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西区制70周年記念 西区大好き!魅力再発見 -西区の温故知新- 旧東海道-

最終更新日 2019年1月28日

旧東海道

旧東海道

西区エリアの「旧東海道」は、神奈川宿から海に沿って保土ケ谷宿へ通じていました。辺りは袖ケ浦と呼ばれた内湾で、静かな入江に白帆が浮かぶ、大変景色のよいところでした。江戸時代、街道沿いの宿と宿の間には、人や馬の休憩場所となる立場がありました。現在の浅間町周辺は芝生村(しぼうむら)といって、この立場として栄えた村です。また甲州街道の八王子宿まで延びる八王子道の起点もあり、芝生の追分としてにぎわいました。


富士山頂の浅間神社が元宮

社殿のある丘は通称「袖すり山」と呼ばれ、埋め立て以前は、そのすぐ下は袖ケ浦(そでがうら)という美しい入江でした。承暦4(1080)年に富士浅間神社の祭神、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の分霊を祀ったと伝えられ、富士山の山開きに合わせて旧暦の6月1日には盛大な祭りが行われています。
この辺りは、江戸時代には芝生村(しぼうむら)と呼ばれ、東海道沿いの立場として栄えた村で、町名変更の際に村の鎮守の名をとって浅間町とされました。

浅間神社


インタビュー
お祭りには区内外から大勢の人が訪れます
浅間神社 宮司 吉田周司さん

浅間神社は江戸時代、旧東海道沿いの立地だったこともあり、多くの旅人が旅の安全を祈願していたようです。毎年開催される神社のお祭りは、このあたりでは最も規模が大きい祭りの一つです。400軒ほどの屋台が出て、西区内外から大勢の人が訪れ賑わいます。また、1日目にはお宮の神輿が、2日目には町内会の神輿が6、7基出て、横浜の大通りを巡行する光景は圧巻です。

勧行寺

名木イチョウのある寺

勧行寺は文禄4(1595)年、日養によって開山しました。境内は木々に囲まれて静寂さが漂い、横浜市の名木古木に指定されている大イチョウがあります。また、天然理心流開祖の近藤内蔵助長裕(こんどうくらのすけながひろ)の墓(供養塔)があり、新撰組局長の近藤勇はその四代目にあたります。


京急平沼駅跡(写真提供:神奈川新聞社)

横浜大空襲の記憶を今に残すホーム遺構

京急線横浜駅と戸部駅のあいだの高架線上に、ホームが残っています。太平洋戦争の横浜大空襲で炎上した平沼駅の跡です。京急平沼駅は昭和6(1931)年12月に営業を開始しました。近くには造船所があり、通勤通学に大勢が利用していましたが、昭和19(1944)年に戦況の悪化を受けて廃駅になりました。平沼駅周辺が一変したのは、昭和20(1945)年4月4日のこと。明け方の爆撃により多くの家が焼け、さらに5月29日の横浜大空襲で駅も火の海にのまれました。平成11(1999)年までは焼け残ったアーチ形屋根の鉄骨がありましたが、現在ではプラットホームが残るのみ。戦災の記憶を残す貴重な場所として、学校の教材にも使われています。(写真提供:神奈川新聞社)


鈴木源一郎さん

インタビュー
横浜大空襲では大きな被害を受けました
鈴木源一郎さん

小学校に上がる前、何度か利用しましたが、戦前の京急平沼駅はタイル張りでモダンな駅でした。駅は造船所へ通勤する人や、学生さん、八景の海水浴に行く人など多くの人が利用していました。昭和20年4月4日の朝、春休みで疎開先から自宅へ戻ってきていたところに、1回目の空爆があり、近くの蕎麦屋の前に爆弾が落ちました。電車の幅より狭い防空壕に20人くらいで避難していた記憶があります。この時、駅は焼けませんでしたが、5月29日の横浜大空襲では駅が炎上し、西区一帯が壊滅的な被害を受けました。


平沼付近の市街地に降りそそぐ焼夷弾


水天宮平沼神社

平沼新田の氏神として祀(まつ)られる水天宮

「安産・水徳の神」を祀っている水天宮平沼神社は、平沼町の埋め立てに成功した平沼九兵衛(ひらぬまきゅうべえ)により、天保10(1839)年に創建されました。その起源は塩田の水路に水天宮の御札が流れ着いたのを拾い上げて、平沼新田の守護神として祀ったのがはじまりです。毎年、1月5日に執り行われる湯立花神事で沸かした湯を飲むと、一年中風邪をひかないと言われています。


水天宮平沼神社

インタビュー
縁日で平沼商店街がにぎわいました
鈴木源一郎さん

戦前から続いていた縁日が、戦後は昭和23年頃から復活したと記憶しています。金魚売りは、真っ白なホウロウの洗面器と真っ赤な金魚がとてもきれいで目に焼きついています。幾筋も傷跡がある二の腕に刀の刃を押しつけて血を流し薬を塗るガマの油売りや、口上がおもしろい唐辛子売りなども人気でした。バナナは当時高価だったので、バナナの叩き売りは出ていなかったと思います。戸部方面や三ツ沢方面からもたくさんの人が縁日にやってきて、盛大ににぎわっていました。


