁目と二丁目・三丁目の間に瀬谷柏尾道路、二丁目・三丁目と四丁目との間にかまくら道が通る。また、北側を東海道新幹線、鴨居上飯田線が通る。四丁目には県営阿久和団地がある。

昭和53年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町、二ツ橋町から新設した町。町名は、「東野」という字名が、この地域一帯の名称として使われていたので、「東野」と名付けた。西側を和泉川が流れる。

昭和62年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町、二ツ橋町の一部から新設した町。町名は東野に隣接した高台であることから地元の要望により「東野台」と名付けた。

昭和55年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町、旭区上川井町、緑区長津田町の各一部から新設した町。町名は、横浜総合卸センターが設置されたため「卸本町」と名付けた。北側を大和バイパス(国道16号)が通り、南側を八王子街道(国道16号)が通る。

昭和52年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町の一部から新設した町。古くは鎌倉郡瀬谷村といい、明治22年の市町村制施行の際、二ツ橋村、宮沢村と合併して瀬谷村大字瀬谷となる。昭和14年の横浜市編入の際、大字瀬谷の内、字連雀(れんじゃく)谷戸および二ツ橋谷戸の2字を二ツ橋町とし、その他の全区域を瀬谷町とする。町名は地元の要望により、通称として定着していた字名を採った。北西側を東名高速道路が通り、北側を八王子街道(国道16号)が通る。

昭和57年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町の一部から新設した町。町名は、「北村」、「新道」の字名があり、通称の「北新」を地元の要望により採った。西側を境川が流れ、南東側を中原街道が通る。

昭和49年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町の一部から新設した町。町名は、瀬谷区のもっとも北部に位置することから名付けた。町内に工場が集まっている。西側を東名高速道路が通り、北側を大和バイパス(国道16号)が通り、南側を八王子街道(国道16号)が通る。

昭和49年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町の一部から新設した町。町名は字名を採った。江戸時代の初期に年貢の石高が五貫目と定められ、それが字名となったという。東側を東名高速道路が通り、西側を国道246号が通り、八王子街道(国道16号)と交差する目黒交差点がある。

昭和56年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町の一部から新設した町。町名は地元の要望により、通称として定着していた字名を採った。東側を相沢川が流れ、二・三丁目の北西側を中原街道が通る。

昭和59年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町から新設した町。町名は「瀬谷」の名称を残したいとの地元要望により「瀬谷」を採った。六丁目の西側を境川が流れ、南側を厚木街道が通り、一丁目を中原街道が通る。中原街道の二ツ上橋交差点には古くからの交通の要衝であることを示す石碑がある。また、北側を相鉄本線が通り、四丁目に瀬谷駅がある。

昭和14年の横浜市編入の際、鎌倉郡瀬谷村大字瀬谷の内、字連雀(れんじゃく)谷戸と二ツ橋谷戸を合わせて二ツ橋町とし、これを除いた区域を瀬谷町として新設した町。昭和44年10月1日の行政区再編成にともない、(旧)戸塚区から編入。古くは鎌倉郡瀬谷村といい、明治22年の市町村制施行の際、二ツ橋村、宮沢村と合併して瀬谷村大字瀬谷となる。町名は旧村名を採った。地名研究で「セヤ」は「狭谷」を意味するという。町を縦断する形で相沢川が流れ、海軍道路が通り、米軍上瀬谷通信隊、瀬谷市民の森がある。

昭和52年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町の一部から新設した町。町名は、明治初期に字名「中村」、「下村」、「竹之内」の三つを合わせて「竹村」という通称が定着していたので地元の要望により「竹村」と名付けた。西側を境川が流れ、中央を瀬谷柏尾道路が通る。

昭和60年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町の一部から新設した町。町名は、町区域が昔、瀬谷村役場があった場所で、地理的に瀬谷区のほぼ中央にあたることから、地元の要望により「中央」と名付けた。西側を海軍道路が通り、南側を相鉄本線が通る。また、町内を瀬谷柏尾道路が通る。

昭和52年と昭和61年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町の一部から新設した町。町名は通称として定着していた字名を地元の要望により採った。1丁目に瀬谷銀行跡がある。一丁目と二丁目の境を瀬谷柏尾道路が通り、二丁目と三丁目の境を海軍道路が通る。

昭和57年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町の一部から新設した町。町名は地元の要望により字名を採った。三丁目の西側を境川が流れ、北側を厚木街道が通り、南東側を中原街道が通る。

