【36ページ】 第3章 横浜市の歴史文化の特徴  本市には、先史時代から現代に至るまで脈々と受け継がれてきた文化財が、市域にわたり 残されています。時代とともに積み重なり、変化しながら現代に至っている多層的な横浜 市の歴史文化の特徴を、5つに分類・整理しました。 1節 海と川とともに暮らした先史から古代の人々  約3万年前の旧石器時代の遺跡は市域西側に点在し、その後の狩猟採集生活の痕跡が、鶴見川流域を中心とした東側へと広がります。 恩田川から谷本川を臨む段丘面上には縄文時代草創期の遺跡が集中しており、有舌尖頭器などの旧石器~縄文時代の過渡的な石器群に加えて、新たに土器の使用がみられます。温暖化により海水面が上昇した縄文時代前期には、海浜部や河川流域に貝塚や墓域を伴う定型的な集落が形成されました。縄文時代中期は市域全体で遺跡数が激増し、その中には大規模な環状集落も含まれます。しかし、縄文時代後期に入ると寒冷化もあり、集落の規模や数が縮減していきます。  稲作が普及した弥生時代は、河川流域の低地が水稲耕作の舞台になり、それらを臨む台地上に環濠集落等が形成されました。横浜市域には、弥生時代中期に東海地方から稲作が伝播し、弥生時代後期には長野-群馬系の人々が市域北西部(鶴見川上流域)に移住・定着していました。  古墳時代は、河川流域の地域社会単位で古墳群が築かれました。特に広大な沖積地を擁する多摩川・鶴見川両下流域の日吉地域(後の武蔵国荏原郡の一部)には、南武蔵を統括する大首長の前方後円墳が築かれました。その他、鶴見川上流域は武蔵国都筑郡、大岡川流域は武蔵国久良郡、唯一、相模湾側に流れる柏尾川流域は相模国鎌倉郡に属することになるなど、稲作農耕社会成立後、河川流域ごとに地域社会が成立・発展していきました。 2節 鎌倉文化の広がり、戦乱と地域の再編成 【37ページ】  中世における横浜市域の歴史は、①都市鎌倉の影響を受けた時期と、②戦乱が頻発する中で戦国大名権力により地域が再編成される時期の2つに分けられます。  ①の時期では幕府が置かれた鎌倉に近接する市域に幕府直轄領や御家人領、鶴岡八幡宮領等が増え、證菩提寺や光明寺等、鎌倉時代の仏像を伝える寺院が多く創られました。特に鎌倉の外湊として発展した六浦津(金沢区)には鎌倉時代の寺社が多く、中でも金沢北条氏の菩提寺である称名寺は学問の拠点となり、国内外より多くの僧侶が訪れて、様々な書物・文物が金沢文庫に集められました。  一方②の時期では、15世紀半ばに鎌倉公方が下総国古河に拠点を移したことで関東に戦 乱が広がり、市域には茅ケ崎城(都筑区)や長尾砦(栄区)等多くの城や砦が造られました。やがて、小田原北条氏のもとで、市域は小机城(港北区)や玉縄城(鎌倉市)といった支城を中心とした支配体制の下に治められていきました。  その後、関東を貫く東海道が主要な道となり、街道に面した神奈川湊が繁栄しました。また、この時期には雲松院や泉谷寺(ともに港北区)等の武士層とつながる禅宗系寺院が多く創られ、かつての村々には戦国時代の人々の様子を示す古文書が残されています。 3節 陸路と海路が交差する江戸の玄関口  江戸時代の横浜は、幕府が置かれた江戸と政治・経済面で密接につながっており、吉田新田を開発した吉田勘兵衛も、江戸の材木商でした。  横浜には江戸と上方を結ぶ大動脈の東海道が通り、神奈川宿、保土ケ谷宿、戸塚宿の3つの宿場が置かれました。また、東海道の脇街道の中原往還と矢倉沢往還が通い、これらの街道を結ぶ様々な道が網の目のように通っていました。  海路では、海の関所・浦賀に近い金沢に、武州金沢藩米倉氏の陣屋が置かれました。神奈川宿から保土ケ谷宿にかけて広がる神奈川湊は中世から続く湊であり、江戸時代には西日本や東北各地から多くの商船が出入りし、物資の集散地となりました。  