浅間台の眺め

新旧の市街を見晴らす丘

浅間台は西区内でも一、二を競う高い位置にあります。浅間台小学校へとつながる坂の途中からは市街が一望でき、みなとみらい地区や野毛山、伊勢山などの新旧の街並を見晴らすことができます。眺めの良さは黒澤明監督の映画「天国と地獄」のロケ地として利用されました。


東海道と甲州街道を結ぶ交通の要路

道中奉行所 東海道分間延絵図_第1巻


芝生の追分

東海道と甲州街道を結ぶ交通の要路

保土ケ谷区との区境(保土ケ谷区宮田町1丁目)には、芝生の追分が残っています。追分とは道の分岐点のことです。ここは東海道から甲州街道の八王子宿まで延びる八王子道の起点でした。横浜開港後は八王子から横浜港へ生糸を運ぶための要路「絹の道」として大変なにぎわいをみせていたといいます。当時は追分から八王子道に入ったところに小さな川があり、石橋がかかっていて、そばに評判のどぶろく屋があったそうです。


木村坦乎先生終焉地の碑

私費を投じて小学校を建設した教育者

浅間車庫前公園に「木村坦乎先生終焉地の碑」と記された石碑があります。木村坦乎先生は仙台出身で、明治11(1878)年に神奈川県の教師として赴任。保土ケ谷小学校から帷子小学校の校長になった教育者です。教鞭をとった当時学校に通えない子が多かったことから、校長の職を辞した後、追分の近くに私費で鄰徳(りんとく)尋常小学校を設立。関東大震災のため71歳で生涯を閉じましたが、木村先生の徳をしのぶ有志がこの地に碑を建てました。


コラム
西区にも古墳があった!

帷子川北側の台地から発掘された軽井沢古墳です。昭和40(1965)年に明らかになり、横穴式石室と竪穴式石室がある前方後円墳だとわかりました。出土遺物から、7世紀前半につくられた古墳だと考えられています。横浜市域では貴重な前方後円墳です。今では土地造成のため消滅し、記念碑が建てられています。

西区のここがおもしろい!

[3]橋の名前、いくつ知っていますか?

西区は川の町、橋の町。様々な名の橋があります。いつも渡るあの橋には、こんな名前が付いていました。


【人名にちなんだ橋】

藤江橋

岡野橋


西区の川沿いの町は、江戸中期から明治にかけての新田開発で生まれた土地です。だからでしょうか。川に架かる橋名にも、その開発功労者の名が残っています。例を挙げると「岡野橋」は岡野新田を開発した岡野良親・良哉父子の名を付けたもの。「平沼橋」は平沼新田開発の功労者、平沼九兵衛。「尾張屋橋」は尾張屋新田を埋め立てた尾張屋太仲、「藤江橋」は藤江新田の藤江茂右衛門の名が橋の名になっています。この他にも、「高島橋」は鉄道用地を埋め立てた高島嘉右衛門、「鶴屋橋」は袖ケ浦最後の埋め立ての功労者、鶴屋八郎右衛門など人名のついた橋がたくさんあります。

浅岡橋

【地名にちなんだ橋】

橋とは町のはし(境界)という説があります。そう考えると、町と町をつなぐ橋にそれぞれの町名が付いていても不思議ではありません。平沼と岡野の「平岡橋」。後の二文字で「沼野橋」。浅間と岡野の「浅岡橋」。平沼・戸部の「平戸橋」など町名と町名がドッキングして橋名になっているものがたくさんあります。では、「梅香崎橋」は?紅梅町と石崎町(現・平沼二丁目、戸部本町)の間に「香」が入り、ほんのりと梅の香がただようような美しい名前です。昔の人は橋を大切に思い、橋を中心に町と町との付き合いを広げていたのかもしれません。川と橋の町、西区ならではの風情です。


敷島橋

【和歌等にちなんだ橋】

現在は撤去されてしまいましたが、「藻汐橋」の藻汐は、藤原定家の「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻汐の身もこがれつつ」にある昔の製塩方法にちなむ言葉。「敷島橋」の敷島は本居宣長の桜にちなんだ和歌「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」から名付けられました。


万里橋

【鉄道開通時に架けた橋】

「万里橋」「月見橋」は明治5年の鉄道事始めの時に設けられた橋です。万里橋は横浜大空襲を扱った郷静子の芥川賞受賞作「れくいえむ」の舞台となり、月見橋は画家松本俊介が「Y市の橋」として描いた橋でもあります。


