座談会「学童集団疎開の体験から」
参加者 戦争が終わった前後で先生が言っていることが全く変わったというお話だったんですけれども、もうちょっと具体的にどういうふうに変わったかというところが、ちょっとお話伺えたらと思います。
講師 マイクないけど、でかい声で言いますね。もうね、この年になるとね、ほとんど忘れちゃってるんですよ。すみません。ビンタ食らったのは覚えています。
司会 他に何かございますか。
参加者 横浜大空襲のときは疎開中だったんですね。
講師 ですから。知りません。
参加者 横浜大空襲の前に、小学校3年までは疎開していいよ。それより下の年齢はダメだよってことで、私は1つ違いで行かれなかった。うちの方の南太田1丁目2丁目3丁目は箱根の仙石原行ったの。それでやっぱり大勢だから、体にいろんなものがくっついて、かいかいで、もうおできだらけだった。そのおできがものすごい痛くて痒くて、そういう時代だったのよね。それで小学校のときに私は3年だったから行かれなかったのね、2年だ、3年から行くようになったから。それで私は小学校の2年の時に南太田、井土ヶ谷、黄金町全部焼けて、その中を歩き回って逃げて、やっと助かって今の鬼子母神さんの上に逃げた。昼間。朝早く8時15分に空襲が鳴って急いで、朝だからこんなの大丈夫だ、B29なんか飛んですぐ行っちゃうよって言ったらとんでもない話、横浜全部やられた。朝早くから一生懸命逃げたのに今の鬼子母神さんの後ろに防空壕が3つあって、そこに南太田の人と向こう側の清水ケ丘が一緒になって逃げた。そうしたらもうすごい、わ、大変だ。もう逃げなきゃこの中の人死んじゃうぞって言うんで、さあ、大変だって言って山へ今の高校の山へみんな崖を飛び降りてみんな逃げた。あの時の恐怖感っていうのはないんだよ。もう逃げることが恐怖なんてこんな崖を逃げるったってもう夢中だから怖いとかそういうのがない。何しろ逃げろというだけの頭だったから。それも小学校だからね。それで山へ逃げて助かってみたら、もう伊勢佐木町が全部焼けてた。もうダメだということで、終わってからY校んとこに降りてったら、もうみんなどこの家もみんなもう丸焼け。自分の家も丸焼け。もう住むとこがない。でもうちのおばあさんが、おひつにご飯を持ってきてくれたのも持ってきて、それを食べたから、我々はどうにかやってた。
今のフジスーパーがお醤油屋だった。そのお醤油を、もろみっていうのねお醤油作る前に、それをみんなもらってしのいだっていうことは、あそこら辺にいた人は、みんなもろみをもらって食べたはずだと。そこの共進町が日清製菓だった。日清製菓にも飴があったから、その飴を流れた飴を、もう汚いとか綺麗とか問題じゃない。それを取ってきて飴にしたり、自分たちのご飯を作るものに食べたりして逃げ回ってやっと落ち着いて、それが夕方だったのね。伊勢佐木町がみんな焼けちゃって、何もなかったの。それが夕方落ち着いてみんなそれぞれのうちへ帰ってった。南大田にはうちは馬があったの。そこへみんな逃がしたんで、何も殺さないで、10匹はあそこにいたの。ところが今の清水ケ丘に1頭だけ馬がやられた。焦げた包丁だから、包丁なんだけど手で切るわけにはいない。みんな馬1頭丸裸にして、それを食べた。今のフジスーパーの後の醤油屋さんは正田さんで、今の前の天皇、上皇さんの奥様の親戚であったの。そのおかげで我々も助かったし、日清製菓の飴をもらっただけでも助かったっていう。
それでもう大変だった。ありがたいことに負けたアメリカがみんな助けてくれた。いろんなものをもらって、何をもらったか、もうほとんどがアメリカからもらった、アメリカからもらったっていう。伊勢佐木町行くと、今チュウインガム。アイウォントチュウインガム、アイウォントチョコレート、ギブミーチョコレート。みのさんがよく言ってたギブミーチョコレート。でも兵隊も日本と同じでいい人もいれば悪い人もいた。手であいよってくれた人がいる。中にはほっぽってくれた人もいた。でもそれはもうありがたいから拾って食べた。あんまり良くない人はノー。行け行けって足で蹴って追い出すっていうような感じの人たちに兵隊もいた。中にはいい人がいて、かわいそうにって言って、ちゃんと1つずつチョコレート、小さなチョコレート。今でもハイシーのチョコレート、あれだけは忘れられない。だからフジスーパーなんかに行くと、ハイシーのチョコレートがあった。これだ。これ買おう。食べようって言って。未だに買うときがある。そんな思いが私にはいっぱいある。