陸路の神奈川宿、海路の神奈川湊、さらに東海道から分岐する神奈川道(八王子道)等が集まる陸上交通・海上交通の結節点として、周辺地域の経済・文化の中心となりました。この地域構造と繁栄が、幕末期の開港場・横浜の基礎となりました。  18世紀後半には、庶民の旅が盛んになり、市域では金沢八景が景勝地として知られ、東海道などを経由して多くの人々が訪れました。矢倉沢往還は大山道として知られ、大山参詣の人々で賑わいました。また、富士山の信仰も盛んになり、市内の各所に富士塚がつくられました。 【38ページ】 4節 開港に始まる国際性と近代性  幕末の開港を契機に、国際貿易都市として歩み始めた横浜には、国内外から多くの人々が移り住みました。外国人居留地には欧米諸国や中国の人々が進出し、様々な外国系の技術や文化が伝来しました。山下居留地には貿易の拠点となる各国商館が建ちならび、山手居留地には、居留外国人のコミュニティを支える教会・学校・病院・墓地・公園等が整備されました。港湾や鉄道・街路等の交通インフラ、ガス・上下水道等の生活インフラの整備に近代的な技術が導入され、煉瓦やジェラール瓦等西洋伝来の材料を用いた洋風建築が建設されました。また地蔵王廟(市指定文化財)にみられる中国系の建築・工芸技術も伝わり、横浜は移住者によって大きな発展を遂げました。  また、海外文化の窓口となった横浜からは、洋画・音楽・演劇等の芸術、競馬・ボート・テニス等のスポーツ、西洋料理・ビール等の食文化が、国内へと広がっていきました。横浜港は、国内外の人・もの・情報が行き交う日本の玄関口でした。特に、明治期の主要な輸出品であった生糸は、横浜発展の大きな原動力となり、周辺部でも養蚕や製糸が盛んに行われ、生糸貿易で財をなした実業家たちは、横浜の政治・経済・文化の各方面で影響力をもつようになりました。  横浜からは、日本各地の風景や風俗を写した「横浜写真」が海外への土産物として好評を博し、芝山漆器や眞葛焼のように、在来の技術と西洋の文化が融合した横浜独自の工芸品が海外に輸出されました。多様なルーツを持つ人々が織り成す国際性と近代性に富む点が、横浜の歴史文化の特徴の一つです。 【39ページ】 5節 谷戸や海辺で営まれた暮らし  市域の人々の暮らしは、その土地の自然環境と密接に結びついてきました。内陸部には、多摩丘陵や相模野台地に源流をもつ鶴見川や帷子川、大岡川や柏尾川等の河川が流れ、各流域には谷戸と呼ばれる複雑に入り組む谷筋が数多くありました。人々は谷戸の微高地に屋敷を構え、谷筋の低地を田んぼに、丘陵上の平地や緩斜面には畑や共同の茅場を拓き、里山では筍を栽培し、雑木林から薪や炭を得たほか、養蚕や養畜、天然製氷等、様々な生産活動を組み合わせて暮らしを営んできました。  東京湾に面した沿岸部は漁業が中心となり、豊かな東京湾の恵みが海辺の人々の暮らしを支えていました。遠浅の海では地引き網をはじめ、貝を取る捲籠漁や海苔の養殖が行われ、沖合では帆をいっぱいに膨らませた打瀬船による打瀬網漁をはじめ、巻網漁や延縄漁も盛んでした。  自然とともに暮らしていた人々は、豊作や大漁、大雨・日照り・大風といった厄災避けを神や仏に願い、横浜市域の里や海で、様々な祈りを込めた行事や祭礼を行いました。また信仰や相互扶助のために「講」が組織され、定期的に寄り合って念仏を唱えたり、地域の共同作業や葬儀の手伝い等を行ったりしました。  高度経済成長期以降の開発や埋め立て、生活様式の変容によって、谷戸や海辺で営まれた暮らしは大きく変わりました。しかしその姿は、多くの市民や地域の理解・協力によって伝えられてきた民家や石造物、祭礼や芸能といった様々な有形・無形の文化財、田園や谷戸といった景観等を通じて現在でも垣間見ることができます。