講演会「学童集団疎開の体験から」

 

ただいまご紹介いただきました田代でございます。よろしくお願いいたします。いや、すごい暑い中よくお越しいただきました。今年90歳ということで、この暑さには参ります。なんとか元気に今日は出て参りましたので、ひとつ最後までお付き合いいただきたいと思います。それではパワーポイントも含めて用意いたしましたので、ご覧いただきながらお聞きいただきたいと思います。私ずっと一品香を今年70周年なんですけども、創業の時から経営して参加してきておるわけですけども、友達がですね、どんどんいなくなってきちゃって、今日のような話を、本当は話ができる人もいらっしゃると思うんですけども、ほとんど戦後生まれの方と言うことなので、希少価値が出てきたらしくて、こういう事態になりました。

 

日本はですね、昭和7年から、私が生まれる3年前ですが、満州国という国を建国いたしました。今の中国東北部に進出したわけですけども、翌年に国際連盟を脱退しております。そして、12年に日中戦争が始まりました。13年には国家総動員法という法律が出来まして、戦時体制の名の下に市民の経済生活が全般にわたって、統制下に置かれまして、非常に強制的な戦力として、国民全員が巻き込まれていきました。小学生もですね、小国民ということで、お国のために頑張ってくれということで教育をされてきたわけです。昭和15年頃にはですね、隣組制度それから防空訓練、防空壕掘りなどが進められました。灯火管制などもきつく行われてまして。日本はその後、日独伊三国同盟に調印し、アメリカからは対日石油の輸出を禁止されて、日本はそのためにオランダ領であった東インド、今のインドネシアの石油獲得を目指して、軍は南方に進めていったわけですけれども。この対日石油の輸出を禁止するというアメリカに対して、日本も日米交渉をしておったわけですけれども、全く交渉にならないということで、ではどうするのかということになり、結局、南太平洋に進出するということで解決をしようとしたわけですね。そして、昭和16年、東條英機内閣になりました。これは余談ですが、アメリカの占領機関GHQがですね。戦中に出版されたアメリカにとって都合の悪い本を焚書するということで、7700冊の本を焚書したということなんです。アメリカは、明治元年から日本がハワイに随分と移民していたわけですけど、その頃から日本を非常に恐れるようになって、さらに日露戦争に勝ったということで、なお、日本をどうかしなくちゃならないというようなことをアメリカの方は考えていたようです。ついに東條英機内閣になったわけですけれども、その年に小学校は国民学校という名前になりました。その年に私1年生になりました。161718年と戦争は続いていくわけですが、これが今スクリーンに出ている、どの年にどのような戦争が海戦が行われたかということです。これを見ると、ほとんど太平洋を中心の戦争なので、アメリカは太平洋戦争と言っているわけですが、日本は大東亜戦争と言っていたわけですけれども、戦後アメリカのGHQは大東亜戦争という名前を禁じたわけです。したがって戦後、大東亜戦争という言葉をほとんどマスコミでは使っておりません。

 

真砂町に、中区真砂町なんですけれども、旧市役所が真砂町1丁目と港町1丁目に建っているわけなんですけれども、その3丁目で八百屋をやっていたんですが、そこでこの18年頃から空襲が行われるようになり、隣にキリンビアホールのビルがありまして、空襲警報発令とか警戒警報発令の際に防空頭巾をかぶって隣のキリンのビルの地下のビアダルが転がっているところへ駆け込んで、潜っていたというような経験をしていますけれども。父は日本が危なくなってきた頃、俺のこんな歳でも召集されるのかと言って召集されてすごい宴会もやって出ていったわけですけれども、横須賀海軍の方へ行ったときに身体検査で胸に影があると、結核の影があるということで、追い返されて帰ってまいりました。そして、4年生になった昭和19年、横浜の中心地が関内地区が強制疎開ですね。建物も住民も全部強制的に疎開をすると。強制疎開が始まりました。

 