ここでは話しきれないくらいの、いろんなことがあって、伊勢佐木町の後ろに飛行場ができたっていうのも、そういうことだ。あんまり飛ばなかったけど、飛行場ができて、そういうこともあって。伊勢佐木町におばあちゃんがいて、「さらば横浜よ。また来るまでも」と言って、兵隊さんがそれを見て喜んで10円。今の米国って書いて、10円札をやったり。今のあそこの不二家のところではドーナツを作って、アメリカだな。揚げたやつをくるって一回りして、その一回り揚げたやつを砂糖の中へくるくるくるって落っこって箱に入ってくれた。今でも思い出すけど、不二家にも今もたまに売っているけど、あの味じゃなく、もっとおいしかった。そのおばあさんは「さらば、横浜よ」って言って、家を建てたくらいアメリカ人の兵隊にお金をもらったって言って。私も大きかったらそうやるんだなと思って子どもの頃に見てたけど、それはできなかったけど、そういうこと。だから横浜の焼けたことは、もっともっと話がいっぱいあるけど、あまり言っちゃうと、時間がないから、はい、これでおしまい。
司会 引き続きまして、今いろいろお話いただきましたけれども、座談会ということで、せっかくここで皆さんと一緒に、田代さんの貴重な経験をお話し聞いたものですから、ぜひこういったところも含めて聞きたいなとか、こんなことを経験したよ。今お話しあったように、こんなことを経験した話を聞いたことあるよというようなお話もあれば、ぜひぜひご紹介いただけると、みんなで参考になるかなと思いますので、よろしくお願いします。
参加者 まだ知らないけどみんな知らないと思うけど、南太田と井土ヶ谷の間にB29が落っこちたってそんなの知らないでしょ。たぶん。
参加者 私その話おじいさんから聞いて、井土ヶ谷小学校に落ちたっていう。
参加者 違う違う井土ヶ谷小学校じゃない。南太田と井土ヶ谷の間の大きな家があったの。そこの庭に落ちたんです。それで私が小学校だから見に行って。そしたら親父が、毛が生えた親父が落っこって。今ではそんなじゃないけど、アメリカ人ってもう濛濛だから。それで1人は今の米兵の、イギリスの井土ヶ谷の向こうのお墓。あそこに1人の死体が飛んで木のとこにぶらさがってた。あと1人はB29の下に入ってた。その前に中村が焼けたときに探海灯、今のサーチライト、あれが照らされて撃ったら、当たってベーン。そのときに中村が20軒か30軒40軒くらい焼けたのかな。ここら辺の空襲になる前に、中村が3月29日に空襲になってものすごい勢いで焼けたから。そのときに探海灯に照らされたB29が撃たれて、一回転して。そのときに私ちょうどあそこのとこ見たんだよ。鬼子母神さんに。見てて、落こっちるの見ててすごい勢いでダーンって落っこった。思い出した。お屋敷があった。その庭に起こったんだよ。だからそれは違うよ。
参加者 お父さんはハイヒールを履いた足が落っこってたって。
参加者 だからもうそういうね、散らばって、何人か乗ってたか知らないけど、そのときにB29が29日にやられたんだよ、3月。中村がそのときに中村が焼けたとき夜だったから。あそこの京浜急行のあれがもう真っ赤になって。ここから南太田から中村までが近いから、京浜急行の今ガードの下が全部、火で。焼けてないんだけど、火がもう真っ赤になって。それを見た私が小学校。口が開かない。もうダメ。ぐちゃぐちゃ怖くて怖くて。あんな思いって小学校でしたんだよ、何回も。それで学校なんかも行けないよ。私なんかはちょうど。カバン背負うと空襲で、途中で帰ってこなきゃ。その間に死んじゃう人もいるんだから、当たって。私なんか姉さんと2人でビャーって、パパパパって飛ぶの。映画でよく、アメリカの映画で飛行機がこうやると跳ねてる。鉄砲で撃ったら跳ねる。石が跳ねるって映画がちょうど撮るんで、それと同じやつの私なんか見て、ドラム缶の後ろで2人でこうやって逃げた。そういう思いもしてたんだよね。
