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西区制70周年記念 西区大好き!魅力再発見 -西区の温故知新-横浜道

最終更新日 2019年1月28日

横浜道

横浜道

江戸時代、現在の天王町の辺りまでは、袖ケ浦と呼ばれる入江が深く入り込んだ景勝地でした。しかし、帷子川の河口に位置していたために土砂が堆積し、年々浅くなっていました。このため、18世紀に埋め立てと新田開発が行われます。そして、横浜開港にあわせて当時の海岸線に「横浜道」が設けられたのです。現在でもこの道は旧東海道から関内まで通じています。今ではすっかり風景は様変わりしましたが、道路沿いには往時の面影も残ります。


新田開発の埋め立てでできた町

18世紀になると、袖ケ浦(そでがうら)を埋め立てて新田の開発が始まりました。尾張屋新田に次いで、宝暦新田、安永新田、藤江新田、岡野新田と続き、現在の平沼、西平沼町に平沼新田が開発されます。平沼新田は、保土ケ谷宿で代々酒造業を営んでいた平沼九兵衛(ひらぬまきゅうべえ)が三代にわたって埋め立てたもの。現在の平沼神社もこの頃に創建されました。平沼橋駅付近までが陸地になり、幕末には横浜開港に伴い、当時の海岸沿いに横浜道が通り、東海道と横浜港が結ばれます。

平沼新田


「岩亀楼(がんきろう)」の名にちなんだ横丁

横浜が開港された安政年間、中区の港崎(みよざき)町(現在の横浜公園付近)にあった「岩亀楼」の寮があったのにちなみ、「岩亀横丁」と呼ばれるようになりました。付近には「岩亀稲荷」が祀られており、毎年5月には例祭が営まれるなど近隣の方々に大切に守られています。岩亀楼は、作家・有吉佐和子の戯曲「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の舞台のモデルになっており、岩亀稲荷の境内にはタイトルに使用された和歌が掲げられています。

「割烹岩亀本店」店主 内田康久さん

インタビュー
造船所に船が入ると、街が活気づきました
「割烹岩亀本店」店主 内田康久さん

この地で割烹料理屋を始めたのは、昭和27年5月です。当時は造船関連会社が多く、街には活気がありました。朝は造船所へ向かう人たちの下駄や雪駄の音、昼にはポーっという汽笛の音が響き、日常生活に造船所が密着していました。


大老・井伊直弼(いいなおすけ)ゆかりの地

掃部山は、江戸時代には不動山、明治になると鉄道山と呼ばれていました。掃部山に変わったのは明治17(1884)年。横浜開港の立役者であり、彦根藩主だった大老、井伊掃部頭直弼に由来します。旧彦根藩の有志が直弼の開港の功績を称えるために、この地を記念碑建設の目的で購入。掃部山と名付けられ、明治42(1909)年には銅像が建立されました。その後、大正3(1914)年に横浜市へ寄贈されて掃部山公園となり、平成26(2014)年は開園100周年を迎えます。毎年「虫の音を聞く会」や横浜能楽堂で「かもんやま能」が開催されるなど市民に親しまれています。

掃部山公園

井伊掃部頭直弼の銅像


西区地域子育て支援拠点スマイル・ポートスタッフ 山田美智子さん

インタビュー
自然とふれあえる身近な公園です
西区地域子育て支援拠点 スマイル・ポートスタッフ 山田美智子さん

掃部山公園は、子どもの頃からよく遊びに行っていた身近な場所です。緑が多くて池があり、自然の中で遊べる環境は昔も今も変わりません。今でも子どもたちがたくさん来て、虫捕りやザリガニ釣りをして遊んでいます。


伊勢山皇大神宮

関東のお伊勢さま

伊勢山皇大神宮は、「関東のお伊勢さま」「横浜の総鎮守」と親しまれ、伊勢神宮と同じ天照大御神(あまてらすおおみかみ)をお祀りする神社です。明治3(1870)年、久良岐郡戸部村の「お伊勢の森」に祀られていた大神宮を神奈川県が現在の場所に遷座し、辺りが伊勢山と改称されました。以来、横浜港を眼下に見守り続けています。