スクリーンに出ているのは、その時の戦争の関係と内閣の移り変わりというのを書き出した一覧表です。アメリカ軍はサイパン島に昭和19年の615日に上陸をして、718日には南雲忠一中将の守備隊が玉砕をして、これからいよいよ日本の敗戦は濃くなってまいりました。その間の630日、我々子どもたちを学童疎開に出すということが決められました。政府は将来の日本を背負って立つのは子どもたちであるということで、子どもたちつまり人的資源の保護をするということで、全国の13都市を指定して、8月中には超スピードで完了いたしました。630日に内閣が閣議決定をして、78月で学童疎開を全部完了するという命令を出したらしいんですが。そして、各県の県知事が学校を指定して、都市を指定して。その疎開というのも、縁故疎開が中心なんです。縁故疎開に行けない子どもを集団疎開で疎開させると。そして残ってしまう子どももいるということなんですが、大体100万人の規模であったということです。神奈川県では横浜、川崎、横須賀の3つの都市の市の中心部の国民学校に疎開命令が下りました。神奈川県知事は疎開先として、箱根湯河原の温泉地と県内の寺院や公民館へ、合計77校が指定を受けました。

この学童疎開は親と離れて生活ができる3年生から6年生が対象で記録によりますと、集団疎開に参加した学童は、私が在学していました横浜国民学校は349名、そして、本町国民学校は215名とか記録がいろいろ残っております。

 

私の疎開先は箱根湯本の福住旅館でした。それと鎌倉館それと湯本国民学校の校舎。この3箇所に分かれて疎開をいたしました。学校によっては先ほど申しました寺院とか公民館などに疎開をしておりますので、温泉地に疎開をしたというのはすごく幸運だったなということです。      私の家族は母と弟妹の4人がおばあちゃんのいる祖母の実家である足柄下郡下中村に縁故疎開をいたしました。父は真砂町の警防団員として残って、結局家族は3つにバラバラになったということです。警防団というのをよく知らなかったわけですけども、いろいろ探したところ警防団の写真が出てきましたので、ちょっとお見せしたいと思います。(写真を会場に回覧)警防団は町内の役員というような人たちが主だと思いますが。ついでに出てきた写真が横浜が大空襲にあって焼け野原になった時の写真です。政府はこの学童集団疎開に対して教育方針を発表しているわけです。次代を担う皇国民。皇国民というのは天皇の皇という皇国民の基礎的錬成を全うして、行学を一体とする国民学校教育の精神を徹底させることを旨として、

1戦意を昂揚し、抗戦必勝の信念を涵養すること。

2強健なる心身を育成すること。

3集団生活におけるしつけ訓練を徹底させること。

というこの方針に沿った教育を私たち集団疎開学童は終戦までの1年間しっかりと学び訓練されたわけです。

 

その疎開の状況の写真なんですが、今これは食事をしているところですが、一列に並んで、「はし取らば 天地御代(あめつちみよ)の御恵 君と親との御恩あじわえ」ということを、みんなで謳って、そしていただきますと言って食べるわけですけども、この食事がですね、すごく粗末っていうか。同級生の人の日記があって、それが横浜市の集団疎開という600何十ページかにわたる厚い本があるんですが、その中で書いているのを読むと、朝食はふりかけ、次の日もふりかけ、次の日もふりかけ。ずっとふりかけは続いている。夕食は雑炊、雑炊、雑炊、雑炊ってずっと書いてあるというのを読んだんですが、そのところ何を食べていたか全く覚えていなくてですね。その日記を見ていて、こういうのを食べていたんだなというのを気が付きました。

 

これは勉強しているところですね。勉強はですね、午前中勉強時間で、みんな正座している寺子屋方式ですね。この写真は立っている写真ですが、先生は座ってですね、みかん箱を前に置いて、教科書をみかん箱の上に置いて、みんなの方に向かって教えるというようなことなんですけれども。これは合唱しているところですかね。これは宮城に向かって、挨拶、お休みなさいと言って、そして、寝床に入るということですね。これは温泉地の学校、平楽ですか。福住の旅館では風呂が小さくて、こんな姿はありません。結局遊ぶ時間はこういったトランプ、将棋、かるたを出して楽しんでいたという写真ですね。これも女の子の遊びですね。

 