上:平沼橋、下:元平沼橋

コラム
由緒ある橋、元平沼橋

横浜港から東海道へと抜ける横浜道の新設に伴い、架けられたのが元平沼橋。もとは平沼橋といいましたが、JR・相鉄線をまたいで新しくつくられた橋にその名を譲り、現在この名になりました。


インタビュー
西区の発展には川がひと役買っていました
渡辺輝夫さん

西区の川といえば、今は帷子川、新田間川、石崎川の3つの川だけです。帷子川の本流は昔とそれほど変わっていませんが、新田間川はずいぶん様変わりしました。藤江橋で帷子川の本流から分かれて横浜駅方面へと流れ、ハマボールの先で直角に曲がって内海橋、南幸橋を経てふたたび帷子川と合流して海に出ています。横浜駅西口を開発する際に、内海橋の手前から直進していた川を埋め立てて、今の西口一帯が整備されたんです。以前は新田間橋から一之橋までの間に6軒のはしけの造船所が並んでいました。対岸の道路には造船材の杉や欅の大木が横に置かれ、木挽職人が大きな鋸で挽いていた風景も懐かしく思い出します。帷子川の平沼橋上流には横浜製糖という会社があって、その前の川をしゅんせつ船が掘っていました。川の流れが速くて、ひと雨降ればしゅんせつ船が動けなくなるほど土砂があったそうです。川やはしけが戦後の横浜港発展の大きな原動力になりましたが、現在の西区の発展にもつながっているんですね。

西区のここがおもしろい!

[4]時代が変われば、駅も街も変わる?

横浜は鉄道とともに暮らしや産業が発展してきた街。近代化の象徴である鉄道を通して、時代によって姿を変えてきた駅の様子を紹介します。


初代横浜駅(横浜都市発展記念館所蔵)

【今の横浜駅は四代目】

明治5(1872)年9月12日、横浜・新橋間の29kmを日本初の鉄道が開業しました。最初の横浜駅があった場所は現在の桜木町駅あたり。「鉄道の父」と呼ばれたイギリス人鉄道技師エドモンド・モレルの肖像と「鉄道発祥の地」の碑が桜木町に建っています。
横浜駅の変遷


大正4(1915)年には、東海道本線の列車がスイッチバックせずに停車できる新駅が高島町に開設。レンガ造りのこの駅が、二代目横浜駅になりました。これを機に貨物ターミナルも埋立地に移り、高島貨物駅となります。しかし大正12(1923)年の関東大震災で倒壊し、横浜駅はふたたび移転。現在の場所に落ち着きました。三代目横浜駅は昭和3(1928)年の開業当時、東洋一のモダンな駅舎といわれるほど近代的な建築でした。その駅舎も老朽化により立て替えられ、現在の横浜駅(東口)は四代目となります。時代の移り変わりにあって駅が移転し、それに伴い街の様子も変化してきました。

二代目横浜駅

三代目横浜駅


横浜都市発展記念館 調査研究員 岡田 直さん

インタビュー
西区には生い立ちの違う3つの顔があります
横浜都市発展記念館 調査研究員 岡田 直さん

西区は神奈川区と中区の一部からできた区で、エリアによって発展してきた経緯も街の表情も違います。明治から大正期には路面電車とともに野毛山・戸部エリアが住宅地として発展しました。三代目の横浜駅が現在の場所に移転した昭和期には、横浜駅周辺エリアが商業地として発展します。そして平成になると臨海部を再開発して、みなとみらいエリアに新しい街が誕生しました。現在では、みなとみらい線が通り、他地域からも多くの人が訪れる街になっています。


横浜市史資料室所蔵「広報課写真資料」

【市電が走っていた街】

明治37(1904)年路面電車が横浜で開通。大正10(1921)年に市営化され市電となりました。開業当初の運賃は片道3銭。昭和30(1955)年代の最盛期には約15路線で市内中心部を縦横無尽に貫きます。しかしその後は乗客数の減少と交通渋滞に悩まされ、市電・トロリーバスともに昭和47(1972)年3月に全廃となりました。


【みなとみらい線の駅】

みなとみらい駅

新高島駅


平成16(2004)年には、新たに「みなとみらい線」が開通しました。各駅ごとに違うコンセプトでデザインされ、「みなとみらい駅」は「船」をモチーフにした近未来的な空間。「新高島駅」は「海」と「モダン」をモチーフに各階を異なる雰囲気にデザイン。駅そのものがギャラリーやオブジェになっています。

原鉄道模型博物館

コラム
原鉄道模型博物館

原信太郎氏が、製作・所蔵している世界中の鉄道車両を再現したコレクションで横浜にいながら世界の鉄道を楽しむことができます。横浜の今昔を再現した「横浜ジオラマ」では昔懐かしい横浜の風景の中を列車が走ります。
(住所:高島1-1-2 横浜三井ビル2階)


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西区総務部区政推進課広報相談係

電話:045-320-8321

電話:045-320-8321

ファクス:045-314-8894

メールアドレス:ni-koho@city.yokohama.jp

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