昭和14年の横浜市編入の際、鎌倉郡瀬谷村大字二ツ橋の全区域のほか、大字瀬谷の内、字連雀(れんじゃく)谷戸および二ツ橋谷戸の2字から新設した町。昭和44年10月1日の行政区再編成にともない、(旧)戸塚区から編入。古くは鎌倉郡二ツ橋村といい、明治22年の市町村制施行の際、瀬谷村、宮沢村と合併して瀬谷村大字二ツ橋となる。町名は旧村名を採った。町区域に2か所の小橋があったことから「二ツ橋」と呼ぶようになったという。徳川家康が慶長18年に詠んだという和歌「しみじみと清き流れの清水川かけわたしたる二ツ橋かな」の「二ツ橋地名の碑」がある。町内の西側を和泉川が流れ、相鉄本線、厚木街道、中原街道、瀬谷柏尾道路が通る。瀬谷区役所、瀬谷公会堂、瀬谷警察署がある。

昭和53年と昭和61年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町から新設した町。町名は地元の要望により通称として定着していた字名を採った。西側を境川が流れ、東側を海軍道路が通り、中央を瀬谷柏尾道路が通る。また、三丁目の南側を相鉄本線が通る。一丁目に樹齢三百年を越える大ケヤキがある日枝神社、二丁目に「あじさいの里・白鳳庵」、瀬谷中央公園(こどもログハウス・まるたのしろ)、三丁目に横浜市瀬谷図書館、徳善寺がある。

昭和37年の町界町名地番整理事業の施行にともない、阿久和町の一部から新設した町。昭和44年10月1日の行政区再編成にともない、(旧)戸塚区から編入。古くは鎌倉郡阿久和村といい、明治22年の市町村制施行の際、尾勝村、上矢部村、秋葉村、名瀬村と合併して中川村大字阿久和となる。昭和14年の横浜市編入の際、阿久和町となる。『新編武蔵風土記稿』の「二俣川村」に「密經(みつきょう)新田小名三經(みつきょう)東北の方なり」の記録がある。「三ツ境」のいわれについては、二俣川村、都岡村川井分、中川村阿久和分の3村の境を意味するとか、三ツ境の「境」は「橋」であるとか、旭区東希望が丘の三経山長楽寺に関係した仏教の「密教」に因む、とかの諸説がある。三ツ境商店街付近は、阿久和川の源流となっており、開発されるまでは草深く生茂る森林の中に川の流れをくい止めるため灌漑要の溜め池があり、鎌取池と名付けられていた。この池には、古くから次のような言い伝えがある。「池のまわりの草を刈っていた村の若者の前に、それは美しい若い娘が現われ、涙ながらに草刈り鎌を預からせてもらいたいと懇願されたので、鎌を渡したところ、その娘はスゥーッと見えなくなった。そして、その跡には一筋の水の跡とキラリと光る鱗が残っていた。若者は、この話を村の人々にしたところ、彼のほかにも鎌をとられたという村人が何人かいた。じつは、彼があったというその若い娘は、お白姫様と呼ばれた池の主である大蛇の化身であったのだ。それ以来、村人たちはこの池を鎌取池と呼ぶようになったという」。」今では、もう、この池は埋め立てられ、無くなっているが「鎌取池」の名だけが語り継がれている。北側を厚木街道、相鉄本線が通り、三ツ境駅がある。また、南西側を瀬谷柏尾道路が通る。

昭和54年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町の一部から新設した町。町名は地元の要望により、瀬谷の南部に位置することから「南瀬谷」と名付けた。二丁目の南側を鴨居上飯田線が通る。

昭和56年の町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町、宮沢町の各一部から新設した町。町名は地元の要望により、通称として使われていた「南台」を採った。北側を厚木街道が通り、一丁目の北西側を中原街道が通る。二丁目に横浜市瀬谷スポーツセンターがある。

昭和14年の横浜市編入の際、鎌倉郡瀬谷村大字宮沢から新設した町。昭和44年10月1日の行政区再編成にともない、(旧)戸塚区から編入。古くは鎌倉郡宮沢村といい、鎌倉郡上矢部村から移住した人が田畑を開拓したという。明治22年の市町村制施行の際、二ツ橋村、瀬谷村と合併して瀬谷村大字宮沢となる。町名は旧村名を採った。東側を和泉川が流れ、橋の親柱に鳴り車のある赤関おとなり橋が架かっている。
(平成12年の宮沢三丁目・四丁目の設置により廃町となる。)

平成11年と平成12年の町界町名地番整理事業の施行にともない、宮沢町から新設した町。町名は旧町名である「宮沢」を採った。東側を流れる和泉川に沿って、一丁目には二ツ橋の水辺、宮沢ふれあい樹林、二丁目には東山の水辺、東山ふれあい樹林、三丁目には関ケ原の水辺、寺ノ脇の水辺、四丁目には宮沢遊水地がある。

参考文献の紹介

参考文献については「横浜の町名・地名を調べる」(教育委員会中央図書館調査資料課のぺージ)をご覧ください。

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