毎日の日課は結局、全員起床から始まりまして、洗面、旅館の玄関先で乾布摩擦、ラジオ体操をして、そして、玄関の板の間で朝食を取るというようなことでありました。そして、先ほどの「はし取らば 天地御代の御恵 君と親との御恩あじわえ」と唱えて食べ始めました。午後はですね。勉強の後、午後は裏が湯坂山という山でしたので、調理用の薪のために杉の丸太を担いで運ぶというのが、毎日のような勤労奉仕でありました。そして、夜の就寝も一斉に就寝ということでした。ただ、寝るのに一番悩まされたのはノミとシラミに悩まされて、もう痒いということでですね。これはもう痒い痒いって毎日のように大騒ぎをしていたわけです。先ほどの食事のことなんですけども、先生方がですね。買い出しに行って、おかずになる野菜とかおかずになるものを集めてこれればいいんですけど、そういうことができなかった時などは、本当に、例えばご飯があって、バターのこんな小さな欠片が1つ乗っているだけとかですね。細いお皿に乗っかるような細いさつまいも3本だけで、ハイこれでもうおしまいとかですね。とにかく食べるものには事欠いておりました。

 

そして、私のクラスには優秀な級長がいてですね、当時憧れていた霞ヶ浦の予科練、それから江田島海軍兵学校などの話をしてですね。夢中になって、そういった話を聞いたり、先生の中には忠臣蔵の講談などもやってくれたりして、非常に時間を紛らわすことができたわけです。よく歌を歌っていたんですけども、これは当時一番歌っていた歌がやっぱり「お山の杉の子」「箱根八里」、そして軍歌でしたね。軍歌は「出征兵士を送る歌」、「月月火水木金金」、「ラバウル小唄」、「同期の桜」、「暁に祈る」、「愛国行進曲」。とにかく今でも20曲くらいは歌えますね。とにかくこの頃は忠君愛国、武運長久、そして、欲しがりません勝つまでは。撃ちてし止まんの掛け声。ということで、毎日我慢我慢の毎日であったと思います。そして、万世一系の天皇の名前や教育勅語を暗記させられもしました。

神武(じんむ)・綏靖(すいぜい)・安寧(あんねい)・懿徳(いとく)・孝昭(こうしょう)・孝安(こうあん)・孝霊(こうれい)・孝元(こうげん)・開化(かいか)・崇神(すじん)・垂仁(すいにん)・景行(けいこう)・成務(せいむ)・仲哀(ちゅうあい)・応神(おうじん)・仁徳(にんとく)。

ずっと十何代ぐらいまでは覚えていたんですけど、今は忘れました。そして、五箇条の御誓文、そして、教育勅語ですね。教育勅語も暗記させられました。

「朕惟ふに 我が皇祖皇宗 国を肇むること

宏遠に徳を樹つること深厚なり 我が臣民

克く忠に克く孝に 億兆心を一にして 世世

厥(そ)の美を済(な)せるは 此れ我が国体の精華に

して 教育の淵源亦実に此に存す

爾臣民 父母に孝に兄弟に友に 夫婦相和し

朋友相信じ 恭倹己れを持し 博愛衆に及ぼ

し学を修め業を習ひ 以て智能を啓発し徳器

ヲ成就し 進で公益を広め世務を開き 常に

国憲を重じ国法に遵(したが)ひ 一旦緩急あれば義勇

公に奉し 以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし

是(かく)の如きは 独り朕が忠良の臣民たるのみ

ならず 又以て爾(なんじ)祖先の遺風を顕彰するに足らん」云々と。

ということで、これは明治天皇の勅語ですから。明治天皇が教育勅語と軍人勅語ですか。というのを発表しているわけですけれども。我々はこの教育勅語を暗記させさられました。今にして思えば現在の戦後の考え方として、何ら問題はないわけですけれども。しばらく戦後はこれを発表することも憚られておったと思います。

 