だけどそういう思いをするのが、もう85ぐらいのおばあさんじゃなきゃ知らないよ。その若いのがだから、もっとこういうことはもっと早く、みんながこうだったっていうことを教えなきゃいけない。私が入院してるときに小学校の先生にそれを言ったら、「怖くてもうその話はできません」って言われて断られて。だからそのくらい怖い思いをしてるんだけど、私なんかも自分が我が身が大切じゃないんだけども、そういうのが毎日だから、別にもう慣れちゃってんだね。怖いことが慣れちゃってくったら人間は恐ろしいよ。怖いことが慣れてくるなんてのはどういうことだろうって。みんなそういう気持ちになってないから、今は戦争の話をしても、「あぁそうか」っていうような感じで。もう随分前かな、東京のある国技館の前に子どもが入ってきたら、戦争のあれを映してたらこれ本当なんだよ。こういうことがあったんだって言ったら。へえ、それで終わるよ。子どもなんてそんなもんだよ。怖かったんだよって言ってもへえそんなのあるの。そうなんて言われちゃってさ。 もうそれ以上言うことはないから、そうだねって。だけど、もっともっとこの戦争の怖さを身近に寄せないとダメだよ。人間が今変わっちゃってるもん。若い人がぶつかってもごめんねってなくなっちゃってるし。でも中にはそういうばっかりじゃないから、まだ捨てたもんじゃないなと思うけど、私なんかも足悪くなってたら助けましょうかっていう人と知らん面してる人と、やっぱり人間っていろいろあるんだなと思うね。親切にしたから、それはいいっていうこともないけど、そういう心持ってる人が欲しいね。だんだんなくなってるよ。日本人として情けない。そういうこと。はい。
参加者 父の関係で、戦争のこといろいろ勉強させられましたけど、横浜にきてからもいろいろ勉強しましたけれども、学校で全然教えてくれないことを言うんですよね、みんな周りは。なんで日本教育は学校でいろんな歴史の中でそういうことを教育してくれないのかと思いました。アメリカに娘がいるんですけど、アメリカに1年に1回ぐらい行ってたんですけど、ちゃんと戦争のことが出るんですよね。東條英機かどうのこうのとかね。天皇陛下がいろいろ言ったとか。真珠湾攻撃とか。私はアメリカで歴史のことを勉強してきましたよね。真珠湾攻撃で本当に亡くなった大統領の人が日本を。
参加者 当時はトルーマン大統領だよね。
参加者 日本で教えてくれないっていうのがすごく悲しく感じましたね。アメリカはきちっと歴史を教えるんですよ。自分が悪くても。でも私はその時、アメリカは最後は日本を助けるんだなと思いましたよね。東條英機をあの人をどうのこのいろんなことを言いましたけどね。そういうことを日本って全然教えてくれないんですよね。私は本当にアメリカで勉強してるような感じなんですよね。すごく残念ですよね。日本の教育がね。
参加者 タブーされてるんだよ。それは。だから教えないんだよ。
参加者 ケネディ大統領か、ケネディ大統領。真珠湾攻撃で、ケネディ大統領が日本の国籍持っている人をアメリカの国籍にするか日本の国籍に戦うとか、真珠湾攻撃で。その時にケネディ大統領が一言言ったみたいですよね。そのこともアメリカで勉強しました。
講師 日本が戦争に、真珠湾を攻撃をする時には山本五十六は、短期だったら戦争に勝つ、長引いたら勝てないというような意味のことを言って、結局は戦争に入ったわけですけど、これアメリカのですね。罠にハマったということなんですよね。さっきちょっとハワイの話しかけたんですけど、ハワイがカメハメハ大王でしたっけ。ハワイ王国が明治元年から日本人が相当入植していて、勤勉な日本人がトウモロコシの畑とか、いろんなハワイの生活を高めるような努力をしていて、結局20万人ぐらいがハワイにいた。それを、セオドア・ルーズヴェルトになる前に海軍次官の時に、オレンジ計画というのを作って、日本を排斥するような基本的な計画を出したそうです。それでその後ずっと時代が変わって、フランクリン・ルーズベルトの時代に、日本をやっつけるオレンジ計画を細かく作ったというのは、結局日本は日露戦争に勝って、満州国を建国、特に昭和に入ってですね、満州国を作ったという時に、最初ソ連に満州がやられちゃうというので、日本がそれを追い出したという時はアメリカも協力的だったんですが、今度は日本が満州国を作っちゃって、力をあれしたということで、今度はアメリカは日本を敵視するようになって、いよいよオレンジ計画を実行するような状況になってきて。
