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環境創造局農政部北部農政事務所
電話:045-948-2480
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メールアドレス:ks-hokubunosei@city.yokohama.jp
最終更新日 2019年3月11日
寺家町は、古代より恵まれた環境にあり、中央の台地には縄文・弥生時代の住居跡として、畑を少し掘れば、至る所に土器片が散見されます。
古墳時代にも、丘々に数個の塚が造られていますし、お伊勢森古墳の西側には横穴古墳も見られます。
東円寺の開基は、何時頃か記録はありませんが、過去帳によれば、大正年間中興とありそれ以前であることは明らかですが、大正11年、柿生の王禅寺に合併しています。
中世、鎌倉時代は「吾妻鏡」にあるように、当地は頼朝に従った鴨志田一族の領地でしたが、畠山重忠と共に倒れ、後に入ったのが、現在の大曽根,金子一族の先祖です。
弘安8年の霜月の騒動に破れ、一族は当地に農民として、ひっそりと暮らしてきたものと思われます。
小田原北条時代、北条氏直から大曽根飛騨守あての古文書が残されており、大曽根氏は鴨志田、寺家の小領主として軍役を負う替わりに年貢は免除されていました。
徳川初期は金子氏を名乗り、小領主として暫くは年貢を免除されていましたが、旗本、筧(かけい)小座右衛門の所領となりました。徳川中期は又、大曽根氏にもどっています。
文禄及び元禄の検地帳等の古文書によると、元禄10年には37戸が農業に従事しその後、天保14年には28戸に減少し、明治10年の改正戸籍では29戸、人口143人、田畑、山林、宅地の総計は76町4反余となっています。
村の水田は天水に依存し、各谷戸の奥には先人達の努力により、用水池が6箇所造られていました。
農産物は、米98石の他、大麦、小麦、粟、ヒエ、ソバ、ゴマ、生糸、醤油、桑が記録されており、明治から大正時代は養蚕が盛んとなりました。
村は明治4年都筑郡寺家村と称し、明治21年の合併で中里村寺家となりました。
横浜市に編入されたのは昭和14年で、平成6年緑区からの分区により現在の青葉区寺家町となり、人口は341人、89世帯で面積86ヘクタール余となっています。
戦後は村をあげての土地改良事業に取り組み、農業基盤の整備と近代化を進めてきましたが、また、同時に美しいふるさと作りのため、桜千本を植林し、4月の寺家は村中花ざかりとなります。
しかし、都市開発が隣町にまで押し寄せるだけでなく、小規模な農家が多くを占めるこの地区では、就業者の減少・高齢化が進み農業の先行きが見えなくなっていました。
また、水田とともに美しい景観を形作っていた雑木林も、薪炭林としての利用がなされなくなるとともに、手入れする人もなく、アズマネザサの生い茂る薮山と化していました。
そうした状況をふまえ、横浜市では、身近な自然とのふれあいによる、潤いある生活を求める市民の要望を生かすような、新しい農業施策を構想しました。
それは、良好な田園景観を有する農業地帯を舞台に、その地域の農業振興とともに、山林や農地という自然環境の保全活用を合わせた”ふるさと村”づくりです。
寺家地区を舞台にしたこの”ふるさと村”づくりの構想の柱となったのは次の3点です。
この構想は、昭和56年策定の横浜市の21世紀プランの中に位置づけられ、農林水産省の自然活用型農村地域構造改善事業(神奈川県・緑の里整備事業)として認証を受け、昭和58年度の”ふるさとの森”整備から昭和62年11月の”四季の家”のオープンまでに各種の施設が整備されました。
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