神奈川奉行所跡/野毛の切通し

横浜経営の拠点だった高台の神奈川奉行所

安政6(1859)年6月、開国にあたって大岡川河口の砂洲だった横浜村が開港場に選ばれます。それをきっかけに、野毛山の北の高台に神奈川奉行所が設けられました。なぜ開港場(関内)ではなく、この場所だったのでしょうか。ここは、野毛山が断崖をなして海に迫っており、開港場の中央から離れた地にあり、外国人に内政を秘密にできることと、戸部が城砦にもできる守りやすく攻めにくいところであったのが理由です。また当時の幕府が神奈川宿・保土ケ谷宿から開港場への物資の流れを管理するために、この高台を拠点にしたともいわれています。外国に脅威を抱いていた幕府は、もしもの時に「横浜道」に架かる橋を落として奉行所を砦にしようとも考えていたようです。
奉行所は、貢租徴収や検察裁判などの内政事務を行う戸部役所と、貿易・外交事務を行う横浜運上所(現・中区)に分かれていました。

野毛山の切通しにより「横浜道」が開通

横浜開港に踏み切った幕府は、「みなと横浜」の街づくりを急ぎました。東海道筋と結ぶ道として芝生村(しぼうむら/現・浅間町交差点付近)から開港場まで一直線に通じる「横浜道」を計画。新田間橋、平沼橋、石崎橋(現・敷島橋付近)を架け、野毛山を切り開き、横浜港にいたる道を通します。開港後、この道を通って西洋文化が全国各地に伝えられていきました。

神奈川奉行所跡/野毛の切通し

神奈川奉行所跡/野毛の切通し


野毛山入口の石積み擁壁(ようへき)

コラム
野毛山入口の石積み擁壁(ようへき)

野毛交差点にある高い石垣をご存知ですか。明治時代の豪商平沼専蔵邸跡のもので、六角形の石が積まれています。「亀甲積み」といわれ、山手の西洋式の「ブラフ積み」と並んで有名です。


中央図書館

モダンな建物は野毛山周辺のシンボル

野毛坂の交差点に位置する中央図書館は、六角形を基調としたユニットを組み合わせた外観の、地上五階地下三階のモダンな建物です。開館は大正10(1921)年で、当初は横浜公園(中区)内で運営していましたが、大正12(1923)年の関東大震災で被災、昭和2(1927)年に現在の場所に開館しました。戦時中には陸軍、終戦後には米軍に接収されたこともあります。現在の建物になったのは平成6(1994)年で、国内でも有数の規模を誇り、人文・社会・自然分野やヨコハマ関連の資料など約160万冊を所蔵しています。

横浜市中央図書館のあゆみ
1921年 横浜公園内の建設事務所内で図書の閲覧開始
1927年 旧老松小学校跡(現在の位置)に竣工、開館
1945年 横浜連隊区司令部の接収で戸部小学校、その後に教育会館に移転
1947年 移転先より復帰し、閲覧業務を再開
1990年 中央図書館建設のため野毛山公園内に仮設館開館。中央図書館の着工を開始
1994年 全面開館、現在の姿に


野毛山動物園

博覧会をきっかけに遊園地として開園

野毛山に動物園ができたのは、昭和24(1949)年に開催された日本貿易博覧会がきっかけでした。会場で展示した動物が訪れる人たちに喜ばれたので、その跡地に動物園を含む野毛山遊園地として昭和26(1951)年に開園。昭和47(1972)年に野毛山動物園と改称されました。