その前にアメリカでは排日、日本人にはアメリカへの帰化を許さないということで、排斥して、ついに石油を日本に輸出しないというようなことが来て、日本の野村吉三郎の交渉に入ってもとてもじゃないということですよね。最後にはハル・ノートを突き付けられて、日本は追い詰められて、ついに日本の国の世論も戦争をやるしかないんじゃないかというような方向になってきていたということなんですよね。それで結局、近衛文麿はアメリカ協調路線だったんですが、もうお手上げになっちゃって、陸軍大臣をやっていた東條さんにバトンを渡すことになってしまって。天皇陛下もしょうがなくて、イエスって言ってて、結局、東條さんの時に真珠湾攻撃になったということなんですよね。つまり僕が一応最近になって勉強した、要するにアメリカの歴史的な資料を調べて、日本の資料を調べて全体がどうだったのか歴史はというふうに持っていかなきゃいけないんで、ほとんど日本だけの日本の歴史を調べてこうなったというのが、今日本では定説になっちゃっているかもしれない。だけどアメリカは世界のナンバーワンですから。今トランプさんがファーストってやっていますけど、あれはもう前からアメリカはナンバーワンでいかなくちゃいけないということだった、国柄だと思いますね。私の私論ですからね。
司会 今歴史的な話がたくさん出てきたかと思うんですけども、確かに当時日本の国においても、戦争、私も本とか、そういうのでしか分かっていないところもたくさんあって、当時の日本が戦争に入るということで、先ほど石油とか、そういった話がありましたけど、ABCD包囲網とか、かなり日本に対して欧米の厳しい扱いが出てきた。そういう中で日本としては満州国の在りようとか、そういったところから動き始めて、一方で関東軍といって大本営が発令しても言うことを聞かないで動き始めちゃうとかですね。日本自体も統制があまり行き届かないところもあったり。そういった歴史、我々も今ここで何ができるかというと、今先ほどお話しありましたように、一生懸命勉強してですね。なぜそういうふうになったのかというのを自分なりに解釈していかなきゃいけない部分もたくさんあるんじゃないかなというふうにも思います。そういう中で何が正しいのかというのは、本当に難しい話で、当時何が間違ってたから戦争になったのか。
先ほど山本五十六の話がありました。1、2年だったら暴れてやるよと。だけどそれ以降分からないよということを言わなかったから、戦争にスタートしちゃったんだというような書き方をしている本もあります。でも一方で日本の国としては戦争に行かなきゃいけないような状態であったという、先ほど田代さんにお話いただきました。そういう中で日本が一番正しい道をどれが正しかったのかというのは、もう仮定の話でしかあり得ないんですけれども、これからの平和についてどうしたら得られるのかとか、そういったことを皆さんと一緒に考えられたなというふうにも思います。貴重なご意見ありがとうございます。ぜひ皆さんの中でもこういったことがあればなというところとか、せっかく田代さん来ていただいていますので、その当時の話とか聞きたいことがあれば、ぜひ手を挙げて質問していただければと思うんですが、どうですか。何かそういうこととかありますか。はい。どうぞ。
参加者 再疎開された先のおばあさまの戦後のご様子ってどんな感じだったんでしょうか。お子さんは教育が変わって戸惑ったっていう話を伺いましたけれども、大人たちは終戦になってどんな様子だったのか。
講師 特にお話しすることもないんですけども、結局は父は横浜にいて、一切ね、横浜大空襲になった時の話は一切しないんですよ。だから余程ひどかったのか、何か恥ずかしいことがあったのか何か分からない。とにかく一切聞いてないんですよね。それでずっと疎開先にいて、月に1回だけお金を持って確か来たと思うんですけども、そのお金ってどうして得てたのかも知らないんですわ。要するに警防団というのは、給料も出てたのかどうかね。要するに規則で警防団というのが結成されるようになったということは記録にあるみたいなんですけども。ボランティアで自分たちが集まって何かをするというレベルじゃない。野毛に高射砲陣地があって、ああやって構えている。写真回しましたよね。ああいうことをやっているんだから。どうして、お金があったのか、しかもごくわずかなお金をですね。月に1回だけ疎開先に来るわけです。おふくろは実家に、農家だったから、実家へ行ってお米を分けてもらうとか。隣町の二宮に反物持って行ってお金と変えてもらうとか。終戦直後って多分空白状況みたいになっちゃってたと思うんですよね。すみません。答えにならなくて。
参加者 戦争中の時にお母さんたち何してたっていうことでしょ。
参加者 戦後。
参加者 母さんたち何をしてたってことでしょ。
参加者 今までは天皇陛下万歳、みたいな話が終わりましたってなって、いろんなことが。今私朝ドラの「あんぱん」見てるんですけれども、今までの正義が変わったっていう話をしていたので、大人たちがどんなふうに。