昭和20年の3月、東京が大空襲を受けまして、267千軒が消失しました。そして、41日沖縄に米軍が上陸してきました。そして、529日に横浜が大空襲となりました。爆撃機B29500機。P51100機。焼夷弾約207千発を投下したという記録です。横浜の投下した爆弾は、東京大空襲の1.5倍の無差別絨毯爆撃です。死者が3649人、重軽傷者1179人、罹災者31万人ということですが、これは公的な発表なので、もっと多いのかと思います。19年の8月に疎開が始まりまして、翌20年の7月に入って、父が疎開先にリアカーで、私を迎えに来ました。私はリアカーの荷台に乗せられて、縁故疎開先で弟などがいる足柄下郡下中村に向かいました。途中ですね、敵の飛行機の音が聞こえたのですぐに酒匂川の松並木の大木の影に隠れて、バーって行っちゃって、その後大丈夫だなということで、またリアカーに乗せられて、再疎開先に向かったわけです。なんで迎えに来たのか?これは未だに不思議な話なんですが、下郡下中村は、相模湾に面した村の1つ山側の村なので、非常に危険な地域だと思うんです。そこはおばあちゃんがずっと田代家を守ってきた。おばあちゃんは竹槍で戦うんだと。戦って、どうせ死ぬと。どうせ死ぬんだったら一緒に死にたい、ということで迎えに来たというんですね。それほど切迫した気持ちでいたということなんですけれども、そのために私を迎えに来たということです。ところが再疎開した田代家の実家の状況は、集団疎開していた時の食料事情よりもっとひどかったわけです。結局祖母と母と弟2人と妹と5人家族(※講師を含めて6人)なんですが、隣のお百姓さんにはお米があるんですが、疎開家庭にはお米がないというようなことで、ヒエやアワの雑炊や、さつまいも、すいとんが主食だったわけです。芋のつるやみかんの皮も食べました。そして、一番悲しかったのが祖母が母に対して、子どもたちに食べさせるものはないのかというようなことでいじめをするわけですね。それは悲しくて、私は押し入れに入って泣いていたこともありました。そんなことで7月に再疎開をして、しばらくしたらもう8月ですけども、関西の方で新型爆弾が落ちた、死者がうんと出たというニュースがあったわけです。そして、815日に天皇陛下の玉音放送があるから、正座して聞けということで座敷に正座して、ラジオの前に座りました。そして、戦争が負けたと。その時どう感じたか人に聞かれるわけですが、その時の感想というのは、頭がぼーっとしていて、ただ緊張が解けて命が助かったということを感じておりました。それと戦争に負けて、日本はこの後どうなっちゃうのかなという不安も感じました。

 

その後の情報ですけど、相模湾にはアメリカの連合艦隊が集結をしていたということです。戦争に負けるということがいかに惨めかということがわかるようになるのは時間がかかりましたけども、連合軍総司令部GHQ7年間の占領政策の結果、私が印象に残るのは一国の憲法を作り変えられた。二度とアメリカと戦える戦力を日本から奪って無くさせようと。これが憲法9条につながったと思います。そして、極東軍事裁判で国民の敵はアメリカじゃなくて軍部だという意識にさせられました。我々は、悪いのは東條だというような意識にさせられたわけです。

 

そして、愛国心が叩き込まれておった教育から一転して2学期から下中村の国民学校に転校したわけですけども。先生は急に言うことが変わったわけですね。中には予科練帰りの体育の先生もいて。僕はみんなと机の上を飛び跳ねて、八艘飛びだっていって遊んで。自由だからいいんだって遊んでたら呼び出されて、廊下に立たされて、ビンタ食らっているというようなことがあったわけですけど。そういうことは書かないですよね、記録にはね。そういうような、先生の言っていることが180度戦前と戦後と変わったわけですよ。これには生徒としては面食らいますよね。修身とか歴史とか地理というのはなくなりました。そういうことで、特にさっきの教育勅語と修身とは一連のつながりがありますが、そういうものがなくなりました。だから自由だと言って何でも自由だ自由だと言ってやったのがまずかったんです。そういうことで、縁故疎開、集団疎開を体験している経験者というのは、昭和7年、8年、9年、10年、4学年でしかも、17都市のそのうちの神奈川県では3都市のしかも、市街地のその学校だけですから、非常に体験者が少ないと言いますか。そういうことだと思います。そういうことで話としてはあまり聞かないこともあろうかと思いまして、今日は呼ばれたのかなと思います。この辺で終わって、みなさんの質問に答えたいと思います。どうもありがとうございます。