野毛山動物園 飼育展示係 爬虫類担当桐生大輔さん

インタビュー
いろいろな動物の姿を 近い場所で見られます
野毛山動物園 飼育展示係
爬虫類担当 桐生大輔さん

小学校の卒業文集に動物園で働きたいと書いていました。1999年2月から野毛山動物園に勤務しています。ここは、お客様が間近で動物を見られるようにいろんな工夫をしているので、動物を初めて見る小さなお子様にもおすすめです。2014年夏には爬虫類館がリニューアルオープンしました。目の高さで爬虫類を見ることができるので、ぜひご来園ください。


横浜みなとみらい21

海を埋め立てて横浜造船所に

みなとみらい21地区は、もとはそのほとんどが海でした。開港をきっかけに埋め立てが進み、大きな造船所があった時期もありました。現在のように発展するまでに、どのように移り変わったのでしょうか。
横浜は明治5(1872)年の鉄道の開通にともない、貿易の要所として重要な港となりました。しかし港湾設備が不十分だったため、イギリス人技師H・S・パーマーの計画で横浜港が修築されます。明治22(1889)年には、大型船の造船や修理を行う横浜船渠会社が設立され、一号・二号船渠(ドック)がつくられました。現在でも、ドックヤードガーデンで二号ドックの復元した姿を見ることができます。昭和10(1935)年には合併して三菱重工業(株)横浜船渠となり、事業が拡大。造船所の発展に伴い、近隣のさまざまな産業も活況を見せました。


横浜みなとみらい21

ドックの跡地に帆船日本丸を誘致

昭和48(1973)年のオイルショック以降、新造船の需要が激減します。そして昭和57(1982)年、三菱重工業(株)横浜造船所が本牧と金沢へ工場を移転完了。横浜ドックは93年の歴史に幕を下ろしました。
現在、一号ドック跡には帆船日本丸が係留されています。帆船日本丸の誘致は全国10都市が名乗りをあげ、横浜市に決定。昭和60(1985)年4月から一般公開が始まりました。


金子勝雄さん

インタビュー
旧ソ連の蟹工船を8台つくりました
金子勝雄さん

昭和20年代に造船所に入社し、電気溶接工としてドックで働いていました。1000~2000トン級の船を修繕することが多く、旧ソ連の蟹工船もつくっていました。ドックに修繕のために船が入ってくる際に、ピックを開閉すると海水も一緒に入ってきます。その海水を抜くと、おもしろいほど魚がとれました。また大正時代には、のちに作家になった吉川英治氏が錆落としの仕事をしていました。ハンマーで鉄板を叩く錆落としは、通称「カンカン虫」と言われたものです。


横浜みなとみらい21

みなとみらい21地区で横浜博覧会を開催

昭和58(1983)年11月、横浜造船所移転跡でみなとみらい21事業起工式が行われ、この地が「みなとみらい21地区」として動き出しました。「みなとみらい21」という愛称は、一般公募により決定。横浜が未来にむかって発展するための新しい街をつくるという意味が込められています。
平成元(1989)年3月から10月には、21世紀への展望「宇宙と子供たち」というテーマで横浜博覧会が開催され、1333万人が来場しました。この時、パビリオンのひとつとして横浜美術館や横浜マリタイムミュージアム(現・横浜みなと博物館)がオープン。
横浜みなと博物館は、港と船をテーマにした海事博物館です。屋上は芝生のスロープになっていて、日本丸や海を見ながら散策ができます。横浜美術館は7つの展示室で常設展、企画展を催し、市民・こどものアトリエ、美術図書室、レクチャーホールなどがあります。横浜博覧会の会場の一部は臨港パークとして公園となりました。


横浜みなとみらい21

横浜みなとみらい21


横浜みなとみらい21

多くの人が訪れる観光名所として発展

平成2(1990)年には横浜ランドマークタワーの建設が着工され、平成5(1993)年に開業し、高さ296mは、当時、日本一高いビルとして多くの人が訪れる観光名所になりました(現在は第2位)。
みなとみらい21地区は時代とともに様々な顔を見せてきました。


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西区総務部区政推進課広報相談係

電話:045-320-8321

電話:045-320-8321

ファクス:045-314-8894

メールアドレス:ni-koho@city.yokohama.jp

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