参加者 過ごしてたかってこと。当時ね、お母さんたちは旦那さんはみんな戦地に行っちゃってるから。食べるもんだけで精一杯なのよ。だからそれだけに精を出してるだけ。何がどうのじゃないの。もうその日その日で。だから今雑草がなくなっちゃうくらいに雑草を食べてる。だから今で言う酵素だよね。どこの元気なのよ。昔のおばあちゃんって。酵素食べてたから。もうそこら辺の野菜なんか全部野菜なんで。雑草じゃないんだよ。野菜なのよ。そうやって食べてた。おばあちゃん何したとか。そんなんじゃない。お母さんが。自分が食べる。子供が食べさせるだけで精一杯で。何もやることがなかった。だけどそういうことをやってた。子供たち食べさせないといけない。旦那さん戦地に行ってる。そういうことだったんだよ。お母さんたちはみんな。もう戦争終わったら。だから野草になって、そこら辺で野草なんか咲いてなかったんだよ。だけど思い出すよ。これ食べたな。これ食べたな。これ食べたけどうまくないなっていうのは。そんなことだったんだよ。そういうこと。だけど、この横浜市のっていうか。この戦争の話ってもっと細かい話だけど、こんなになって話してるっていうのは、ちょっと私ではいただけないんだけどね。そういうこと。分かった?昔のおばあちゃんたちお母さんたち偉かったんだよ。
司会 どうもありがとうございます。他にこれだけ聞きたいなとかいうことございますか。よろしいですか。どうぞどうぞ。
参加者 お暑い中、先生ありがとうございました。戦争に負けて、マッカーサーが来て、GHQによる支配とか、7年間くらい。6年8ヶ月くらいですか。続いたらしいんですけど。私が聞いているのは、それから給食っていう制度が、その頃から始まって、それまでは日本人が全然食していなかったものを急に食べさせられた、っていうことを私聞いていた。例えばそれが脱脂粉乳であるとか揚げたパン、揚げパンとか、鯨とか、あとはソフト麺みたいなものとか。結局小麦をすごく使ったり結構油脂を使った、つまり炒め物とか急に増えたり、乳製品だとか結構甘いものとかを急に、その頃から食べるようになったことが、戦後現在のやたらこう日本人になんて言うんですかね。成人病っていうのかなと思われたりとか、あとはこう高脂血症だとか、自己免疫疾患だとか増えた原因だったことを結局聞くんですけど、その辺どうなんですか。
講師 戦後アメリカが日本の飢えを助けるということで、いろいろ物資を出して回ったということは聞いていますけども、私の体験は、疎開先に高校時代も、半分いたわけなんで全然ね、それは新聞紙上で知ってても、自分の体験にはね。自分で食べたとかそういう記憶がないんですわ。地域的に偏っていたのかどうなのか全然分からないですよ。
司会 私の父親もですね、先ほどお話しあったように、疎開にはいけなかった年齢だったんですけども、もう亡くなっていて、当時のお話を少し私も今思い浮かべながら、お話聞いていたんですが、さっきの話じゃないですけど、雑草も食べるぐらいなんですよ。食べるものがない中で米軍がもらっている食料を食べるということに対しては、そんな健康どうこうではないです。生きるために食べるんです。そういう話を私は聞いていました。
だから今お話しあったように、高脂血症だとかどうのこうのとかそういう今の、頭の中で考えられるような栄養どうこうではないんです。食べるということで明日を生きる。今を生きる。そのぐらい大変だったという話は、私は聞いています。だからさっき雑草を食べると言っていましたけど、本当に落ちているものでも何でも食べるんですよ。人間って究極に生きるために食べるというふうになったら、そんなことを考えていられない。
そのぐらいの状況に置かれていたということで、今あるように栄養がどうこうなのかというレベルじゃないというぐらいに追い込まれるということが、さっき誰かお話しありましたけど、今は平和で、あまりそういうことを考えていないから、かもしれないんですが、当時にしてみると、明日今日を生きるのに精一杯で、何もそんなレベルのことを考えられない。だから社会の考え方が変わったから、どうなのかなということレベルじゃなくて、もう今日明日を生きるために、子どもがいれば、子どもを生かすためにどうしたらいいの。何をやったらいいのということを必死にもがいていたというのは、私も聞きました。
そういう話を皆さんと一緒に共有できたというのは、今日は貴重だと思うんですけれども、ぜひそういったことも、そのぐらい追い込まれていたということを、皆さんも一緒になって考えられたらなというふうに思っています。